第4話 感受。

 翌日の早朝、私は室内プールの脇にある二階の欄干の脇で航くんの泳ぎを、膝を抱えてこっそり盗み見していた。音を立てて立ちあがったりでもしない限り、下からだとこちらの存在には気づかない。

 私はカバンからデジタル一眼レフカメラをそっと出して構えた。最初はカメラなんて出さないつもりだったけど、今朝のさわやかな日差しに反射して、プールがキラキラと輝いているのを見た私は、ファインダーを覗かずにはいられなかった。

 もし、航くんがもう泳ぐのをやめると言うために今日呼び出されるのなら…二度とこの姿は拝めなくなる。ならばせめて、一枚でもいいから写真に収めておきたい。

 右から左へ、ゆっくりとクロールで進んで行く。大丈夫、航くんは集中しているから、息継ぎの顔の向きがコッチ向きになってもたぶん見てない、気づかない。

 ザバザバと航くんの泳ぐ水の音が室内の全体に響いて、他の音は何も聞こえない。水面に揺らぐ光が反射して、天井に美しい波模様を作り出している。

 なんて眩しい世界なのだろう。そしてその世界の中で独り、水を切って泳ぐ人。

 ああこの人、水と同じくらい透明なんだなと思う。そしてたぶん、本人はそれに気づいていない。

 しばらく泳いだ航くんはプールサイドにあがった。ゴーグルとスイムキャップを外した瞬間、私は夢中でシャッターを切った。体から飛び散った水滴が、朝の強い光に反射してキラキラと光った。…なんて、なんてきれいな人なんだろう。

 しばらく見ないうちに、なんだか体つきも変わった気がする。最近ずっと泳いでいたせいだろうか。今までそんなにマジマジと見たことなかったけど…。

 私は更衣室に消えてしまう航くんに声をかけようとした。隠れていたけど、やっぱりちゃんと話をしたかったから。今の航くんに、私の今の気持ちを知ってもらいたい。そして、色々なことを謝りたい。謝ったうえで、本当に航くんのことが好きだから、ごめん、ウザがられてもやっぱりほおっておけないと言いたい。

 「むらか…」

 慌てて立ち上がろうとして照明のケーブルに足を取られ、一瞬にしてバランスを崩した。

 転びそうになるのをなんとか立て直そうとして、さらに慌てて握った欄干は…それは欄干ではなく、ただのビニールテープだった。

 今朝来た時は、確かにその箇所だけ老朽化で手すりのパイプが切れて修理していることは知っていた。でも、まさかその場所にうっかり体重をかけてしまうなんて。

 こんなにバランスを崩したら下に落ちるのは必須だ。せめて、プールサイドではなくプールの中に落ちないと!

 私の体がそのまま宙へ浮いた時、とっさに足でコンクリートを思い切り蹴ってジャンプした。

 私は首にかけたカメラを手にしたまま、必死で前へ前へと目指した。

 プールが近づいてくる。水に触れた瞬間、左脚に衝撃が走った。あっという間に水の中に沈んで行く。その痛みと動揺で息もあっという間にできなくなって、代わりに水を大量に飲んでしまう。やっぱりだめかもしれない。やっぱり鈍感なバカ女だ。私はそのまま、あっという間に意識を失った。


 気がつけば、水の中にいた。あのコポコポと心地いい、水の中に揺らいでいた。私も小学生の頃、プールが大好きだった。夏休みは良く友達と近くの市民プールにも行ったし、学校のプール開放時にもよく通った。海も好きで、浮き輪にゴーグルをつけてずっと水の中に潜っていた。水の中に潜って、あのコポコポという音をずっと聞いていたかった。

 でもいつも水から上がると、体がずしっと重くなって、現実に引き戻されるような感覚がした。ヒグラシが鳴いて、涼しい夏の夕暮れ。水から上がると寂しい。寂しい寂しい。ずっと水の中にいたい。水の中は安心する。このままずっと、水の中に漂っていたい。揺らいでいたいよ、お母さん。


 突然、激しい痛みが体中を駆け抜けて、驚きで目が覚めた。

 思わず声にならない声が出てくる。何でこんなに左足が痛いのかわからない。ずしんと重い痛みが足の中から湧いてくるようだ。

 思い出した。私は水から上がったんだ。そして今、スルスルすべる眩しい程白いシーツの中で私は横たわっている。体は濡れていなかった。

 周りを見回すが、まだ自分がどこにいるのかよくわからない。

 薄暗くて、左に小さなテーブルライトが見えた。カーテンで囲まれている。保健室? 誰かいるみたいだ。

 体を起こそうとして、もっと足の痛みを感じてまだうめき声が出てしまう。

「千葉! 起きたか!」

 心配そうに私を覗き込んだのは、高橋先生だった。知っている人の顔を見て、ほんの少し安心した。

「先生、…ここどこ?」

「いいから寝てろ」

 先生は体を起こそうとする私を制した。前から、こんな優しい声を出せる先生だったっけ?

「助かったな。覚えてるか、お前二階からプールの中に落ちたんだぞ」

 先生の声は、まるでささやくような声だった。

 ああ、そうだった。私はあの時…航くんを追おうとして。よろけて、ジャンプしたんだ。

「足…足がものすごく痛いです」

 少しでも左足を動かそうとすると、また激痛が走る。頭の違和感は何だと思って触ってみると包帯を巻いている。確かに頭もズキズキする。何かにぶつけたのだとしたら、たぶん首に巻いていたカメラかもしれない。

「だめだ、動くな。お前はプールのふちに左足をぶつけて骨折したんだよ。全治約八週間だそうだ。これでも軽いんだってよ。お前は本当にラッキーだったな」

 全治八週間…こんなに痛いのが八週間も続くのか。

 私はまだ朦朧とした意識のまま、カメラを探した。

 色々ある機械やらチューブの先、テーブルの上に乗っているデジタル一眼レフを見つけた。半分ライトの影に隠れて見えなかった。

「さっきまでお前のおばあさんが来てたんだけど、着替えを持ってくると言って出て行った」

「あ…ありがとうございます。学校は…今何時ですか?」

 本能的に言葉が出た。

「今日は土曜日だよ。お前一日寝てたんだ。えーと、今の時間は…四時半。朝のな」

「土曜日…お腹すいた」

「はは、そりゃよかった。とにかく、今看護師さん呼んでくるから、待ってろ」

 高橋先生は立ち上がって部屋を出て行った。

 しばらくして看護師さんが来て、てきぱきと血圧を測ったり採血したりと慌ただしくしていた。

「もう少し朝までゆっくり寝てくださいね。この部屋は四人部屋だけど、まだ機械の交換が終わってないの。当分は実質独り部屋見たいなものだから、安心して寝てていいわよ」

 出て行こうとする看護師さんにあわてて声をかけた。

「すみません。さっきの人、私の先生なんですけど、まだ廊下にいたら来てもらえるように言ってもらえませんか?」

 看護師さんは無言でうなずくと、部屋を出て行った。

 そして高橋先生が入って来た。

「どうした?」

 さっき座っていた椅子に腰掛けてくれる。

「先生が…私を助けてくれたんですか?」

 とたんに先生が笑顔になった。

「いいこと教えてやろうか? 千葉。お前を助けたのは、村上だよ」

 ああ…やっぱり。航くんなんだ。航くんが私を助けてくれたんだ。

 急に胸が苦しくなって、足の痛みと同化するようだった。涙が思わず溢れる。

「おいおい、泣くなよ。って言っても無理だとは思うけど」

「先生、私全然覚えてないんです。プールに落ちた瞬間、左足がすごく痛くなって、水をたくさん飲んじゃって息が苦しくなって…村上くんは? 大丈夫なんですか?」

「あいつは、終電までここにいたんだけど、俺が帰らせた。あいつも一緒に救急車で運ばれたしな」

「一緒に? 村上くんに何かあったんですか? 大丈夫だったんですか?」

 必死な私を先生は両手でたしなめた。

「どーどー。落ち着けよ。電車で帰れる位なんだから大丈夫に決まってんだろ。じゃあまあ…少し話すか」

 先生は椅子に座ったまま壁にもたれて、静かに話を始めた。


 昨日の朝、高橋先生は航くんがもう泳ぎ終わって更衣室にくると思い、先を歩いてトイレに入ったという。トイレから出て来た時、プールで誰かが大声で助けを呼んでいる。慌ててプールに戻ると、航くんが半分だけ体がプールサイドに横たわっている私の胸を懸命に押していたという。

 先生はその姿を見てまずはプールの事務室に急いで戻り、救急車を呼んだ。その後プールに戻ってみると、航くんも私の横で倒れていたそうだ。

「あいつはね、ただ失神しただけ。俺もさすがに慌てるじゃん。でも呼吸を確認したらもうお前もあいつもちゃんと息してたしな。ただ、いっぱいいっぱいだったんだろうなあ、おまえを助けるので。プールん中だってお前の血で赤く染まってたし、ビビったんだろ。腕の中でしっかりお前を抱きしめててさ」

 私はとたんに恥ずかしさでいっぱいになった。抱きしめてってえええ!

「病院で目が覚めた村上に聞いたんだ。そしたらあいつ、一通りの緊急蘇生術とか昔消防署で習ってたんだって。“上級救命講習認定者”なんだぜあいつ。俺でさえ最近やっとその講習受けたのに」

 先生は立ち上がって、時計を見た。

「俺はいいかげん、いい大人だけどお前らにはちょっと嫉妬したわ。いいなあ青春って思った。あ、これは他の先生と生徒には内緒。村上にもな、はは。じゃあ俺も寝てないし、そろそろ帰るから」

「助けてくれて、本当にありがとうございます」

「お礼なら、あいつに言え」

 先生は自分で言った言葉に自分で照れながら、あくびをして帰っていった。

 私は目を閉じた。航くんが私を助けてくれた。ああ、またすごく怒られるんだろうな…。

 私はそのまままた深い眠りに落ちてしまった。


 次に起きた時には、何だか周りが騒がしかった。おばあちゃんはおろか、お母さんに旦那さんの石井さん、それからお父さんも来ていた。こんなに一度に皆の顔を見たのはもしかして初めてかもしれない。お父さんは、本当に心配してくれていたみたいで、病院で泣かれてしまった。私自身も、お父さんのこと誤解していたのかもしれない。お母さんの話ばかり聞いて、お母さんの目線でしかお父さんのことを見てなかった。お父さんもお父さんなりに、私のこと、ちゃんと愛してくれていたんだなってわかって、私もお父さんと一緒に泣いた。

「お母さん、病院なんかに来てていいの? お腹の赤ちゃんによくないんじゃないの?」

「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ! いったい何がどうなってあんたはプールに飛び込んだわけ?」

「わざと飛び込んだわけじゃないよ…でもお母さんがそんなに興奮してるなら、落ち着いてから話したい」

 テーブルの脇にまだ置きっぱなしになっているデジタルカメラが目に入った。

「それからお父さん、カメラごめんなさい…」

 フィルム式のカメラ同様、このデジタル一眼レフカメラもお父さんから高校入学祝いに買ってもらったものだった。水に沈んだカメラはもう使えないだろう。

「カメラなんて気にするな。また買えばいい。でも、中のSDカードは抜いて乾かしておいたよ。データが生き返るかはかわからないけど」

「ありがとう。大したもの撮ってないから大丈夫だよ」

 本当は全然、大丈夫じゃなかった。あのキラキラした航くんはたぶん二度と見られない。でも、骨折はしたけど生きてたんだからヨシとしなくちゃ。

 面会時間が終わる夜八時を過ぎて、とりあえず皆は帰ってくれた。生温い微妙な味の夕食のあと、一人でぽつんと四人部屋に残る。大量の花束、大量の雑誌やマンガとともに。

 私はベッドを少し倒して、寝られる角度に直した。

 さて、これからどうやって松葉杖で学校に通うか、どうやってお風呂に入る? 色々な現実問題を必死に考えていたときだった。

 突然ドアをノックする音が聞こえた。

「どうぞー」

 私はてっきり看護師さんの定期見回りだと思って気軽に返事をした。

 しかし…ドアを開けて入って来たのは、なんと航くんだった。

「よ」

 本当に、本当にひと言だけの挨拶だった。

 とりあえず、私は昼間泣きはらしたままの今の顔が酷くないことをひたすら祈った。

「花…お袋と孝広から。花瓶も入り口から持ってきた」

「ありがとう」

 航くんは無言で持って来た花束を色気のないアイスクリームコーンみたいな鉄の花瓶にざっくりと刺して、他の花瓶の隣に無造作に置いた。

「面会時間、もう過ぎてるの知ってたんだけど。ちょっとだけ顔出してすぐ帰ろうと思って」

「よかったら、座って」

「うん」

 航くんは、横に会った椅子に座ってくれた。よかった。少しだけ話せる。

 私はもう一度ベッドの角度を直して、きちんと座れるようにした。

「あの…体、大丈夫? 高橋先生から、村上くんも同じ救急車に乗ったって聞いたから」

「もう大丈夫だよ。昨日は結局一日学校さぼちゃったし、今日も半分家で寝てたしな」

「ありがとう。その、助けてくれて」

「そりゃお前、あんなでかい音立ててプールに落ちた奴見たら、誰だって…」

 私は航くんの少し怒った声を見て、急にしぼんでしまった。

「重かったでしょ、私…」

「ああ、すっげえ重かった!」

 すぐに航くんが笑った。

「すぐにプールに飛び込んだからたぶん大丈夫だとは思ったんだけど。何とか抱えてプールサイドにあげたら…お前は水を飲んでたみたいだったし息もしてなかった。その分暴れないから助けやすいんだけどな。でもああいう時の心肺蘇生って本当に大変なんだぞ。すぐ水を吐いてくれたから助かったけど」

「うん」

 航くんはまっすぐ見つめている私から目を逸らしながら続けた。

「それからその、悪かったな。シャツのボタン引きちぎって。あの時はしょうがなかったけど」

「シャ、シャツのボタン?」

「な…んだ、知らなかったのかよ?」

「だって最初に目が覚めたときはもうパジャマだったから」

「言わなきゃよかった…ごめん」

「ううん、こっちこそ。助けてくれてありがとう」

 でも、シャツのボタン引きちぎったってことは…。

 私は恥ずかしさを感じるのにもちょっとだけ慣れてきた。どうせなら、今こうやって二人きりになれる時に聞きたい事がある。

「ひとつ、聞いていいかな」

「ん…」

「あの交通事故で助けた子と会ったことある?」

 航くんは怒りの表情を私に向けた。

「なんで急にそんなこと…聞くんだよ」

 でも、最後の言葉に戸惑いも感じた。私が、とても真剣な顔で聞いたから。

「…一度も会ってない。手紙とかも書いた事ない」

 永い沈黙のあと、航くんは初めて私に事故のことを話してくれた。

「どうして? たぶん向こうは会いたがってるんじゃないのかな?」

「俺は、嫌なんだ。あの子に何も背負わせたくないんだ。誰かに助けてもらった命だって、周りの皆から言われるんじゃないかと思って」

 航くんは、大きなため息をついた。

「誰かに救ってもらったせいで、あの子の人生があの子のものじゃなくなることが嫌なんだ。そういうのを背負わせたくない。それにあの子の母親とじいちゃんは助けられなくてあの事故で亡くなってる。何で二人を助けられなかったのかって、俺を責めてるかもしれない」

「そんなことないよ」

「わかんないよ。わかんないから、どうしようもないんだ」

航くんは、ギュッと左手で手袋のままの右手をつかんだ。

「実際、あの子が大きくなって、アホみたいな女に失恋したり、バカみたいな野郎どもにいじめられて死にたくなっても、それはあの子の自由だから好きにすればいいって思う。誰かに助けてもらった命だからって、自分の人生をそいつらの望む通りに生きないとダメな義理なんてないだろ。俺はそういうこと言ってんだよ」

「村上くんは、本当に優しい人だね。昔から変わってない」

 私は、シーツをはがして体を起こし、石膏で固めた左足をかばいながらなんとかベッドの脇に座った。

「ちょっと、手を貸してくれないかな?」

「うん。立ちたいの?トイレ?」

 航くんが手袋をした右手と右膝をベッドについて、左手で私の腰に触れた時。私は航くんの背中に両手を回した。

「千葉…」

 航くんごめんね、いつも騙して。

「そのままで聞いて。私、ずっと知りたかった。航くんは何を抱えているんだろうって。でも私はもうやめたの。どんなに考えても、どんなに思っても、本人にしか本人の気持ちなんてわからない。だからその代わりにそばにいて、新しいことに踏み出すきっかけを作りたかったの。例えばプールのことみたいに」

「うん」

 ひと言だけ言った航くんの言葉が、体ごと胸に凄く響いた。温かい。そして、胸の鼓動が伝わってくる。あの時私が泣いた時みたいに。

「でも、どうしても知りたい。どうして…航くんが心をそんなにも閉ざすのか。しつこいって分かっているけど、拒まれても諦めたくなかった。だって私がそうだから。私がもし航くんだったら、拒まれても諦めないで向かって来て、私自身を助けてほしいって思うから」

「…」

 急に我に返ってしまった。私、何やっているんだろう。航くんだって嫌だろうに、こんな。

 私は体を離そうとしたけど、なぜかもっと強い力で押し戻された。

「待って、もう少し…今顔見られたくない」

 今度は航くんが少し震えた声でつぶやいた。鼻を…すすっている。

「俺、今でも毎日後悔してる。こんな体になるならあの子を助けなきゃよかったって。毎日毎日。そして、それを後悔する自分にすごく腹が立つんだ。なんでそんな風に思うんだろう、助けなきゃよかったなんて絶対思っちゃいけないはずなのにって」

 

 ああ、今わかった。

 航くんは、そうやって自分自身を責めていたんだ。自分が許せなかったんだ。


「ごめんね、全然気づいてあげられなくて…。私は航くんが後悔してる気持ちに素直になってもいいと思う。私たち、まだ17歳だよ? たくさん心配してくれる大人たちの中で、意地はって一人で生きていこうなんて百年早いよ。もっと甘えていいんだよ。もっと子供らしく後悔したっていいんだよ」

 航くんは、ゆっくり体を離して、照れくさそうに両手で私の肩を掴んだ。

「ごめん」

「ううん、話してくれてありがとう」

 航くんはゆっくりベッドに私と一緒に座り直した。

「痛かっただろ、頭も少しカメラでぶつけて切ったらしい。昨日はすごく血が出てたから」

 包帯を巻いたおでこをやさしくなでてくれる。

「ううん、大丈夫。今は足の方が痛いかな」

「そっか」

 もう航くんは怒ってないみたいだったけど。

「どうして…一昨日、公園に来なかった?」

 何かを言いたそうだった航くんは、突然せきを切ったように聞いて来た。

「え?」

「メモ、靴箱に入ってただろ」

「だって、明日って書いてあったから…えっと昨日じゃないの? 木曜の朝見つけたから、金曜日の放課後…」

 航くんは、さっと口を押さえて横を向いた。

「俺としたことが…ちゃんと日付を書けばよかった。時間も。俺、靴箱にあのメモ書き入れたの、水曜の午後だ。ってことはお前、あれ読んだの一昨日の木曜ってことか」

「うん、だから金曜日に公園だと思ってた」

 はああっと航くんは、大きなため息をついた。

「そうか…お前来ないから俺、さすがにもう嫌われたんじゃないかと思ってた」

「嫌われたって、あんなに私を嫌ってたのは航くんの方じゃない」

 ちょっとだけムキになった。

「自分が怒りたい時に私がいないのを責めるなんて、どれだけ自己中なの? 今度は何の文句を言うつもりだった?」

 今度は私が怒る番だ。

「ごめん、俺…このままもう言わないでおこうって、さっきまで思ってたけど…」

 航くんはすごく言いにくそうに口ごもる。

「お前、俺の初恋の相手だって知ってた?」

「え?」

 あまりにいきなりで。状況がうまく飲み込めない。

「小学生の頃、よく女子を泣かしてた男どもを殴ってただろ。かっこいいなってずっと思ってた。でもお前があの時…お前が撮った写真を見つけて問いただした時、本気であんなに泣くなんて思わなかった。お前も、女の子なんだって驚いた」

 私は、隣に座っている航くんの顔を見上げた。その顔はこちらをみてはいなかったけど、確かに微笑んでいた。

「初恋なんてずっと昔の話だし、うちでシュークリーム食ってった時だって正直本当にウザいって思ったよ。でも同時にお前が一生懸命俺に何かしてやろうって思う気持ちをずっと感じてた。孝広を見てて、どんどんあいつがお前と仲良くなるの見てて、ああ俺も孝広と同じだなって思った。俺も、ああやって強引に寄り添ってくれる人がほしかったんだと思う。俺の突っぱねにも絶対めげない強引さで、俺も誰かにそばにいてほしいって思ったのかもしれない」

 航くんは、今度は私に向き合った。顔がものすごく近い。

「お前をプールから上げた瞬間、全部分かったんだ。俺、本当はずっと嬉しかったんだって。お前が俺をずっと見ててくれるの、すっごく嬉しかったんだって。だからお前を助けて、俺はやっと救われた。俺はお前に救われたんだ」

 航くんは少し座り直して、私を正面から見据えた。

「お前は今でもかっこいいよ。俺のヒーローだよ。いつ言うかすごく悩んでたんだけど…」

 一拍置いて、航くんは右手の手袋を外し、私の左手に重ねた。やけどの痕が残る右手。でも正真正銘、航くんの温かな右手。

「あい、俺はお前が好きだ。一昨日公園で、それを言おうと思ってた。お前に言われたように、今の俺の素直な気持ちを伝えたかった」

 とたんに胸が締め付けられるように苦しくなって、うまく息ができない。また涙が出そうだ。

「だって今までは私の教室に直接、顔貸せって来てたじゃない。なんで急に靴箱にメモなの?」

「告白する前に、お前の顔を見るのが恥ずかしかったんだよ」

「だって文化祭で私と一緒に写真撮る時…んなに…あんなに嫌がってたじゃない…」

 航くんがついたため息が、私の顔に少しかかった。

「あの時だって…ただ恥ずかしかったんだよ。公園でケンカしたあと、急にお前のこと凄く意識して…普通の顔できなかったから。昼飯一人で食べるようになって、気がついたらずっとお前の事考えるようになってた。もうすっかり、お前に取り入れられたっていうか」

 ちょっとためらって、そしてもう一度まっすぐ私を見た。

「お前が好きだ」

 航くんはもう一度同じセリフを言った。

「私も好き…嬉しい」

 私は涙目になるのを懸命にこらえた。

「それはもう前に聞いた。告白してくれたあの時…酷いこと言って本当にごめん。ずっとずっと後悔してた…また昔みたいにあいちゃん、いや、あいって呼んでいい?」

「もう呼んでるじゃん」

 航くんの指が私の頬に触れて、私は目を閉じた。とたんに大粒の涙がこぼれた。

「キスしていい?」

「まま、まだ歯磨きしてないし…」

「そんなの、今さらいいよ」

 生まれて初めてのキスだった。少し唇が触れただけの、十七歳のファーストキス。

 好きな人と思いが通じた嬉しさで、胸がいっぱいになる。幸せすぎて死んでしまいそうだ。

「ちなみに昨日のはノーカンな。あれもしょうがなかったし」

「昨日の…って? え?」

「え? あ、あれ? だって当たり前だろ! 人が死ぬか生きるかって時に胸だとか人工呼吸だとかビビってるヒマないだろ!」

 航くんは、慌てながらもう一度私をぎゅっと抱きしめてくれた。

「もう、しょうがないだろ…」

「うん、しょうがないよ? でも…シャツのボタン引きちぎって…私の下着、見たんだ」

「ごめん」

「外した?」

「…ごめん。ブラというものを人生で初めて触って、うん、邪魔だったから外した」

 やっぱり外したんだ! しかもその後人工呼吸して…! 裸の胸を触られて…!

「航くんのバカ!」

 私は航くんに抱きしめられたまま泣きながら、目覚めて初めて心から、生きていて良かったと神様に感謝した。

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