第16話「はじめては街を見下ろしながら⑨」
【side冬華】
そうだ、これでいい。
隼人は目を丸くして、こちらを見ている。そんなどこか間の抜けた表情ですら、私にとっては心の底から愛しいと思える。
もちろん、キスしてほしいと言ったのは本心だった。
彼に抱かれて、彼に身を委ねて、すべてを奪ってほしいと本気で思っていた。
だけど、それで彼を困らせるのは本望ではない。
だって、隼人にはもう恋人が居るのだから。
本当は私に恋人が居ると、言ってしまった嘘はすぐにでも取り消したかった。しかし、今更、そんなことをしたところで何になるというのだろうか。
私にとって、加賀隼人という男は世界のすべてだ。
彼の幸せこそが私の幸せ。彼が楽しく安らかに生きていくためなら、私はどんな犠牲を払っても構わない。
なら、この胸の痛みは、私の奥の奥にしまっておく。絶対に表になんてだしたりしない。彼を困らせることになってしまうから。
隼人は優しい。もし、私が彼に思いを告げれば、私を同情心で受け入れてくれるかもしれない。だけど、そんなことあってはならないのだ。
観覧車はまもなく地上にたどり着こうとしていた。そんなときに隼人は言った。
「なあ、冬華」
深く響くような彼の声。
「キスしようぜ」
彼はいつの間にか私の背中の壁に手をついていた。
彼の整った顔が私のすぐ目の前に迫っていた。
「え?!」
これはいわゆる『壁ドン』!
もともとは隣の部屋の住人の騒音に対する抗議という意味で使われていた言葉が、いつの間にか男性が女性を壁際に追い詰めて迫ることという少女マンガチックなシチュエーションの意味合いに変わっていたというあの――
「ど、どうしたの、隼人?」
動揺する私に向かって、隼人は言う。
「さっき言ったじゃねえか。『練習』だって。やっぱり、一度しとこうかと思ってな」
「そ、そんな……! た、確かにそう言ったけど……!」
本心を言えば、彼の唇を受け入れたい。
だけど、こんなやり方で彼の唇を奪うのは、あまりにも卑怯でずるいと思ってしまう。さっきは自分から迫ったくせに、逆に相手から迫られたら、こんな風に思ってしまう辺りが私の中途半端なところだ。
でも、彼の吐息が私の口元にかかって、彼の熱視線が私の瞳に突き刺さると、私は動けなくなってしまった。
すべてを彼に委ねて、無茶苦茶にされたい……。
そういう女としての願望が私の中で音を立てて、暴れ出した。
今ただ、目を瞑るだけで、私は彼を手に入れられる。そう思うと私は――
「冬華……」
そんな風に私を呼ぶ隼人に私は――
「だ、だめだよ……」
見事にヘタレをかましていた。
「そ、そういうのって、よくないと思う……」
正直、もうすべてを彼に委ねてしまいたかった。しかし、『練習』なんかで彼の大切な初めてを奪っていいなんて、私にはどうしても思えなかった。お互いが好きあって、初めてそういうことはするべきだって思うから。
「ふ……」
何も言えなくなった私を見て、隼人はにまりと口の端を歪めた。
「引っかかったな、これは冗談だ!」
「……え?」
「おまえから仕掛けたくせに同じ手口にひっかかるなんてな」
そんなことを言って、高らかに笑うのだ。
「おまえの真似をして反撃してみただけだ。どうだ、刺激が強すぎたか?」
こいつ……!
正直、かちんときたけれど、確かに先に仕掛けたのは私の方だったので、私は何も言えなかった。
そんなやり取りをしている間に、私たちの乗るゴンドラは地面まで戻ってきた。係員によって、ゴンドラの扉が開けられる。隼人は扉の側に立って、私に向かって手を伸ばした。
「ほら、降りるぞ」
私は差し出された彼の大きくて暖かな手を握る。その手を強く強く握りしめる。もう離さないように、ずっと繋いでいられるように。
「うん。行こう、隼人」
私は彼の手に導かれながら、地面に降りる。
暖かな夕焼けが私たち二人を照らしていた。
願わくばこんな時間がずっと、ずっと続きますように。
私は世界を見下ろす神様に、そう祈るのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます