第5話 溶解。

 結局五日間入院した病院では、れいちゃんや写真部の皆、それに航くんのおばさんや孝広くんまでもがお見舞いに来てくれた。

 お母さんと航くんのおばさんはお互いのメアドを交換して、また親しく付き合うようになったみたいだった。嬉しかった。

 退院した後もしばらく松葉杖の生活だったけど、それも何だか結果往来だと思うのは不謹慎だろうか。というのも、航くんが毎日家から学校までの往復を面倒見てくれたからだった。

 松葉杖だからあんまり早く歩けないけど、毎日学校と家の往復に付き合ってくれた。

 最初は皆に見られて恥ずかしかったけど、航くんがすごく一生懸命やってくれることが嬉しくて、いつの間にかそんなのも気にならなくなっていた。

 周りはだんだん見慣れてくると、そんなに私たちの事を騒がなくなっていった。人の噂なんてそんなものだよな、と航くんは笑って言ったのが印象的だった。

  

 結局デジタル一眼レフカメラはダメになってしまった。水没と衝撃で完全にイカレてしまい、メーカーでも直せないとのことだった。お父さんはまた買ってくれると言っていたけれど、今のところはフィルム式のカメラとミニデジカメがあるからいいと言って断った。

 それより。奇跡的なことに、メモリーカードに残っていた写真のデータが消えずに残っていた。水没しても乾けば時々こうやって奇跡のようにデータが復活するときもあるんだって、あの多胡先輩が教えてくれた。

 メモリーカードで奇跡的に復活できた写真のデータの内、一番気になっていたのが、最後に撮った航くんの写真だった。見た瞬間、想像通りに美しい写真だったのにうっとりした。航くんは本当にかっこよかった。

 私はこの写真のデータを、こっそり〆切ギリギリだった写真雑誌の賞に応募した。

 作品のタイトルは、“本当は透明って、まだ知らない人”。

 透き通る程きれいな心を持っているのに、それにまだ気づいていない人。そう、航くんそのもの。

 航くんが怒るだろうから、学校行事の展示にも飾れないし勿体ないと思っていた。でも、誰かに見てもらいたくて。私がきれいだなと思ったあの一瞬を、例え全然知らない人にでもいいから見てもらいたくて。応募した後は、すごく満足した気持ちになった。


 退院してから、航くんと学校の売店隣のテーブルスペースでお弁当を一緒に食べるようになった。一緒に勉強するようにもなって、色々なことを話した。

 実は私がプールに落ちる前、航くんは約束通り孝広くんと話をしてくれていた。私が孝広くんに見せたシロウト丸出しのムーンウォークをきっかけに、孝広くんは通っている中学校にダンス同好会を作ったらしい。何かやるとは聞いていたけど、そこまでとは思わなかった。

「あいつがステップの話してる時、すごくイキイキしててさ。両親も俺も皆で応援してる」

「よかったね」

「ちなみに下着の色は、ドドメ色だったってあいつに言っといたから」

 ?! ドドメ色って何色?! それ確実に花の女子高生の下着の色じゃないでしょ!

「ひどい! 中学生の夢を壊しちゃだめ!」

「あはは」

 航くんは良く笑ってくれるようになった。冗談もよく言ってくれるし、返してくれる。そんな普通のことがただただ嬉しかった。まだ、航くんは長袖のタートルネックシャツを着て、ベージュの手袋をしていたけれど。

 私は航くんに、前に図書室で調べていたことを聞いた。

「ああ…砕いて言うと、中学とか高校の体育の先生とか、スポーツのコーチとか、スポーツプログラマーとか、まあ要するにスポーツをする人の補助をする仕事に興味があって、少し勉強してる。高橋も、それから新沼も結構俺の話し聞いてくれるし」

 新沼くんとも仲直りというか、話をするようになったんだ。よかった。

「そっか。航くん、前向きだね。実は私も、少し…心理学とかに興味があって、その…カウンセラーとか」

 航くんは、ぱっと顔が明るくなった。

「俺、カウンセラーの人を一人知ってる。よかったら紹介しようか? すごく良い先生だよ。じいちゃん先生だけどね」

「うん、今度時間がある時にでも…」

 まさか、すでにもう会っているとは言えないよね。うん。

 私は航くんのことを考えながら、もっと人を心の面から支える仕事がもしできるならいいなと考え始めていた。どんな仕事があって、どんな勉強をしなくちゃいけないのかとか、全く未知の世界。でも、その未知の世界が、キラキラと眩しく光ある世界だと信じたいと思った。


「それから、告白された写真部の部長のことだけど」

 私はいきなり現実に戻ったことに驚いて、思わず飲んでいたポットのお茶を少しこぼしてしまった。

「この前、ちゃんと話した。未だにあの先輩が俺のこと好きだっていうのは信じられないけど、信じられるとか信じられないとか、そういうことが問題じゃないんだってわかったし」

「うん」

 私は、うんとしか言えなかった。

「先週、先輩にちゃんと言った。今はお前が好きだし付き合ってるからすみません、でも気持ちは素直に嬉しかったですって」

 他の人にちゃんと、私が好きで付き合っているって言ってくれたんだ。

「え? 何か、間違ってた?」

 航くんは黙っている私に不安になったのか、あわてて聞いて来た。

「間違ってないよ。ただ…胸がいっぱいになっただけ。ありがとう…そう言ってくれて。すごく嬉しい」

「うん。先輩からも、ちゃんと話してくれてありがとうって言われた」

 実はそのあと、多胡先輩が今度は元水泳部部長の荒川先輩に猛アタックをしていると噂に聞いた、というか本人が私にわざわざ話してくれた。

 多胡先輩は毎日荒川先輩のクラスに通って、もう引退したはずの先輩に泳いでもらおうと、つまり水着姿になってもらおうと必死にアプローチしているらしかった。たぶん、あの人は単純に筋肉好きなんだと思う…口には出さないけど。

 私は切り替えの早い多胡先輩を嫌いにはなれなかった。はっきりものを言う人だけど、心は純粋そのものだ。荒川先輩は高橋先生のセクハラにも動じない人だし、男性同士だけど上手く行けばいいな…と心から思った。

 私は、文化祭の最後に見た多胡先輩の女装の美しさが忘れられなくて、ちょっとだけおしゃれに気を使うようになった。メイクも高校生らしく、ちょっとだけ。

 ゆいにやり方を教えてもらって、初メイクをしていった日。航くんは何も言わなかったけど、駅での別れ際に初めて傘の中でキスされた。透明の傘だったから全然隠れてなくて、お互いそれに気づいたとたん、ものすごく恥ずかしくて慌ててしまったけど。


「手紙の返事はどうなった?」

 私は話題を変えて、ずっと気になっていた事を聞いてみた。

「うん、丁度…昨日来てた、返事」

 航くんは、あのあとカウンセラーの小西先生とも相談して、例の助けた子供に手紙を書いたという。

 大した内容のない手紙だと航くんは笑っていたけど、ずっと今まであの子のことが心配だったんだと思う。今更手紙を書いてなんて思うだろうとか、母親と祖父を助けられなかったことを恨んでいるんじゃないかとか、実際に手紙を投函するまで色んなことを考えたと話してくれた。

 たぶん、当事者じゃないとその気持ちはわからないと言った航くんは正しいと思う。

 だって私なら。自分が助けた子供が、母親と祖父を助けられなかったことを恨んでいるなんて絶対思わないと断言できる。でもそう思えるのは、やっぱり当事者じゃないから。

 そうやって、いつも航くんは他人との心のギャップに苦しんでいたのかもしれない。

「絵が入っててさ。なんかあの子のヒーローらしいんだ、それが」

 航くんは、苦笑いしながらその絵を見せてくれた。

 大きな画用紙に、いっぱいに描かれた、酷いボサボサ頭の人間。白い上着に黒いズボン。そして、大きく翻った緑色のマント。そして同じくらい大きなひらがなで“ぼくのひーろー”と書いてある。

「たぶん、あの子は自分が使っていた毛布と一緒に車内から出る時に、俺がその毛布のマントをしてるみたいに見えたんだな。黒いのは中学の制服だよ。よく覚えてるよね、あの子」

 添えられた父親の手紙には、助けてもらって本当に感謝していること、お子さんは航くんのことを今でもヒーローだと思っていること、航くんのやけどを気遣う言葉、その後のお子さんの成長記録など、十二枚もの手書きの手紙にびっしりと書かれていた。

「よかったね。手紙書いて。航くんは、本当は髪の毛ボサボサの緑マントのヒーローだったんだ」

 私はドサクサにまぎれて、航くんの髪を撫でた。柔らかな髪。ちょっとだけ塩素で傷んで茶色くなった髪。

「うるさいな。また変なこと言うと、お前のばあちゃん言いくるめて風呂入るの手伝いに行くぞ」

「ごめんなさい! お願いだから、それだけは絶対やめて!」


 航くんが時々感じていた“幻の熱”が、最近現れなくなったと航くんがある日教えてくれた。

 私は航くんからのメッセージでそのことを知った。

 恥ずかしかったのか、それともすぐに私に伝えたかったのかそれはわからないけど、カウンセリングが終わった後すぐに送ったみたいだった。

 “なんで今まで気がつかなかったんだろう、それくらい気持ちが落ち着いていたのかな”とメールに添えられていた。おかげで食事中だった私は着携帯の信音に驚いて、おばあちゃんに怒られるくらいだった。

 手紙の返事をもらったのが理由なのか、私に何か関係があるのかそれはわからない。でも、何がよかったのかなんてこの際どうでもよかった。航くんのずっと抱えていた苦しみが水に溶けるように、ゆっくりと解き放たれ始めたように感じた。

 単純に嬉しくて嬉しくて。一人になってから、おばあちゃんに気づかれないようにふとんの中でこっそり泣いた。


 しばらくしてから私の右足を覆っていた石膏は取れたけど、久しぶりに見た左足は、随分細くなってしまっていた。使ってない筋肉が減った分、反動のむくみも激しい。でも石膏なしの歩行は松葉杖でも随分楽になり、その頃から航くんの送り迎えを断っていた。

 その分、朝の水泳を再開してほしかった。その代わりお昼は一緒に食べ、帰り道も駅まで送ってもらっていた。日増しに寒くなっていくけど、私の心はすごく温かかった。


 期末テストが終わった翌日。いつもの売店隣のテーブルスペースでお弁当を食べていた時、航くんが急に切り出した。

「俺、今度水泳部に入部するから。さっき入部届けを高橋に出して来た」

「え? どうしたの急に?」

「昨日決めたんだ。前から荒川先輩にも勧められてたし、ちょっと思うところもあってさ。その代わり火曜と金曜、朝の出迎えできるから」

「そっか…出迎えなんていいよ。でも、何かあったの?」

 航くんは、急にじっと私の顔を睨みつけた。

「あのさ。お前、俺に隠してることあるだろ」

「えっと…なんのことかな?」

 カウンセラーの小西先生に会った事はまだ話してない。小西先生が航くんに言っていたら、絶対怒って聞いてくるはずだから、まだ言ってないんじゃないかと思った。

「何って、写真のことだよ」

「ああ、秘密にしておいてくださいって言ったのに…ごめんなさい!」

「秘密に? なんでそんなことするんだよ」

「だって…おばさんはタキシード姿見逃しちゃったっていうから、航くん大好きなおばさんに喜んでもらおうと…」

「タキシード? お…お前あの写真をお袋に見せたのかよ!」

「だっておばさんすごく喜んでたし、秘密にしてくれるって言ったから!」

 航くんは大きなため息をついた。 

「お前は…いつも俺をそうやって驚かせてくれるよな。違うよ、そのことじゃない。ってかそれも知らなかったけど」

 航くんは、カバンの中から雑誌を一冊取り出した。中に付箋がついている。

「これだよ」

 それは、部活で定期購読している写真の雑誌だった。

「山田さんにでも借りたの? 私から返してあげようか?」

「バカ。お前、もしかして知らなかったとか?」

 そう言いながら、航くんが少し恥ずかしそうに開いたベージには、私が応募した航くんの写真が半ページに大きく掲載されていた。航くんの体から飛び散った水滴が、朝の強い光に反射してキラキラと光るあの写真。

「何これ?」

「それはこっちが聞きたいよ! 昨日近所の本屋のおっさんにオタクの息子でしょって言われたって、お袋が興奮して買ってきたんだよ。

「本屋さんって、中身までちゃんと見てるんだ」

 私は思わず的外れなことを言ってしまった。

「そこじゃないだろ、あい! なに勝手に人の写真撮って、しっかり優秀賞とか取ってんだよ」

「優秀賞?」

 確かに写真の下に、優秀賞と書いてある。

「ご、ご、ごめんなさい! えっと…水没したカメラはだめになっちゃったんだけど、データは奇跡的に復活したんで、その、航くんがすごくかっこ良かったから…誰かに見てもらいたかっただけなの! 勝手に送ってごめんなさい!」

 あわてて雑誌で顔を隠しながら懸命に謝った。また怒られる!

「コラ、俺の写真に鼻のアブラつけんな」

 雑誌の向こうから目だけを出してこっそり航くんを見ると、テーブルに頬杖をついて優しい目で笑っていた。

「お前の写真、前からいいなとは思ってたよ。文化祭の時見て思った。没収した写真もなんだかんだ言ってまだ持ってるし。お前の目から見ると俺ってこう見えるんだなって…この写真とタイトル見た時、すごく不思議だった。やけどの痕も映ってたけど、自分が思ってるほど…悪くなかったし」

 航くんは、ただ少し照れた笑顔で“ありがとう”とだけ言った。

 私は、あとで聞こうと思っていたことを聞きそびれてしまった。いや、もしかして、もう聞かなくてもよくなったのかもしれない。

 なんで今日は、タートルネックを着ていないのか。なんで手袋をしていないのか。

「トロフィーと副賞にデジタル一眼レフカメラだってさ。丁度よかったじゃん」

 デジタル一眼レフ…カメラはすごく高いから、お父さんにまた買ってもらうのは気が引けたし、そもそももう高校生なんだから自分でその位どうにかしないとなあとは思っていた。

「気にしてくれてたんだ。カメラがダメになっちゃったこと」

「まあね。俺がすぐ気づけば、もしかして復活したのかもと思ってたから」

「どのくらい水に浸かってたかは問題じゃないよ。プールに落ちた時点で、もうダメだったんだから」

「そっか。じゃあ問題は、お袋にタキシードの写真を見せたことだけだな」

 航くんは嬉しそうに、手袋のない右手で私の左頬をぎゅっとつまんだ。

「ごえんらさい…」

 私は航くんに頬をつままれたまま、泣きそうな声でそう言った。

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本当は透明って、まだ知らない 倉橋刀心 @Toushin-Kurahashi

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