第3話 混乱。

 航くんが、ずっと水泳をやっていたことは知っていた。競泳、というんだってことは随分後からになってだけど。でも今は、航くんは完全に帰宅部だった。時々、図書館に行って勉強したり、時々カウンセリングに行ったりしているんだろうか。

 夢中になれるもの、あるんだろうか。あの図書館で調べていたこと?

 私は、入ったこともない体育準備室とやらに足を運んだ。

 水泳部の顧問の高橋先生は、私の体育の先生でもある。顔を覚えられているなら話は早い。

「で、なんだ。用ってのは」

 高橋先生は禁煙パイプをくわえて、机に足を乗せてマンガを読んでいた。公立高校の先生って、こんなんでいいんだっけ?

「はい。先生にしかできない、人助けです」

 私は航くんのことをさらっと説明した。怪我をして、いつもタートルネックを中に来ていること。中学時代は大会で二位をとれる位の実力だったこと。

「村上くんは、もう多分普通に泳げるはずです。村上くんのお母さんも言ってました。でも水泳部にも入らないし、泳ごうともしない。それって、やっぱりやけどのあとを他の人に見られたくないからだと思うんです。だから…朝の時間帯、村上くんが一人で屋内プールを使えるようにしてもらえないでしょ…」

 私の言葉を遮るように、高橋先生はパシン!とマンガを閉じた。

「まあ俺も一応水泳部顧問だし? 村上のことは話に聞いてる。でもあいつばかりをさすがに特別扱いはできないなあ」

 私は畳み掛ける。

「そこを何とか。聞けば、朝の練習がない日もあるらしいじゃないですか。その日を回してもらえませんか」

「でもねえ」

 イラっとした。煮え切らない。

「じゃあ逆に、どうしたらいいんですか? どうしたら特別扱いしてもらえますか?」

 私は高橋先生を睨む。

「うーん、土下座とか? あはは」

 言い終わらないうちに私は片膝をもう床につけていた。

「こんなんでいいんですか? それならいくらでも私やりますけど」

「待て待て待てこういうのはな、相手が嫌がらないと意味ないんだよ、やめろやめろ」

 先生は慌てて私を起こす。

「他の先生に見られたらどうするんだ、アホだなお前」

「よくバカだとはいわれますけど、アホだと言ったのは先生だけです」

「それは光栄なこった。しかし、なんでそんなにあいつにこだわるんだ。惚れたか」

 その質問には答えないで、話を進める。

「村上くんは、こんなこと自分からは絶対頼んで来ないと思います。でも勿体ないと思うから。このまま、見られたくないというだけで水泳をやめてしまうのは勿体ないです。村上くんは、泳ぐのが好きだと子供の頃よく言っていましたし。だから…私が村上くんにあげられるものは今これしかなくて。もちろん目の前にあるものを掴むかこばむかは彼が選択するわけですけど」

 高橋先生は禁煙パイプを上下に揺らしながら、私をちら見する。

「親心かねえ…嫌がるんじゃねえの、そういうおせっかい。あいつ」

 ポイントがずれて来た。いいぞ。航くんが嫌がるかどうかが、もはや論点になっている。

「私が頼んだって言わないですから。プールの更衣室毎日掃除とかどうですか? 私の部活が終わった夕方に来て、プールの更衣室の掃除やります。男子のも女子のも」

 高橋先生はしばらく考え込んでいた。そして軽くため息をついて立ち上がると、黒板の室内プール使用予定表にざくざくと何か書き込んだ。

「毎週火曜金曜の朝六時から授業が始まる八時半までだからな。とりあえず冬休みまでだ」

「ありがとうございます!」

 私は急いでパソコン室に走った。

 どうか、教室が閉まる時間までにプリントアウトできますように。

 今日は水曜日。明日の朝にでも航くんが手紙を読めば、金曜日の早朝には間に合う。

 私はなるべく簡素な文章を打って、プリントアウトした。ギリギリ間に合った。


 『冬休みまで、屋内プールを好きに使ってください。

 毎週火曜と金曜の朝六時から授業が始まる八時半まで独占できます。

 ヒーローより』


 最後のはちょっと気取りすぎかと思うけど、本名も出せないし、どうしたものかとナイ知恵絞って出した結果がこれだ。もっと現国の授業を真面目に受けないとだめかも。

 封筒がなかったから、A4サイズの紙を小さくたたんでそのまま例の靴箱に入れた。

 上履きの中に丸めて入れれば、他人に靴箱の中を見られても大丈夫だし、本人だけがちゃんと気づいてくれる寸法だ。靴箱の手紙はいつだって誰だかバレなくて済むし、メールよりずっとお手軽。


 そして私は金曜の早朝、こっそり航くんを待ち構えていた。屋内プールの方で待っているとどうしてもバレちゃうから、入り口が見える校舎の中で。でも、航くんは現れなかった。

 孝広くんにメールしてみたけど、何も聞いてないと言う。あの日の事をまだ話してもいないという。

 全然だめだ。全然空回りしている。どうしよう。ヒーローなのに敬語だったのがまずかったのかな。

 結局私は何もできないまま、金曜の放課後を迎えた。

 航くんが来なくても掃除はやらなくちゃいけない。写真部の作業が終わったあと、急いで室内プールの更衣室へ入る。

 女子はもう全員帰ったようだ。消毒用の塩素と甘い香りが混ざった匂いがする。

 急いで水を切るワイパーを持って、濡れた床の水を集めて行く。意外とみんなきれいに使っている。髪の毛一本落ちてない。

 トイレもきれい。ささっと洗うだけでピカピカになった。トイレ掃除をすると、心までキレイに浄化されるって、テレビの占い師が言っていた。確かにこれ、いいかも。

 次は問題の男子更衣室だ。中に入ると…予想していた野球部の部室みたいなことはなかったけど、独特のにおい。消毒用の塩素と、何かが混ざったにおい。さらに、かっこいい男の子の匂いもする。なんだろう、これ。制汗剤の匂いかな?

 男子も全員帰ってしまったようだ。その方がやりやすい。汚れてはいないんだけど、とにかく何かの匂いがヤバイ。これが俗に言う男ムサイってやつか。私はそうかと思って用意していた液体消臭剤スプレーを噴射してみる。

 とりあえず掃除は終わった。先生の言われた通りに、自動でロックがかかるドアをセットして家に帰った。

「今日は何だかプールくさいよ、あい。いつもは写真のお酢くさいのに」

 おばあちゃんが珍しくそんなことを言って来た。

「プール掃除してんの、今。クラスの持ち回りで」

「へー今の時代、高校生も何かと大変だねえ」

 いつもにも増してがっつりお肉を食べているおばあちゃんを横目に、私はぼんやりしていた。やっぱりだめかな。予定があったのかな。朝弱い人なのかな。またキモいって、思ったのかな…。


 翌週の火曜日の朝、また私は航くんを待ち構えていた。室内プールの入り口が見える校舎の中で。

 航くんの姿が見えた時、私は思わず無言でガッツポーズを二回もしてしまった。航くんは来てくれた。誰だか知らない人の手紙を信じてくれた。私は急いでプールの入り口に隠れるようにして、航くんが着替えて出てくるのを待った。別にずっと泳ぐのを見ている訳じゃないけど、とりあえず“泳ぎに来た”って意思を確認したかった。

 しばらくすると、すぐに航くんは更衣室から出て来た。

 ちゃんとキャップもゴーグルもしている。そして…もちろんだけど、航くんはやけどの痕を隠さずにボクサータイプの水着だけを着ている。すごく引き締まった身体。航くんはそして、軽く準備運動を始めた。右手から肩にかけて、そして首に残る痛々しい火傷と移植手術の痕。顔には痕が残らなかったみたいだけど、私は少し切なくなった。航くんはやっぱり、やけどの痕を見られたくなくて水泳をやめたのかもしれない。

 立ち上がって、スカートの裾を払った。よし、今日も帰りの掃除頑張ろう。

 と、視線の隅に別の人影を捉えた。誰だろう? 用務員さん? 私は隠れたまま、その姿を確認した。     

 あのジャージは…高橋先生だ! なんでこんな朝早くに? 何か問題でもあったのだろうか。    

 でも私は、今出て行くわけには行かなかった。すっごく心配だったけど、私は二人を残して教室に戻った。

 夕方、また部活が終わってからプールの更衣室に走って行った。すると、高橋先生が他の水泳部員と話しているところに出くわした。この部員さんすごい、筋肉が水着を着ているような人だ。

「あっ…どもです、高橋先生」

「おお千葉、紹介しておくよ、こいつ三年生で男子水泳部元部長の荒川。たまにこいつ、こうやって引退したあとも泳ぎにくるんだ。すごいおっぱいだろ、あはは」

高橋先生はそういいながら、荒川先輩の胸の筋肉を両手で揉んでみせた。私はびっくりして口元に手を当てる。なにこのセクハラっぷり。

 でも荒川先輩は慣れているのか、全く動じてない。

「こんにちは。掃除してくれてるんだってね。ありがとう」

 笑顔までちゃんと返してくれる。先生に胸を揉まれたままで。その先輩のすごい度胸に思わず感服した、違う意味で。

「あの、高橋先生、ちょっとお話があるんですけど」

「あーはいはい。じゃ、そういう事だから荒川、よろしく頼む」

「分かりました、先生」

 そういうと、荒川先輩は実に美しい姿勢でお辞儀をして更衣室に消えて行った。見た目ばかりでなく生活も美しそうな人。

 私は先生に向き直った。

「先生、今朝プールにいらしてましたよね…村上くんに何か問題でもあったんですか?」

 高橋先生は、髪の毛をくしゃりとひと掻きして答えた。

「相変わらずアホだなお前。一人っきりで泳ぐってのはすごい危険なことなの。あいつが急に足つらせて水の中に沈むかもしれないだろ? 必ず誰か救命技術を持った人が見てないとだめなんだよ。それも含めての使用許可だ。俺も最近年なのか、朝早くに目が覚めてな…って、うるせえな。掃除さぼんなよ」

「あ、ありがとうございます! 高橋先生マジかっこいい! 大人の男だ!」

「当たり前のこと言うなよ…」

「それより何だよ、ヒーローって」

 先生が新しい禁煙パイプを袋から出しながら逆に聞いて来た。

「何ですか?」

「知らないけど、ヒーローは誰だってあいつがいきなり聞くから、おまえじゃんって言ったらふてくされてよ。でも俺を無視してもちゃんと泳いでたぜ。あいつ、いいフォームだな。口出しはしないけど」

 航くんは、先生と話したんだ。それでも泳いでくれたことが、私にはとてつもなく嬉しかった。

「私です。ソレ。ヒーローの村上くんにもそれなりにヒーローが必要だと思って」

「そうか。お前がヒーローのヒーローか。更衣室の掃除をする秘密のヒーロー。何かいいなソレ」

 高橋先生は笑って、今度は私の頭をくしゃりと撫でた。


 航くんはこの日から、毎回プールに来るようになった。先生もプールの片隅でマンガを読みながら、ただ航くんが泳ぐのを見ていた。私は絶対姿を見せちゃいけないって思っていたから、遠くで野球を頑張る弟を影で見守る姉…みたいなマンガのシーンを想像して、ひとりで悦に入っていた。でもちゃんと航くんが毎回くるなら、高橋先生もいるし、もう私は来ない方がいいだろう。

 もちろん先生に言われた通り、掃除も毎日欠かさずやった。掃除を毎日やっていると、だんだんコツというか、ポイントが分かるようになって来た。水泳部員の人たちとも仲良くなってきた。

 最初は何で私が掃除するのかとか、すごく違和感あったみたいだけど“水泳部に写真を撮りたい人がいるんで”と言ったら、何か別の方向に皆がそわそわし始めたのはびっくりした。しかも男子部員ならずも、女子部員まで!

 先生に聞くと、部員の記録も若干伸びているという。すごい、このお掃除ヒーロー効果。

 でも肝心の航くんは、私とはずっと距離を置いていた。孝広くんと話しただろうか。小山田くんとうまくやっているだろうか。クラスに溶け込んでいるだろうか。

 私が悩んでも仕方のないことだった。そして実はこの更衣室の掃除は、そんなに長くは続かなかった。


 ある日の昼休み、珍しくれいちゃんと一緒に売店のパンを買った。今日はおばあちゃんが近所のお友達と温泉旅行で家にいない。たまには炭水化物マニアなやきそばパンもいいなと思って、ラップをめくって一口かじった瞬間だった。

「おい千葉、お前に客だぞ」

 クラスの男子が声をかけた。

「へ?」

 何の心の準備もなく焼きそばパンを咥えたまま振り返った先には…またしても航くんが教室のドアに肘をついて立っていた。私の教室のドアに。

「ちょっと、またあとで顔貸してもらえませんか、先輩」

 今度も検討はつく。プールの件だよね、やっぱり。

「あー、また殺されちゃうんだー」

 れいちゃんがまた笑ってつぶやいた。


 航くんの指定した場所は、今度は私の教室ではなく学校の外だった。小学校の近くにある児童公園。確かに昔、ここでよく遊んだ。公園内の遊具は全部新しくなって、何だかカラフルになっていた。色の剥げたタコさん滑り台、壊れそうな木馬、錆びたグローブジャングル…。それでも、ここで遊んだ思い出は消えない。

 私は航くんが来るまで、グローブジャングルの中に座ってぐるぐる回っていた。回るたびにキリキリ音がする。オイルさしたい。

 今日は航くんと話をつけるから、掃除できないと高橋先生にも言ってある。

 もうこの時間帯だと人気もなくて、痴漢にはもってこいのチャンスだけど私には関係ない心配だ。私は鼻歌を歌いながら、小学生に戻ったような気持ちになって本気で遊んでいた。

「お前さ、怒られに来て、なんでそんな楽しそうなわけ?」

 突然の声に振り向くと、石のカバに座っている航くんがいた。

「ご、ごめん…」

「何のことだか、わかってるよな」

「うん」

 私は小さな声で返事をした。

 航くんは続けた。

「今朝、クラスの水泳部のやつらが話してたのを聞いたんだ。お前が毎日プールの更衣室の掃除してるって。どういうこと?」

 航くんは下を向いて、石ころをこつんと蹴飛ばした。

「まあ、大体予想はついてるけどな。俺の靴箱にあのメモを入れたの、お前だろ。高橋の奴に交換条件を出されたのか? 俺がプールを使う代わりに、毎日更衣室を掃除しろって言われたのか」

「違う。私は…私がやりたいことを好きにやってるだけ」

「お前のやりたい事って何だよ。俺に貸しを作りたいのか」

「違うって言ってるでしょ!」

 つい、声を張り上げてしまった。それでも航くんはやめない。

「孝広と何を話せっていうんだ、あいつは俺を憎んでるのに」

「違うよ、孝広くんは航くんのこと憎んでなんかいない! ちょっと…寂しかっただけだよ」

「…」

 航くんは押し黙った。

「ごめん…怒鳴ったりして。聞いて、違うの。私はもっと航くんに周りを見てほしいと思ったの。心配してくれる周りの人が、航くんを腫れ物の様に遠巻きで見てる。そして、航くんは自分で自分を押さえつけてイライラしてる。私はそんな航くんを見てられない。だから自分のためにやるの。自分のために更衣室の掃除をして、航くんに泳いでもらいたいの。泳ぐの好きなんでしょ?」

「俺はお前の偽善のためのコマかよ」

「航くんが泳いでくれるなら、偽善だってなんだっていいよ!」

「そんなこと頼んでねえ」

「分かってるよ、そんなこと。私が勝手にやってることだって十分に分かってる」

 私は立ち上がって、航くんの隣のぞうさんに腰掛けた。

「親が離婚した時、誰にも相談できなかった。どうしたらいいのか分からなくて、辛くて毎日泣いてた。でも、心配してくれるおばあちゃんの立場になって考えたら、私もおばあちゃんのこと泣かせてるって思った。それで、しっかりしなくっちゃって思って。私から、ひとりで住んでるおばあちゃんと一緒に住みたいって言ったの。だから…航くんにも他の人の立場になってみてほしい」

 航くんは私と反対方向を向いた。どうしても私のこと、許せないんだろうな。

「そんなことお前に言われなくてもいつも考えてるよ…だから親の前でヘタなことできないんだって言ってるだろ。俺のとっさの安っぽい正義感だけで、自分の子供が、一番大事にしたいって思っている家族が死にそうになって、病院で大手術を何度もして。最後には留年なんてさ…辛いよな。家族にそんな思いをさせんだよ俺は。罪悪感でいっぱいになるだろ」

 前にも航くんはそんなことを言っていた。航くんは、ご両親が自分を大事に思ってくれていること、ちゃんと分かっている。ちゃんとご両親に愛されて育っている。

「でもその気持ちは、逆に家族の皆を心配させてるんだよ。本当の気持ちを言わない、素直にならないってことがどれだけ相手を不安な気持ちにさせてるか…もっと素直に、ありのままに思ってることを言ってよ」

 航くんは遠くを見ながら、フッと笑った。

「プールの件はどうしてもわからない。なんでそこまでする?」

 話をかわされた。握りしめていた両手に力が入る。

「それは単純に…すごく、単純に…」

 こんなところで言うつもりじゃなかった。だけど…今言わないで、どうやって誤摩化せるだろう。私の今のこの気持ち。

「航くんの事が好きだから」

 私は、今まで一番勇気を出してこのひと言を絞り出したはずだった。

「なんだ…そんなことかよ」

 信じられない事に、航くんは私の告白を鼻で笑った。

「お前は俺の事なんか好きじゃない」

「何言って…」

「もう一回言う。お前は俺の事なんか好きじゃない」

 航くんは振り向いて、私の目をしっかり見て言った。でも、なぜそんな悲しそうな顔なの。

「おまえはガキだから、同情と愛情をごっちゃにしてるだけだよ。そういうのは好きって言わないんだ。ヘタな同情心から、軽々しく好きとか言うな」

 なんで…伝わらないんだろう。なんで、こんなにもつらいんだろう。

「同情って…なんで勝手に決めつけるの。航くんのおばさんに対する態度とか、私が泣いてた時に戻って来てくれたこととか、航くんが今でもすごく優しい人なんだってわかるよ。孝広くんもそういうの分かってるから、逆に自分が子供っぽいって思い知らされて反抗してるだけじゃん。それに…航くんは、やっぱりヒーローだよ。子供の命を助けたんだから…。そういう人を好きになるって自然なことでしょ」

 航くんは、ポケットから右手を出して、見つめている。やけどを隠す手袋をした右手。

「お前に何がわかる。体験してないお前に何がわかるんだよ。俺はヒーローなんかじゃないし、そんなのになりたくもない」

 私もさすがにこのひと言には腹が立った。思わずすっと立ち上がったけど、握りしめた両手はまだ震えている。また、涙が出て来た。

「体験してない人は、全員その人の気持ちがわからないというなら、親が離婚した私の気持ちは、航くんには一生わからない。親が再婚して、父親の違う十七歳も年の離れた弟がもうすぐ生まれる人の気持ちなんか一生わからない。わかるわけない。でも…わかりたいの。そばにいたいって思うの。航くんのことを心からわかりたいって思ってる人が、そばにいるってことを知ってもらいたいの」

「勝手なこと言うなよ!」

航くんが初めて大声を出した。

「私が誰を好きになろうと私の勝手だもん! 相手が振り向いてくれないからってすぐに諦めたり嫌いになったりする程浅い気持ちじゃないもん。真剣だもん! 本気だもん! 私は、辛い事抱えてる航くんごと好きになれる自信があるもん!」

 …言ってしまった。思い切り告白してしまった。正々堂々と正面から、しかも直球で。しかも…泣きながら、叫びながら。

「俺は…お前が手に負えるような人間じゃないよ。本当に俺のことが好きなんだったら、頼むからほっといてくれ」

「何それ…」

 今、目の前にはっきりと見える線を引かれてしまった。好きならほっとけって…もうこれ以上踏み込むなという完全なる拒絶だ。

「帰る」

 ながい永い沈黙の後、航くんはひと言そういって、公園を出て行った。一人泣きながら立ち尽くしている自分が、滑稽でならなかった。

 私たちには時間が必要なのか。それとも、このまま関係ないとか勝手だとかほっといてくれだとか、お互いの主張を受け入れないことにイライラしながら終わってしまうのか。あのささくれ立った心に触れることも叶わないまま。

 でも航くんは、私のことを本気で嫌いになったのはもう確定。火をみるより明らかだった。

 私はこの日、ずっとずっと公園の片隅で、涙が涸れるまで泣いていた。


 結局更衣室の掃除はやらなくていいどころか、禁止されてしまった。航くんが高橋先生に直談判したのだ。私ではなく、自分でやると。そして、それが許可されなければ、朝の使用は今後一切やめると言ったそうだ。

 高橋先生は、それが一番いいだろうと判断した。女子更衣室の掃除は女子が満場一致で男子の侵入を拒否したので、結局航くんは朝のプール使用の前に男子更衣室の掃除をすることで取引は成立した。

 掃除は断られたが、幸いな事に私はプールへの出入りは正式に許された。

 美しい肉体美を形に残すことはやぶさかでなく、記録もなぜか伸びるからとの全部員の意向で、写真部の出入りごと許可された。

 だから私は“火曜と金曜の朝以外”は晴れてプールに出入り自由の身となった。


「それじゃ意味ないじゃん。せっかく勢いで告白までしたのにねぇ」

 れいちゃんが当たり前のようにつっこんでくる。そうだよね、やっぱり。

 いつものランチタイム。もう航くんの奇襲攻撃はないだろうと思うと、寂しさだけが募る。

「分かってるよ。でも今はもうどうすることもできないから、しばらくほおっておく。でも、お前が手に負えるような人間じゃないって、あの言葉がすごくひっかかってさ」

 跳ね返すだけなら、絶対あんな言い方しないから、普通。手に負えるなら、付き合えるってこと?

「それより文化祭の準備、どうしよう!」

 わざとれいちゃんの腕にしがみついてみる。

「知らないよ。あいは部活もあるからコンニャク係になったんでしょ。私は名誉の貞子だから、念入りに練習しないと」

「何を練習するの、れいちゃん怖い…」

 私たちのクラスは、十月に開催される文化祭にお化け屋敷を出店する事になった。

 各文化部でも展示などをやるけれど、写真部は展示とスライドショーをやることになった。

 展示用の大きな印画紙を焼くのと、パネルに張っていく仕事、そしてスライド用の原稿作りなどやることがたくさんで、本当によかった。今はなにも考えなくてもいい、航くんのこと。

 

 二日間ある文化祭の初日、私は写真部の展示のある三階の化学室にいた。

 展示は出入り自由だけど、半分黒幕で仕切ってあるスペースは、時間指定のスライドショーをやることになった。

 写真部の部員達が撮り集めたリバーサルフィルムの写真とデジタルフォトを何枚かずつスライドショーにしてBGMとともに多胡部長がナレーションをつけて行くという指向だ。

 文化部の三年生は、文化祭後に引退する。でも、最後まで本当に面倒見がいいのは先輩のいいところだと本気で思う。

 こういう地味な催し物は、多胡先輩のファン以外には友達など身内しか来ないのが鉄板だ。それでもお客様が来ないよりはいい。少しでも写真の素晴らしさに触れてもらえたら。私たちの視線が捉えたものを、スクリーンを通して見てほしかった。

「こんにちは、悠菜ちゃんはいますかー」

 振り向いた先に立っていたのは、一年の山田さんと付き合っている例の小山田くんだった。

「こんにちは。山田さんはまだ来てないけど、スライドショーの時間になったら戻ってくると思うよ。それまで展示、よかっ…」

 話の途中で何を話しているのか分からなくなってしまった。そして、その小山田くんの後ろに航くんがとても不機嫌そうに立っていた。

「たら見ていってね…」

 なんとか最後まで言い終えると、私は全力で奥の控え室に隠れてしまった。

 こっそりとドアの影から様子をうかがうと、どうやら小山田くんが、山田さんの写真とスライドショーを見に来ていて、それに友達である航くんがシブシブついてきた、という構図のようだった。

 航くんはしばらくポケットに両手を入れて、展示写真を興味なさそうに見ていた。

 確かにそこに展示してある私の写真は3枚ある。自分で写真を撮って、自分でプリントしたものだ。

 でも恥ずかしい。すごく恥ずかしい。おばあちゃんにも“これはどういう意味の写真なの?”と聞かれた、意味不明な写真。おばあちゃんには、芸術に意味がある必要はないって説いたけど。

 いきなり、後ろから肩を叩かれる。

「もうすぐ三回目のスライドショー始まるから、準備して」

 あれから微妙に避けている多胡先輩が話しかけて来た。しかもスキンシップつきで。

 お願いだからトラブルを起こさないでくれと、必死に神様に祈りながらスライドプロジェクターの調整をする。今回の調整係は私なのだ。

 黒幕の中に用意した折り畳み椅子の数が足りなくて立ち見の人も出て来た。予想に反して随分とお客様が増えてきたみたい。

 ちらりと上目使いで、前に座っている頭の中から航くんを探す。あ、一番牛ウロに座ってる。隣の小山田くんと一緒に、頭が二つ飛び出しているからすぐに分かった。

「それでは、そろそろ写真部のスタイドショーを開演させていただきます」

 多胡先輩の合図でCDプレイヤーのリモコンを押して、プロジェクターのライトをつける。

 ここからは、多胡先輩のめくるめく夢の世界だ。あの甘い声で、次々と美しい風景や人物を各部員のコメントともに説明して行く。幻想的な音楽も加勢して、ここだけまるで写真のプラネタリウムのような空間になっていた。

 悔しいけど、多胡先輩は雰囲気作りがすごく上手い。悔しいけど、というのは私にはそんな力量はないからだ。あんな甘い声も出ないし。

 スライドショーはつつがなく進行していき、多胡先輩の声のもと、私の写真も名前とコメントと共に告げられた。

「キラキラと光るものが好きなのだそうです。プリズムから分散された七色の光のように、空から妖精のように舞い降りてくる真っ白な雪を捉えた瞬間。澄んだ空気まで瞬間を切り取ったような、美しい世界です」

 私が今年の二月に降ったお天気雪の写真をスクリーンに出した時、めちゃくちゃ緊張した。でも部員の皆は、この写真はすごい素敵だって言ってくれた。それに何よりちゃんと見ているかなんてわからないけど、航くんの瞳に一瞬でもこの写真が映ったらいいな、という夢はこういう形で叶えられた。すごく嬉しかった。このまま言葉も交わさずに学校生活を送るとしても。

 最後に少しコミカルな写真を集めたシーンになって、私の写真が再び紹介された。

 これは、家の近くの土手沿いを歩いていた時に見つけたものだ。可愛かったので写真に収めたのだけれど。

 その写真がスクリーンに映し出された時、化学室内に大爆笑が起こった。私は何のことやらわからない。

「え、と…この写真の撮影者は二年の千葉あいさん。家の近くの土手を散歩していて川に浮かんでいる“彼女”を見つけました。おちょぼ口がとても可愛かったので写真を撮りましたが、なぜあんな場所に浮かんでいたのでしょうか。ビニール製の彼女は、お洋服だけ流されてしまったようです、とのコメントです」

 再び会場が沸いた。なんで? 皆が皆、私を振り返ってみている。何なの! 私は顔が真っ赤になる。何しでかした、自分?

 その時、私は確かにメガネの航くんと目が合った。口にこぶしを当てて、笑いをこらえている航くんと。あの航くんが笑った。しかも私のよくわからない写真で。

 スライドショーが終わって皆が散って行く中、あわてて山田さんのところに行く。航くんと小山田くんが、二人揃って化学室から出て行ったのをチラ見で見送りながら。

「ね、何でみんな笑ったの? 何かあの写真おかしかった? 一回目と二回目も皆あんなして大爆笑だったの?」

 必死な私に、山田さんはニコニコしながら答えてくれた。

「もちろんですよ。でも先輩、結構カマトトですよね。でも私の彼氏と一緒で、そこが本気で可愛いっていうか、守ってあげたくなるっていうか」

「山田さん、いいから早く小山田くんに小さくしてもらいな!」

 私は怒って山田さんに嫌みを言った。しかしまだ要領を得ない。思い切って多胡先輩にも聞いてみた。

 多胡先輩も、航くんと同じように口に手を当てて、笑いをこらえながらナレーションしていたのだ。

「千葉さんは、“彼女”の正体を知らないんだね。僕の口からは教えられないな」

 私はちょっぴりムッとして、スライドのケースから人形のマウントを引っこ抜いた。何、正体って!

「誰も教えてくれないなら、クラスの子に見せて聞くからいいです!」

 その瞬間、また残っていた写真部員がまたわっと沸いた。

 

 文化祭二日目。私はこんにゃくを釣り竿から吊るして、お化け屋敷に入って来たカップルの首筋にくっつける係だった。こんにゃくといいつつ、毎回消毒するところが学校らしいというか、なんというか。食べ物の店を出すところも、きちんと衛生面をクリアできないといけないのだ。

「出店と言えばさ。一年の執事カフェ行かなくちゃ、このまま死ねないよ」

 れいちゃんが白い着物に赤い血糊、裸足というすごい出で立ちで私と廊下を歩いていた。いや、この人こんな格好していてもちゃんと美人だから怖い。

「れいちゃん、その執事カフェに行ってもいいけど、その格好で一緒に行くのは嫌」

「なんでよ。私人気ナンバーワンの貞子だから、休憩終わったらすぐにまた戻らなくちゃいけないんだもん」

 その執事カフェは、なんと航くんのクラスだった。全くチェックしてなかったので教室の前まで来てすごく驚いた。というか、写真部とクラスの仕事につききりで、他のクラスをまわる時間があるなんて思わなかったのだ。

 一瞬航くんのタキシードを想像しようとしたけど、すぐにやめた。あの人がまずそんな仕事を引き受けるはずがない。やっても裏方か大工仕事、興味なければさぼっておしまいだろう。

 な・の・に。

 執事カフェの前には顔写真が貼ってあり、ご指名をどうぞと書いてあった。入り口で勧誘している一年生の男子がぐいぐい私とれいちゃんを中に引っ張って行く。

「じゃ、この子にしてくれる? この村上くんって子」

 れいちゃんは、すぐに一枚の写真を指差した。

「れいちゃん!」

「了解でーす!」

 私が止めるのもかまわず、勧誘の男の子がカフェの中へ入って行く。

 そして。本当に航くんは私のところへやってきた。

「お帰りな…」

 たぶん、最低でも十秒くらいは沈黙があったと思う。その間に、私は航くんのオールバックに見とれてしまった。そして、どこかのレンタルショップで借りたのだろうか、高校生のコスチュームとは思えない程決まっている黒のタキシード。変わったボタンの白シャツに黒い蝶ネクタイをしている。しかも例の黒ブチメガネ。ヤバイ、何このかっこよさ。

「はいはい、村上、ちゃんとこのお嬢様達をご案内差し上げて!さ、早く!」

 勧誘くんに急かされて、しぶしぶながら航くんは例のセリフを言った。

「お帰りなさいませ、お嬢様方」

 来たーっ!!

 航くんは右手を前に出してお辞儀をしてくれる。すごい本当の執事みたいだ。会った事ないけど。

「ご指名ありがとうございます。本日お嬢様方のお世話を担当させていただきます、村上でございます」

「あ、あの、た、ただいま…です」

 そう言えと壁の説明書きにあったので、その通りに言う。

 ありえないありえないありえない。こんなことありえない。あの航くんが、引きつりながらも笑顔でしかも超かっこいいタキシードで、しかもメガネで、私をお嬢様と呼んでいる!

「なかなかいい雰囲気ではないかしら、貞子気に入ったわ」

 れいちゃんは、まったく物怖じせずに案内されたテーブルに座る。

 メニューには単品の聞いた事もない名前の紅茶とか、アフタヌーンティーセット、ケーキセットなどがズラリと並んでいて、しかも他の人は注文するの、随分こなれている感じ。このカフェは誰がやろうって言ったんだろう? 一個学年が違うだけで、もう男子も女子も考えている事がわかんない。私はそわそわし始めた。もうすでに航くんのタキシードで十分そわそわなんだけど。

「んじゃ、アフタヌーンティーセット二つお願いね、村上」

 れいちゃんが勝手に注文してしまう。しかもなんでそんな挑戦的なのかわからない。

「…承知いたしました、お嬢様。少々お待ちくださいませ」

 深々と頭を下げた航くんもかっこよすぎて、私は固まってしまう。

 ぼおっとして後ろ姿を見送った私に、れいちゃんがつぶやいた。

「おめでとう、あい。人生初の鼻血が出てるよ。今夜は赤飯だね」


 私の悲願だった鼻血はなんとか止まって、れいちゃんに顔をチェックしてもらう頃。航くんはアフタヌーンティーセットと共にやって来た。

 二日目の午後とあってか大分手慣れている感じがした。カップを置く執事用の白手袋のきれいな指先の仕草。

 そして、スコーンとジャムとまったりとした何とかクリームが乗ったお皿を音も立てずにテーブルにのせていく。すごく優雅。ここ、学校の教室なのに。

「ごゆっくり、お寛ぎくださいませ」

 紅茶のいい香りが気持ちを落ち着かせる。そうだった。私、執事がいる家に帰ってきているんだった。お嬢様は赤い血に刻まれた過酷な運命とはかない命のともしびを、満喫しなくちゃいけない。

 …ふと視線をあげると、遠くの方で航くんがじっとこっちを見ている。

 でもあれは…あの熱い視線は…はあ、明らかに睨んでいるよね、どう見ても。怖いよ…。

「それよりれいちゃん、昨日写真部のスライドショーでこの写真を皆に見せたんだけど」

 私はポケットから昨日のポジフィルムを取り出した。

「これ見て皆が一斉に爆笑したの。なんで?」

 れいちゃんは手に取ってフィルムを蛍光灯にかざしたとたん、ぶわっと吹き出した。

「何これ…あい、これ皆の前で見せたの?」

「うん、だって可愛かったから」

 れいちゃんは私の頭を優しく撫でながら、赤ちゃん言葉で私に説明してくれた。

「このお人形さんはね、寂しい大人のお友達と一緒におねんねしてくれる、従順なお人形さんなんでちゅよ」

「大人のお友達?」

「本当にあんたバカだね。この人形と同じバカヅラしてる」

 何か…だんだんと…その意味が明快になり始めたころ、私は穴があったら入りたい程の恥ずかしさに見舞われた。顔がぶわっとすごい勢いで赤くなっていくのがわかる。

「あい、心配すんな。あんたがピュアだってことの証明だよ」

「そんなこと証明したくない!

「ああそうだ、写真で思い出した」

 れいちゃんがふいにテーブルのベルを何とも優雅にチリンと慣らした。この人、やっぱり前世はお嬢様だったんじゃないかと一瞬思う。今は貞子だけど。

 ぶつぶついいながらそばに寄って来た航くんに見られないように、私はポジを再びポケットに隠す。そうだ、この人もこのポジ見たんだっけ…。ああ。

「私たちの執事の写真を撮るように大叔母様から言われてるんだけど、良いかしら?」

「れいちゃん!」

 いきなりの発言に私は心臓が飛び出しそうになった。な、な、なんてことを!

「写真撮影は誠に申し訳ないのですが、お断りい…」

 航くんが凍り付いた笑顔で丁寧に断りを入れようとしたその時、例の勧誘くんがものすごい早さでやって来て、航くんのお尻をぎゅっと掴んだ! えええーっ!

「もちろんでございます、お嬢様! 一枚五百円でお好きな執事と一緒に写真撮影ができますよ」

 すごいよこの人。多胡先輩と同じくらいの商売人タイプだ。

 よく見ると、どこかで見た事がある。このガタイのよさ…そうだ、水泳部の部員だ。一度掃除中に話したことあるじゃない。いつも裸ばっかり見ていたから、制服姿だとピンとこなかった。

「俺、荒川って言います。村上とのツーショットは、すごく人気あるんですよ。よかったらどうぞ。村上! 水質検査キットをだめにしたのはお前なんだから、その分しっかり稼げよ」

 こっそりウィンクまでされた。荒川って、水泳部の部長と同じ名前なんだ。

 結局、嫌がる航くんとその隣で緊張している私を荒川くんがデジカメで撮り、すぐ脇でプリントアウトしてくれた。

 横向いているけど、航くんはすごくかっこいい。そして私は、すごくダサい。こういうのは、恥ずかしいと思った人が恥ずかしく見えるものだけど、まさに私がそうだった。

 壁には宣伝用に、たくさんの写真が貼られていた。航くんのツーショットも多い。何だかホストクラブみたいだ。

 航くんの写真は、壁に貼られたものは微妙に微笑みを浮かべていた。でも、私との写真は…。

 荒川くんに何度も横を向いているのを注意されていた。そして、結局手元に残った写真の表情は、やっぱり横を向いて何だか怒ったような顔だった。

 これが、今の航くんの気持ち。私に対する気持ちのすべて。そう思うと、とたんに悲しくなって来た。

「いってらっしゃいませ、お嬢様。道に迷った際にはすぐにご帰宅くださいませ」

 航くんは私たちが帰る時、棒読みのようにそういって出口まで見送ってくれた。すごいセリフだと思ったけど、今の私にはもう何の効果もなかった。私はもうすでに道に迷ってしまったから、どっちにしろ帰れない。

 私は何も言わず、軽く会釈をして廊下へ出た。

 先を歩くれいちゃんに追いつこうと足を出した瞬間、航くんに後ろから腕を掴まれた。

「もう来んなよ」

 耳のすぐそばでささやかれた。オールバック&タキシード姿の航くんに。でも。

「わかってるよ」

 私は腕を振り払うと、顔を伏せたまま歩き始めた。わかってるよ、そんなことぐらい。

 吐息まじりに、耳元でささやかれる甘いささやき。それが、もう来るなと言っている。態度と言葉のなんというコントラスト。残酷なコントラスト。


「あんたの航くんは随分、クラスの子達と上手くいってるじゃないの。さっきの見て驚いた」

 れいちゃんが、貞子メイクをしっかり直しながら手鏡に向かって話しかけた。

「私もそんな気がした。航くんは誰にも心を開かないって新沼くんが前に言っていたけど…何か心境の変化でもあったのかな? お尻まで掴まれて。さっきは私も本当にビックリしたよ」

「あい、さっきのツーショット見せてみ」

「ん」

 れいちゃんは、さっき執事カフェで撮ってもらったた写真を一瞬見てニヤリとした。

「ははーん、そういうことですか」

「なに、どういうこと?」

 私は前のめりになってれいちゃんの説明を待つ。

「さっきのビニールのお人形さんと一緒だよ。わかんない人にはわかんないし、わかる人にはわかるんだよ。あんたは全然わかんない方。あんたは感性鋭いアーティスト肌だから、電波の拾い方が違うんだよな、きっと。大丈夫、待ってりゃ転機は来るよ」

「何その場末の占い師的な発言!」

「今は天下の大女優、加藤貞子様とお呼び」

 れいちゃんは笑って手を振りながら、裸足でペタペタとお化け屋敷に戻って行った。

 待てば転機が来る? 何の転機? 本当に占い師みたいな言い方だった。知的でクールなサディスティックお嬢様肌が見抜いた、感性鋭いアーティスト肌にはわからない視点。

 私はしばらく写真を見つめていたけど、何もわからなかった。この写真、プリンターで普通紙にプリントアウトしただけだから、たぶん保存には向いてない。持って5年というところだろうか。あとで撮り直して、印画紙でプリントしようかな。…私が、片思いをしていた人の写真をいつまでも持っている未練たらしいタイプならば。


 私はしばらくこんにゃく係を続けた。釣り竿にひっかけたこんにゃくを、お客の首筋にぴたりと当てる。これがなかなか難しい。

 しばらく小学生くらいの子供が続いて、いたずらも飽きて来たころだった。うちの制服を着たカップルだ。私はここぞとばかりにこんにゃくを女の子の首筋めがけて投げつけた。

「たかちゃん助けて! 何か顔に冷たいものが、冷たい…ひえええ!」

 山田さんだった。小山田くんと、二人で腕を組んで入って来たのだ。いつもは私をからかう程強気な山田さんが、今日はどうしたものか。お化けが怖い自分を演出してるんじゃないの?

 でも、山田さんは私のこんにゃくが首筋にぺちゃっと当たったあと、その場にへたり込んで泣きながら動かなくなってしまった。これはさすがに演技じゃないだろう。私はあわてて黒幕から懐中電灯を持って飛び出した。

「ごめんなさい、山田さん、大丈夫?」

「全然大丈夫じゃないでえす、千葉せんぱあいだったんですかあ…ぐず」

 山田さんが真っ暗な中で弱っている。どうしよう。

「というわけで、俺、こいつを保健室に連れて行きます」

 小山田くんがひょいと山田さんを担いだ。この担ぎ方の名前は知らないけど、片足と片腕を前で掴んで、肩に乗せて…まるでガタイのいい消防士が怪我人を運ぶようだ。

「私もついて行く! でも女の子を運ぶ時はお願いだからお姫様だっこにしてあげて! 山田さんのパンツ見えてるから!」


 保健室で山田さんを手前のベッドに寝かせてから、ずっと忙しかったという先生は遅い昼食を食べに席を外してしまった。クラスのお化け屋敷では、とうとうこんにゃく禁止令が出たとれいちゃんからメッセージが来た。

「改めまして、俺、小山田って言います。コレと付き合ってます」

 すっかり寝てしまっている山田さんを親指で差して、ベッドの脇に座った小山田くんはそう言った。

「一応初めましてかな、二年の千葉です。山田さんと同じ写真部です」

 私は折り畳み椅子を出してちょこんと座った。

「知ってますよ。昨日写真部のスライドショーにいたじゃないですか。それにしても、千葉先輩ってセンスいいですよね」

「え? うーん、お笑いのセンス? 自分では全然わからないんだけど…」

 小山田くんは、寝ている山田さんの頬を指先で優しく撫でた。なんでだかわかんないけど、少しだけドキドキとした。

「コレもよく先輩のこと話すし、昨日の展示写真を見ててそう思うし。あと村上からも、ね」

「え? わた…村上くんが私のこと何か言ってるの、小山田くんに」

 小山田くんは、ふふっと笑って立ち上がり、少しだけ開いている窓を閉めに行った。あ、雨が降り始めていたんだ。気がつかなかった。

「村上はよく先輩の話してますよ。超ウザがってる」

 私はがっくりときた。ウザがってる、って本当に直球だな。

「でもうざいウザいって言いながら、ずっと先輩の話しているのっておかしくないですか? 村上本人には言わないけど。それに…あんなに話するようになったの、急になんです。いつ頃かな…村上が朝、髪を濡らしてくるようになった頃かな」

 髪を濡らして授業を受けている航くんを一瞬想像して、あわてて振り払った。妄想はいかんいかん。

「最初は朝にシャワーを浴びて、そのまま学校に来てるだけなのかと思ったけど、随分消毒液みたいなプールの匂いがするから問いつめたっていうか…ちょっと聞いたんですよね。そしたら、他の事も少しずつ話してくれるようになって」

 小山田くんは、窓越しに外を眺めながら、指先で滴を追っている。

「それに俺、どうやらダメダメ系らしいんです。悠菜とか村上に言わせると。忘れ物したり、何かこぼしたり、ぼーっとしていたり。で、村上が俺の面倒を見てくれるようになって。本当の兄ちゃんみたいに世話してくれて。村上にも同じ名前の弟がいるって聞いて、何か納得しました。根っからの長男気質というか」

 小山田くんは、背がすごく高い。その分、何かこぼしたり、ぼーっとしていると目立つのだろうか。

「そのあとで俺、コレと付き合うようになったんだけど。その結果、村上の事すごく寂しがらせてる気がするんです。先輩はうちのクラスの執事カフェ、もう行きましたか?」

「うん。午前中行ったよ、友達と」

「村上、クラスのやつらと割と仲良さそうにしてたでしょ。入学した頃はあんなに人を寄せ付けないオーラを背負ってたのに。朝の水泳始めてから、水泳部のやつらともひと言二言話するようになって。この前なんかプールの高い備品をあいつが壊したらしくて、渋々執事やらされてるんです。それでまだ事故の話とかやけどの話はタブーですけど」

 小山田くんはひと呼吸おいて、私に笑顔を見せた。

「でも…村上も、そろそろ新しく面倒みてあげる人が必要なんじゃないのかな」

 何か随分と話に聞いていた印象が違うな。山田さんは彼のことを“とにかく放っておけない人”と言っていたけど。小山田くんはすごく落ち着いていて、人に気遣える大人のように見えた。

「な何か、話聞いてると小山田くんは大きな猫みたいだね」

 優しい顔で笑った小山田くんは、ちっとも放っておけない人には見えなかった。

「猫じゃ何でだめなんですか? そういう人もいるし、そもそも世の中はそういう風に出来てる。面倒みる人がいて、面倒みてもらう人がいて、それで世の中回ってると思いますけど」

 小山田くんは、私と同じ言い回しをした。私がラクリスシェイクを飲んだ時に感じたあの感覚。

「ダメなんかじゃないよ。でも…それは私の役目じゃない。私しっかりしてるもん」

 ぷっと笑われた。何、失礼な!

「ほんと可愛いですね、千葉先輩。全然計算してなくて。しっかりしてる人はね、自分のことしっかりしてるとか言わないですよ。村上もすごく可愛い。優しいしね。だから面倒みてもらってたんです。でも、ドジッ子の千葉先輩にその役目を引き継いでもらうのもいいなあと思って」

「ちょ、ドジッ子って言うな!」

 突っ込む私を腕組みをして笑いながら見ている。意外と余裕あるな、この子。

「あとそれから。写真部の部長さん、三年の多胡先輩でしたっけ? あの人凄いですね。村上に堂々宣戦布告したなんて」

「えっ?」

 多胡先輩が、航くんと…何の宣戦布告?

「えっ、て、知らないんですか当事者なのに? あれあれ」

ちょっと困った顔をしながら、小山田くんは続けた。

「話しちゃっていいんですかね…昨日は無理矢理俺が村上をスライドショーに誘ったんです。悠菜のためもあるけど、村上のためにもいいと思いまして。でもすごいですねあの二人、視線だけでバッチバチ喧嘩してましたよ。他人に気づかれないように睨み合いしてて。なんだ、俺の思い違いじゃないんだって安心しましたけど」

「なんの思い違い? もっとわかりやすく説明してよ! 全然話が見えない!」

 ついイライラして大声を出してしまった。山田さんが寝ていることを思い出して、思わず後ろを振り返った。

「落ち着いてください先輩…この話は村上か多胡先輩、どっちかに直接聞いた方がいいと思いますよ。俺の口からはこれ以上言えません」

 もしかして、あの時かもしれない。航くんは、私に焼いた写真を持って写真部に乗り込んだと言っていた。そういえば、多胡先輩に何か言われたって言っていたっけ。でもたぶん隠し撮りしていたことで間違いないだろう。だってあんなに嫌がっていたもん。

 でも、小山田くんの話は全然見えない。思い違い? って、何のことだかいまいちわからない。でも、ひとつだけ確かに分かったことがある。この人は、食えない。敵に回すと案外怖い人だ、たぶん。

「たかちゃん? 悠菜、今起きたー」

 山田さんが突然ベッドから呼びかけた。今の話、聞いていただろうか。

「大丈夫? 悠菜ちゃん。それより俺またドジふんで、千葉先輩怒らせちゃった」

「もーたかちゃん、あんたは本当に手間がかかるんだから。ちょっとこっち来て起きるの手伝って」

「はーい」

 小山田くんは寝ていた山田さんに駆け寄って、再びデレデレカップルの姿に戻って行った。


 私が今、しなくちゃ行けないことは、二つ。

 多胡先輩に会って、何を布告したのか問いただす。私が見つかったことが原因なら、きっちりこの際オトシマエをつけなくちゃ。多胡先輩が始めたイケメン&美女写真を売る内職だって、私が原因で写真部の皆に迷惑かけたくない。

 そして。航くんのカウンセラーに会いたい。会って話を聞きたい。今航くんが求めているものが何なのか。私に出来る事なのか。このまま無視されて終わりたくない。このまま、あの執事写真のように、そっぽを向かれたままで終わりたくない。

 夕方六時、後夜祭はもう始まっている時間。私はキャンプファイヤーで燃やすものはないかと、写真部の展示をしていた化学室の掃除をしていた。

 皆すでに校庭の方へ移動してしまって、誰もいない。片付けをしながらこの二日間であった様々なことを頭の中で整理していた。

 私に見えてないことがある。航くんに関して、私はすごく同調できると思っていた。彼の境遇、彼の思い。でも、それって私の勘違いだったのかもしれない。まるで、あのビニール人形の写真のように。皆はわかっていて、私だけわからないことがたくさんある。…そこに、逆はないのだろうか。

「私だけがわかっていて、他の皆にはわからないこと?」

 人の気配を感じた。女の人だった。随分背が高い女の人。

「すみません、もう展示は終わりなんですけど」

 慌てて蛍光灯をつけて顔を上げると、私は驚きのあまり息を止めてしまった。

「せ、先輩」

 それは、まぎれもなく女装をした多胡先輩だった。

 茶髪に可愛らしくカールしたロングヘア、ばっちり上がったまつげ、そしてどこから見つけてきたのか赤いチャイナドレス。すごい美人になっているけど、間違いなくその人は多胡先輩だった。

 赤いハイヒールのせいで、多胡先輩は見上げるのも首が疲れるくらい大きくなっていた。

「後夜祭の女装コンテストだよ。部活の皆に最初に見せようと思ったのに」

 多胡先輩はさらりと言って、教室から出て行こうとする。

「待ってください、先輩! ちょっとだけ、時間ありませんか」

「何?」

 こんな時になんなの、っていうのは自分でもわかっている。でも早く聞きたい。早く次に進みたい。

「先輩、一年の村上航くんを知っているってこの前暗室で言いましたよね?」

「…それが?」

「いえ、あの…前にたぶん先輩は村上くんと二人で何か話したことがあると思うんですけど、その時何を話したのか聞きたくて」

「ふうん。知ってるかもしれないけど、俺はちょっとねじ曲がってるの。性癖も、性格も」

 多胡先輩は入り口のドアを後ろ手で閉めると、ハイヒールの音をカツカツと響かせながら教室の中まで入って来た。

「ライバルがいるとすごく燃えるんだ。そしてそのライバルがもし、俺を脅かすようなハイスペックな人だったらなおさら燃える」

「村上くんがライバルなんですか? 何の?」

「千葉さんは、素直でまっすぐだね。そういう所、すごく好きだよ。でも」

 ぐいっと、ブレザーを掴まれた。すごい強い力。跳ね返せない!

「君は、俺のライバルにはなれない」

「え?」

 多胡先輩は、私を突き放して冷ややかに笑った。

 私は呆然とした顔で先輩を見る。

「俺は確かに村上くんに宣戦布告をしたよ。必ず君を落としてみせるってね」

「君って…え? わ、私?」

 私は思わず、顔が赤くなる。

 先輩は、飲み込みの悪い私にイライラしているようだった。舌うちをして、私に顔を近づける。

「君にじゃないよ、千葉さん。勘違いも甚だしいね。俺は村上くんを落とすって彼に言ったんだ」

 私はこの時初めて、先輩が言っている意味がわかった。

 多胡先輩が、村上くんのことを好きっていうこと?

「村上くんは、俺の告白にとても怒ってしまった。言い方もちょっと挑戦的だったし、まあ何より俺もキスしようとしたからね。でもそんなのは当たり前のことだと思うし、俺は彼が起こったことなんか全然気にしない。その反応さえも、可愛らしいと思える。村上くんは俺の永遠のヒーローだからね。千葉さんの事も話したよ。俺は君をライバルとしても、一人の人間としても見てないってね。千葉さんはせいぜい女に生まれたことをアドバンテージにすればいい。村上くんが君のような鈍感でストーカーな女の子をどう思ってるかは知らないけど」

 多胡先輩はそう言うと、笑った口元を羽つき扇子で隠してさっさと化学室から出て行った。

 私はヘナヘナと床に座り込んでしまった。チャイナドレスの超美人に、私は完敗したのだ。

「私、鈍くさかったんだ。何も知らない、バカ女だったんだ…」

 両手で顔を押さえる。いやだ、今のこんな顔、誰にも見られたくない。

 窓の外からは、後夜祭の喧噪が漏れ聞こえる。

 私は何も知らない。皆が分かる事がわからない。ライバルとして見てももらえない。悔しくて、歯を食いしばった。

 しばらくすると、れいちゃんからメールが届いた。私を探しているらしい。行かなくちゃ。

 私は立ち上がると同時に、しなくてはいけないもうひとつのことを、早急にしなくてはいけない衝動に駆られた。私は鈍感なバカ女だけど、バカだからこそ出来る事もきっとある。


 航くんのおばさんは、航くんがさんざん来るなと言っていたにも関わらず文化祭に顔を出したそうだ。こういう時は、どういう風におばさんを叱るんだろう。でもおばさんはタイミングが悪くて、航くんの晴れ姿を直に拝む事が出来なかったと嘆いていた。

 私は、怒った顔の航くんですけど…とコメントをつけて、航くんのタキシード姿と私のツーショットをこっそりメールで送った。

 航くんのおばさんはそのお礼に、通っているカウンセラーの病院の住所と名前を教えてくれた。

 こういうの、教えてくれていいのかな? おばさんはちょっとそういうところが甘いと思うけど、今はおばさんだけが頼りだから、文句は言えない。それにあとでどうせ、航くんに怒られるんだから。

 

 航くんの通っているカウンセラーの場所は、意外にも私の住んでいる隣町の診療所だった。隣町とはいっても、駅と駅の間にあるから、地元といってもおかしくない場所だったけど。土日は休みだってホームページに書いてあったから、平日来るしかない。

 私は文化祭の振替休日の月曜、意を決して診療所に足を運んだ。しかも航くんが来なそうな、午前中。

 割と大きな診療内科は、入り口の受付に何人も人が並んでいた。どうしよう、何かすっごく聞きにくい。何をどう話したらいいのかもわからないまま来てしまったし。そもそも私は患者じゃないし。

 受付の中でも優しそうなお姉さんに声をかけてみた。

「あの、小西先生は今日いらしてますか? 私は患者じゃないんですけど、ちょっとお話があって」

「小西先生?」

 受付のお姉さんはきょとんとした顔で聞き返した。

「はい、小西雄三先生です。こちらにお勤めの」

「小西雄三は私だけど、君は誰?」

 慌てて振り返ると、白衣を着たとても小さなおじいちゃんが立っていた。

「私、村上航くんの友達の、千葉あいって言います」

「ああ、航くんの」

 小西先生は、とても優しい笑顔で私を迎えてくれた。

「どんな話かな? 今日はこのあと午後まで患者の予約はないから、そこらでお茶でもしようか」


 小西先生は、想像と違ってとっても優しい人だった。おばあちゃんとおなじくらいの年だろうか?精神科医の先生なんて、ダークなスーツに白衣で四角いメガネをクイクイあげながらビシビシ痛いところを指摘していくクールな人っぽいイメージがあったのに。

「それはいくらなんでも、僕がかわいそうだよ」

思ったまま、小西先生に思ったままを伝え、残念がられた。

「そうですよね…すみません」

 でも小西先生は、私の素直な発言に屈託なく笑ってくれた。

「あの、これ…手土産です。餃子なんですけど…よかったら食べてください」

 私はぎゅっと握りしめていた紙袋を目の前に掲げた。

「餃子…あーなるほど。ありがとう。君が餃子さんなんだね」

「餃子さん?」

 小西先生は紙袋をうやうやしく受け取ってカフェのテーブルに載せた。

「いやいや…こっちの話。で、今日は僕に何を聞きたいのかな?」

「はい、実は…」

 私は、まず、航くんと私は小学校のときの幼なじみであることを明かした。転勤、離婚、リターン。そして同じ高校で学年がひとつ下の航くんと出会ったこと。

 事故のことは、航くんのおばさんと私の同級生から詳しく聞いたこと。

 おばさんとの交流、弟の孝広くんとの交流、でも本人は私を嫌っていること。

「私は、わた…村上くんがなんで親の前で演技したり、学校では友達を排除して一人きりになりたがるのかとか、知りたくて」


「残念ながら、患者のプライバシーは機密事項で一切教えられないんだ。でも、僕が読んだことのある本の中の男の子の話をしてあげようか。Aくんという、昔交通事故で大やけどをした男の子が精神科に通っているんだけど、彼の場合は、皮膚に幻の熱を感じると言う」

「それは…前に学校の保健室の先生から聞きました。もうやけど痕は治ってるって」

 小西先生はコーヒーを一口飲んで続けた。

「いやいや、これはあくまで本に書かれた男の子の話で航くんのことじゃないからね。で、事故直後はショックで声が出なかったけど、それはもう治っている。あとは幻の熱問題だけだ。実際は熱くないのに、心が熱いと感じるんだよ。しかもそれは、脳の機能が勝手に熱を感じるように動いているんじゃなくて、精神的なものから来るものなんだ。事故や病気で体の一部を失った人が、もう存在しない部位に痛みを感じることがあるんだ。Aくんの場合は、もう火傷は痛くないはずなのに、焼けるような痛みを感じているんだね。

僕は、この痛みはAくんが自分の気持ちを抑圧させている反動じゃないかと思っている。要するに、何かをすごく我慢していると、精神的にバランスが取れなくなって、皮膚の熱として現れるというわけだ」

 何かを、すごく我慢している。

「それは、ヒーロー扱いされてることですか? 嫌なのに我慢してるんですかね?」

「さあ、それは分からない。Aくんは自分が乗ってた車で事故にあった子だよ。まあ、その幻の痛みを感じていることも、カウンセラーに会うまで誰にも言ってなかった。プライドなのかな。まあ典型的な男の子の思考だよ」

「私は、どうすればいいんでしょうか?」

 私はオレンジジュースのストローをくるくる回しながらつぶやいた。

「カウンセリングの仕事にはね、応用マニュアルがないんだ。もちろん基本的なものはあるけどね。そして、心の治療についてもまったく正解がないというのが現状だ。すなわちカウンセラーも患者自身も、ひとりひとりが手さぐりで道を探している。それに」

 小西先生はまた一口コーヒーを口に含んだ。

「例えば同じ事を言われても、言った人との関係性でその言葉は全く別のものになるよね。親に将来のために勉強しなさいと言われるのと、友達にヤバイからマジ勉強しといたほうがいいぜって言われるの、どっちがリアルに響くかな?」

「友達です」

 こんな先生もヤバイとか、マジとか言うんだと思ってちょっとだけびっくりした。

「そう。言い方やその場の雰囲気もあるけど、やっぱり人だよね、最終的には」

「好きなように接したらいいと思うよ。君が心配している航くんに。本当に、正解なんてないんだから」

「ありがとうございました。勉強になりました」

 私は深々と頭を下げ、小西先生と別れた。

 さすがに航くんのことを好きだとは言わなかったけど、小西先生もなぜ私が航くんのことを知りたかったのは尋ねなかった。聞かれなかったからと言って、興味がないとか関係がないと思っているわけではないということも知っている。小西先生は、多分単に分かっているから聞かないだけだ。

 結局、どうしたらいいのかという具体的なアドバイスは全くもらえなかった。でもこの方がいいのかもしれない。マニュアルをもらって、その通りに動いて、航くんが心を開いてくれるとはとても思えない。

 それより小山田くんが言っていた、プールで泳ぐようになってから、少し他の人と話するようになったということがとても嬉しかった。結局は追い出されてしまったけど、私が航くんの心を開くきっかけ作りに少しは貢献できたってことだよね。

 面倒みてあげたい人がもし必要なのだとしたら、多胡先輩も私も残念ながら違う。多胡先輩が航くんに面倒を見てもらいたがっているかどうかはわからないけど。

 でも私にも、面倒をみてもらうとかそんなことできない。早く小山田くんの他に、航くんが面倒を見てあげられる人を探さないと。それが…例え女の子でも。


 文化祭が終わっても、学校の雰囲気はまだまだ余韻に包まれているかのようだった。

 話にきくと、この文化祭でたくさんのカップルが誕生したそうだ。セッティングの手伝いで仲良くなって。出し物の打ち合わせで急接近して。後夜祭のキャンプファイヤーで告白して。

「いいなあ、れいちゃん。でも何で告白断ったの?」

 いつもの昼食タイム。れいちゃんは珍しくお弁当だ。

「断ってないよ別に」

「え、どうなってるの? そもそもなんて言われたわけ?」

 私は思わず前のめりになった。

「んとね、お弁当毎日作るんで、一緒に食べてください、だと」

「え! このお弁当そうなの? ってか誰に? なんでそのお弁当を私と今食べてるの? お弁当食べるってことは、その人と付き合うってこと?」

「いっぺんに聞くなよ」

 れいちゃんはいつだって、漢前だ。見れば、キャラ弁かと思わせるような色鮮やかなお弁当。ちゃんと彩りとか野菜とか考えているっぽいおかずが本格的だ。お弁当箱も何か可愛らしくて、きっとれいちゃんの為に買ったのかなとか考えてしまう。最近の男子って、女子力すごく高いんだ。

「隣のクラスの篠原。一緒に食べるのは遠慮するが、弁当食べてやるのはいいって言った」

「なにそれ、れいちゃん…その天然に貢がれ癖とかついてるのやめて」

 れいちゃんは、何かに気を使っているんだろうか。

「ね、なんで一緒に食べるの嫌なの? 時々その篠原くんのこと話してたよね? 嫌いなの? お弁当はしっかりもらってるくせに」

「中学の時から知ってる奴だし、別に嫌いじゃないよ。でも私はあいと食べる」

 中学の時から一緒だったってことは、れいちゃんが何でお弁当じゃなくて売店でパンを買って食べているのか、たぶん知っている人だ。

「…れいちゃん、私それなんか嫌だ」

 私は立ち上がると、お弁当箱をさっさと包んで片付けると教室を出た。

 クラス棟から特別棟に走って、写真部の部室である化学室に駆け込んだ。

 私は、分かってしまった。これだ。これなんだ、航くんがすごく嫌がっていることって。

 れいちゃんは、たぶん篠原くんのことが前から気になっていたんだと思う。だって、時々突然名前が出て来て、私も戸惑う事が何度かあった。それに、よく学年集会とかあるときに誰かを目で追っている時もある。絶対聞いても答えてくれないんだけど。

 れいちゃんは、私に気を使ってくれているんだ。私は転校生だから、少しは小学生時代の知り合いがいると言っても、一年の三学期に突然入って来た人は、できあがっている友達の輪には入れないって知っている。そして、れいちゃんがもし篠原くんと付き合ってお弁当を食べる事になれば、自動的に私は一人になってしまうと思っている。だから…。

 私は、床に座って、膝を立てながらモソモソお弁当の続きを食べた。こういうの、嫌だ。気を使われるの。

 れいちゃんの家は、ちょっぴりお金持ちだ。ご両親は共働きで、お互い夜遅くに帰ってくる。

 私と同じ一人っ子のれいちゃんは、朝も夜も、一人で食べる。しかも、コンビニのお弁当とか、レトルトのものとか、そんなのばっかりだ。時々おばさんがデパチカのお惣菜を買ってくる時もあるみたいだけど。

 自分で作ればってたまに聞くけど、食べる事にそんなに興味がない性格だからか、全然料理をする気がないと言う。

 そこへ篠原くんだ。一度だけれいちゃんが詳しく話をしたことがある。

 それはバレンタインデーの時。れいちゃんにチョコレートを渡す女子は何人かいたけど、篠原くんもれいちゃんに堂々とチョコを渡した。しかも手作り。

 何でも家がレストランをやっていて、しかも自分でも料理が大好きで料理人を目指しているという。私もチョコのおこぼれをいただいたけれど、あのプラリネっていう小さいチョコの美味しさは涙ものだった。そしてれいちゃんは、そのチョコを食べてまた鼻血を出していた。あれなら胃袋攻撃はかなり有効のはず。あの二人は絶対一緒にいるべきだ。なのに。


 航くん、私。今なら少しだけ、航くんの気持ちがわかるよ。

 

 放課後、れいちゃんとはすぐに話し合った。私はれいちゃんに篠原くんとお弁当を食べないなら、私は航くんとお弁当食べられないとカマをかけた。翌日から、すぐにれいちゃんは隣のクラスでお弁当を食べるようになった。ありがとう、れいちゃん。そして。

 よし。次は私だ。私はポケットから、朝から何度も見返したメモを再び取り出した。


『話があります。明日の放課後、あの公園に来てください。村上航』


 小さなメモだった。ボールペンの手書きで、しかもノートの切れ端。今朝私の靴箱に入っていた。男の子の字とは思えない程きれいな字だ。名前の字が特に決まっている。書道家か、貴様は。 

 靴箱にメモ。古典的な方法だけど、私たちはお互いのメアドや携帯番号、メッセージアプリのIDも含めて全く知らないから仕方がない。でも今までは、航くんが教室に来て直接の決闘申し込みだった。いつもと違うだけに不安も大きい。

 小西先生と会ったことか、おばさんに写真を送ったことか。はたまた、また私の知らないところで何かヘマをしたんだろうか。

 私は航くんに会える嬉しさと何を怒られるかわからない不安でいっぱいになりながら、明日を待った。

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