第15話「はじめては街を見下ろしながら⑧」
【side隼人】
「楽しかったー」
冬華は両手を天に向かってぐっと突き出し、伸びをする。そして、頬を緩めてふにゃりと笑う。そんな彼女の天女のような笑顔を、暖かな夕暮れがそっと彩った。
俺と冬華は観覧車の中に居た。俺たち二人を乗せたゴンドラはゆっくりと天に向かって、昇っていく。窓の外に目をやれば、この遊園地がある街の景色を一望できる。遊園地の周囲には住宅街が並んでいて、もう少し向こうには鉄道が見える。さらにその奥にゆっくりと流れる大きな川が見えた。
「今日はありがとう。付き合ってくれて」
冬華は目を細めて、俺の方を見ていた。
俺はそんな姿に打ちのめされそうになる。
(冬華は本当にかわいい)
細めた目元、緩んだ口元、小さなえくぼ。何もかもが愛しい。彼女のためだったら、どんなことだってしてあげたい。そう思わせる何かを彼女は確かに持っている。
だけど、俺はそんな気持ちを素直に表現することができない。
「まあ、あくまで練習なんだけどな……」
そんなことを言いながら、俺は愛しい冬華からそっと目線を逸らした。
「そうだね……」
すると、冬華の少し沈んだ声が俺の耳を叩いた。
そんな声に俺の心は強く締め付けられる。
本当のことを言えば、すぐにでも「彼女がいる」と言ってしまった嘘を取り消したい。それで冬華に好きだって言いたい。
だけど、そんなことをして、何になる?
だって、冬華にはもう彼氏が居るのだ。
今更、幼馴染の俺から告白されたって、冬華を困らせてしまうだけだ。
冬華は優しい。もしかしたら、同情心で俺の告白を受け入れてくれることはあるかもしれない。だけど、それは俺の望むところではなかった。
俺は冬華のことが世界の誰よりも大切だ。
だから、冬華は世界中の誰よりも幸せになってほしい。
冬華が幸せになれるなら、俺は自分自身がどうなっても良かった。
だから、彼女を犠牲にして、自分が幸せになる選択肢なんて、俺は絶対に選べないのだ。
「ねえ、隼人」
観覧車はまもなく頂点に達しようとしていた。
「昔、二人でこの観覧車に乗ったよね。覚えてる?」
それは子供のころ、お互いの家族にこの遊園地に連れてきてもらったときのことを言っているのだろう。
「……どうだったかな」
俺が冬華との思い出を忘れることなんてあるはずがない。本当はすべて記憶している。けれど、いつもの調子で憎まれ口を叩いてしまう。
「忘れちゃったの? ひどいなぁ」
あのとき、俺たちは――
『ねえ、とうか。またここに来ようよ』
『わかった、約束だよ、はやと』
そう言って、笑い合った。
なぜ、あのときのように素直に笑い合えないのだろう。そんなことが少し悲しかった。
ちょうど、俺たちのゴンドラが頂点を過ぎ、下に向かって降り始めた頃に、冬華は言った。
「ねえ、隼人」
甘えたようなとろける声色。
「キス、してみる……?」
冬華は頬を赤らめて、そう呟いた。
「な?!」
俺は思わず、絶句する。
キス……?
キス……?!
「な、なにを言って」
動揺する俺に向かって、冬華は慌てた調子で言った。
「ち、ちが……! 勘違いしないでよ! これは『練習』なんだから!」
そうだ、そもそも今日、俺たちは『デートの練習』のために、この遊園地を訪れていたのだ。デートの中でキスをすることだって、あるだろう。ならば、それを練習しておかねばならないというのは一応筋は通っている。
「キスって、上手いとか、下手とかっていうじゃない? ということは、恋人と本番をするときに下手で幻滅されたら困るでしょ?」
「ま、まあ、そうかもしれんが……」
言っている理屈は解る。だが――
「そんなキスなんて軽々しく練習するものじゃ――」
「軽々しくなんてないもん……」
冬華は顔を伏せながら呟いた。
「誰にだって言うわけじゃないもん……私は隼人だから……隼人だからいいんだよ……」
冬華の表情は長い前髪に隠れて見えなかった。
「ねえ、だから、隼人……」
冬華はそっと顔を上げて言った。
「キスして……」
そんな彼女に俺は――
「だ、だめだろ……」
見事にヘタレをかましていた。
「やっぱり、そういうのは恋人同士でやるべきだと思うからさ……」
正直なことを言えば、俺は冬華とキスをしたかった。だが、彼女の何よりも大切なファーストキスを俺が『練習』なんかで奪っていいはずがない。冬華だって今は熱に浮かされてこんなことを言っているけれど、軽はずみにこんなことをすれば、後で絶対に後悔するはずだ。
「ぷ……」
黙り込んだ俺を見て、冬華は吹き出した。
「なんて、冗談でした!」
「……は?」
「キスなんて、練習でするわけないじゃん」
そんなことを言って、けらけらと笑うのだ。
「今のは、隼人をちょっとからかってみただけ。あ、隼人には刺激が強すぎたかな」
この女……!
俺は真剣に考えていたというのに。
そっちがその気なら――
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