第2話 好機。
この日、私はまた市立図書館に向かった。
ひとつは借りていた本を返す。ひとつは久しぶりにおばあちゃんと一緒に笑える映画のDVDを借りに。
そしてもうひとつは、何か心理に関する本を借りたかった。人が何を考えているのか、そして悩みを抱えているのだとすれば、どう対処したら良いのか。高校生でも分かりやすく書いてある本でもあれば。
学校から一番近い図書館には、まだまだたくさんの人が残っていた。たぶん冷房が効いているからだろうか。
あまり気にとめずに、本を返したあとフラフラと本棚を回った。おばあちゃんのために野菜レシピの本を借りるのもいいな、なんて気軽さで。
私が料理本のコーナーから顔を上げた時、同じ制服のブレザーが目に止まった。男性生徒、あれは!…間違いない。あれは航くんだ。
思わず反射的に本棚の影に隠れた。大丈夫、バレてない。
こんなところにも来るんだ。この前新聞記事を探す時に会わなくてラッキーだった。バレたら今頃、確実に殺されていた。
航くんは何冊か本を戸棚から持ち出し、囲いのあるデスクに座った。手元を照らすライトやパソコンの電源もつなげる一人集中用のデスクだ。自主勉、というわけでもなさそうだった。
周りは私たちと同じくらいの年の若者、頭の良さそうなサラリーマン、化粧っ気なしのお姉さんとかが座っていて、一種の集中オーラを出していた。とても近づけない。
私はこっそり、航くんが本を探していた棚に行ってみた。
スポーツ理学療法学? これはどういう学問なんだろう。学校の体育の先生みたいな? 野球選手専門の整体師みたいな?
私はとにかく航くんがスポーツ専門の医者の何かを探している、ということはわかった。
椅子の背にもたれて、なにかを懸命に読んでいる。口元に手をあてて、まるで老け込んだおやじだ。でも目が真剣。姿勢は悪いけど…悔しい、やっぱりかっこいい。
私はつい、カバンから一眼レフカメラを取り出して、航くんを狙った。
今日はフィルム式のカメラしか持ってない。しかも白黒フィルム。
周りの人にも全然気づかれていない。本棚の隙間から、何枚かシャッターを切った。
私、完全にストーカーだ。すごくドキドキした。
でもそれ以上に、航くんの真剣な横顔の写真を撮れて、すごく嬉しかった。初めてアイドルにドキドキする人の気持ちがわかった気がした。
でもこの日から、ちょっとした変質者的な行動が増えてしまった気もする。私、本気でやばいかな…。
木曜日の午後、どっかの英語スピーチで何か賞を取ったって言う人の表彰式が体育館であった。
通常写真部は、イベントごとに先生の代わりにいくつか写真を撮る役割をまかされている。
私は体育館の舞台に花束を持って並んでいる生徒達を適当に撮っていった。
そして…一眼レフカメラを替えた。プライベート用のカメラ。首に二台かけてたって、誰も怪しまない。
このフィルム式の一眼レフ「ニコマートEL」は相当古い。ギリギリレンズにカビが生えてない、奇蹟のビンテージカメラ。
父方のおじいちゃんが誰かの借金のカタに手に入れて、お父さんが趣味で使って取っておいたもの。そしてそのお父さんが、高校の写真部に入る私にくれた。
私はそれまで写真に全く興味がなかったけど、中学の修学旅行時に写真を撮った時、見事にハマってしまった。世界の一瞬を切り取る写真、人の一瞬の表情を写し取る写真。私には、面白すぎて夢中にならない理由がなかった。
そして今、このめったにない美味しい瞬間を狙って…航くんをフレームに捉えた。
一年生はすぐ脇の列に並んで座っているからすぐわかる。
今日はなぜかメガネをしていた。黒ブチの細長メガネ、タートルネックにも似合っていてかっこいい。
一瞬こっちを向く。ファインダーの中で目が合った。シャッターを思わず押した。手が震える。皆座っているから、立っている私は結構いやかなり目立つ。
サイドにいるとはいえ…でも大丈夫。このまま目を離さず、カメラを横に向ければ、誰をどんな風に撮ったかなんてわからない。
体育祭のイケメン&美人写真を売る裏バイト用にと伝えられた、部長の多胡先輩直伝の技だ。先輩、本当に感謝します。
ゆっくりファインダーから目を逸らして、舞台正面を向く。まだまだ鼻が高くなってとどまることを知らない英語の先生の自慢話、しばらく終わりそうもない。
ちらりと横目で、航くんを見る。大丈夫、今回もたぶん気づかれてない。ほっとした瞬間、今度は直に目があった。今度は慌てて舞台を向く。わ…私、ちょっと震えてる。どうしよう。
航くんが私を見た。それだけで、こんなにドキドキするなんて。いけない事しているってのはわかっている。後ろめたさが胸を締め付けた。私…何やってんだろう。
翌日、暗室にこもった。暗室というのは、フィルムを現像したり写真を焼いたりする特殊な赤外線のランプだけで作業する個室。うちの学校には、特別棟の階段の一番下にある。写真部の部室はここじゃないけど、実質ダラダラとたむろするのはこの狭い個室の中だ。ただし、この写真を焼く時に使う液体の臭さに耐えられればの話だけど。
この前図書館で撮った航くんの写真は、たまたま持っていたフィルム式のカメラで撮ったものだった。だから、スピーチの表彰式のときも同じフィルムで撮った。
カラーのフィルムは面倒だから写真屋さんに現像に出すけど、白黒のフィルムなら写真部の備品で現像できる。他の部員達に見つからないうちに…両手が入る黒い袋の中で、感光しないように手探りでフィルムを現像する大きな缶に入れる。
その後は、現像液、停止液、定着液の順で処理して最後はクリップに吊るして干す。
うまくムラもできずにフィルム現像できた。私、グッジョブ。
急いでドライヤーで乾かして、次は焼きだ。
ベタ焼きという、フィルムに直接光をあてて印画紙に焼いたフィルムの一覧表を作る。これもうまく出来た。私だって集中すれば天才になれるかもしれない。
再び印画紙をドライヤーで乾かして、写真の出来を確認する。
航くんがこちらを真っ正面から見ている一コマに釘付けになる。きれいな顔。そして、大人びた顔。ちょっとテレる。写真だけど。図書館のコマも見る。かっこいい横顔。最初はこれをプリントしてみよう。
ここで、暗室のドアがノックされた。まずい。
「誰が今中にいる?」
この声は部長の多胡先輩だ。ほっとする。
使用中の時には鍵はかけないけど、入る前に必ずノックと確認の声かけを徹底している。そうしないと突然ドアを開けられて、全てのプリント作業が外の光によって感光し、ダメになるのを防ぐためだ。
「千葉です。今なら入っていいですよ」
多胡弘樹先輩は三年生で、部員皆から慕われている。そして、根っからの商売人だ。
体育祭などのイベント時にイケメン&美人写真を売る裏バイトを仕切っているのも多胡先輩だけど、実はこっそり多胡先輩自身の写真を買いたいって頼んでくる女子生徒も絶えない。この場合は、先輩に内緒で私たち女子部員が仕切る。こういうのも社会を知る一歩なのかと思っている。
かっこよくて頭が良くて、背が高くて優しくて、そして根っからの商売人。
うむ。こういう人は正直苦手だ。自分のペースをいつも崩される。
多胡先輩は、何かプリントしたいというのでお先にどうぞと勧めたが、私のプリントの腕もみたいという。
仕方ないのでシブシブと準備を始めた。大丈夫、写真を買いたい女子に頼まれたといえばこの手の写真は見慣れている。逆に怪しまれずに済みそうだ。
多胡先輩は、さっきから黙って私のプリント作業を見つめている。緊張して、なかなか正確な時間が計れない…。
「かっこいい子だね」
「そうですかね? 頼まれただけですけど」
「こんなに…この子だけでフィルム一本使うなんて、随分な熱の入れようだね。しかもこれ、校内じゃないし」
フィルムの一覧表を横目で見ながら、多胡先輩が話しかけてくる。
「そ、そうですかね、人気なんですよこの人。名前も知らないけ…」
答え終わらないうちに、竹のトングを持っている右腕を掴まれた。そして…先輩の手がゆっくり滑り落ちて来て、私の手の甲に重なった。
「この写真、もしかして千葉さんのプライベートで撮ったんじゃないよね」
「そ、そんなことないです…けど…」
私は先輩の顔が見られなかった。パニックを起こして、何が何だかわからない。
「確かに高校生の顔じゃないよね。あっという間に大人になってしまったような。あっという間に大人にならないと、辛くて絶えられなくて死んでしまいそうな、そんな顔」
先輩は私の肩越しに浮かび上がって来た航くんの顔を見ている。ち、近い。胸のドキドキが伝わってしまいそう。
その時、誰かが暗室のドアをノックした。心臓を叩かれたみたいに驚いた。
「誰かいますかー?」
一年生の女子部員の声だ。
「今日は俺が一日暗室を使う予定だけど、何か用?」
多胡先輩が、顔を上げてドアの向こう側に話しかける。手と手を重ねたまま。私は何もできなかった。
「ああ、多胡先輩ですね! それならいいんです、明日でもいい用事なんで。お邪魔しましたー」
あっという間にバタバタと足音をたてて、いなくなってしまう一年生。ああ、なんて使えない!
「…俺、この子知ってるよ。一年の村上航くんでしょ? 交通事故にあった子供を助けた、勇敢なヒーローくん」
また私の肩越しに話しかけてくる。息が! 息が耳にかかってます!
「最近ね、女の子の手の小ささにビックリしたばかりなんだ。あまり暗室にばかりこもってると、襲われちゃうよ? なんてね」
先輩はフフっと笑って、離した右手をフリフリと振りながら暗室のドアを開けた。
「やっぱり今日は俺プリントするのはやめておくよ。暗室は自由に使っていいから、がんばってね」
私はシルエットになった多胡先輩を見送って、思わず腰が抜けそうになった。慌てて先輩が今まで座っていた折りたたみ椅子に座る。
何? 今の? ドキドキしすぎて、心臓が飛び出してしまいそうだった。からかうにも程がある。
しばらく落ち着いてから、とりあえず暗室内の電気を赤外線ランプから普通の蛍光灯に替えた。
定着液に沈んだままの、航くんの横顔。流水にさらしてぬめりを取る。
あっという間に大人になってしまったような。あっという間に大人にならないと、辛くて絶えられなくて死んでしまいそうな。
「そうなのかな…私はその影が気になるだけなのかな」
写真の中の航くんは、その疑問には答えてはくれなかった。
夜、お母さんから電話があった。おばあちゃんはひとしきり話したあと、私に代わるように言った。
おばあちゃんお気に入りの黒電話を取ると、久しぶりのお母さんの声が弾んだ。
「元気? あい、学校はどう?」
「まあまあだよ。部活も上手く行ってるし、一応勉強もしてる」
「一応じゃダメでしょ。しっかりしないとだめじゃない」
電話口でケラケラ笑っている。
「それよりお腹はどうなの? 予定日まで順調なの?」
「大丈夫よ。それより聞きたい? もうすぐ生まれるこの子が、弟か妹か」
正直、そんなのどうでもよかった。
「うん、すごく聞きたい」
「じゃーん! 弟でございます! 男の子だって。今日エコーで確認できたのよ」
あ、そう。としか思えなかった自分が辛かった。
「お母さん…それよりちょっといいかな。聞きたい事があるんだけど」
お母さんに今更甘える気はないけれど、どうしても聞いておきたいことがあった。
「小学校の時に私と仲良かった村上航くんって覚えてる?」
「あー、覚えてるわよ。航くんのお母さんとちょっと仲良かったからね」
私は、航くんのことについて簡単に話した。事故のこと、学校で会ったこと、おばさんに会ったこと。
「そんなの今まで全然知らなかった。引越てから一度も連絡してなかったし、こっちはこっちで色々あったしね…」
沈黙。
「あいは、航くんのこと気になるの? 皆、ほおっておきなさいって言わない?」
「言う。皆がみんな、口を揃えて言う。でもそれが気になる」
電話口でお母さんががため息をついた。
「今のお母さんがあいに言える立場じゃないって本当にわかってるんだけど。でも、やりたいことがあるならやりなさい。やらないで後悔するより、やって後悔する方が未来の時間の使い方として正しいと思う」
「私は正しいかなんてどうでもいい。ただ、納得いかないだけ。ほおっておくって、私には逆につらい」
「…あいが、そう思える子になってお母さん嬉しいわ。航くんにとことん取り付いて、背後霊になっちゃえ!」
「やだよ背後霊なんて!」
最後は笑って電話を切る事ができた。お母さんも私に気を使っている。でも…今はこれでいい。ゆっくりやるしかない。
おばあちゃんも、たぶん横で話を聞いていたはず。でも何も聞かない。聞いてきたのは明日の夕飯のメニューだけ。
「おばあちゃん、何でも良いけど明日の夕飯は、お肉じゃないメニューでお願い」
化学実験室に移動中、それ何の曲? とれいちゃんに聞かれて、初めて自分が鼻歌を歌っているということに気がついた。無意識って怖い。
「まさかその機嫌の良さは、多胡先輩に…」
「やめて、れいちゃん! 違うから! 女子生徒全員敵に回したくないから!」
れいちゃんには、全部話した。母親と話したことも、そして、多胡先輩の接近戦のことも。
「何だろうね、多胡先輩。どう考えたって、それあいのこと狙ってるよね」
あわてて周りを見渡す。よかった、たぶん誰も聞いてない。教室移動中の会話じゃないよ、これ。
「やめてよ、れいちゃん。今それどころじゃないんだから」
中間テストが明日に迫っていた。とりあえず、何もかも棚上げ。勉強第一。部活もテスト中は休みだ。
何でこんなに機嫌がいいんだろう。自分でもよくわからなかった。何より母親が自分のやっていることを認めてくれたことがたぶん嬉しかったのかな、とも思う。
航くんのおばさんと航くんは、普段どんな話をしているんだろう。
結局中間テストは、前回の期末テスト同様、まあまあの出来だった。まあまあの成績、まあまあの人生。でももっと勉強しないと、このまま“まあまあロード”を突き進んでしまう。
れいちゃんとテストの慰労会と称して最終日、駅前のファーストフードでまた新商品のラクリスシェイクなるものを試した。北欧の人はみんな大好きな味だっていうふれこみで売っていたけど、どう考えたってこんなまずいの流行るわけないと思う。
「あい、マジこれうまいんだけど」
れいちゃんの言葉がにわかに信じられなかった。
「美味しいってこれが? 嘘だよね? 信じられない程にまずいんだけど!」
「嘘なんかついてないよ。美味しいじゃん。なんでよ?」
人間ってうまく出来ているなって、時々思う。人間って、違うからうまくいくんだ。誰かがまずいって思っても、誰が美味しいと思う。誰かが大嫌いだと思っても、誰かが愛している。そうやって、今日も地球は回っている。
「うむ」
「何がうむ、じゃ。勝手に悟るな」
「悟ってないよ。それより、ちょっとこれみて。テスト前にプリントした航くんの隠し撮り写真のプリント。今日こそ解禁に…って、ない!」
私はカバンの中に頭ごと突っ込んだ。
「ない! ない! ない! 隠し撮り写真がないっ!」
A4サイズの茶封筒に入れて厳重に保管していた写真が封筒から消えていた。厚さのある封筒だったから中身が入ってないなんて全然気が付かなかった。
「隠し撮りって…あのバーニングボーイの? そんな写真撮ってたんだ」
「ちょっと、そんなあだ名勝手に付けないで。それより写真、どっかに落としちゃったよ!」
確かにさっき、写真部の部室に行って、ずっと置きっぱなしだったプリントを取って来たはずだった。
部室には部員ごとに棚があって、フィルムや印画紙などを置いておけるようになっている。
私の場合はそこに鍵もかけているから、誰に見られることもなく、秘密のものを隠し入れておくことができる。頼まれた写真とか。
例の多胡先輩も鍵をかけているけど、コンドームでも隠し入れているんじゃないかと思う。
フィルムは別に保存していたからまたプリントできることはできるんだけど、それが問題なわけじゃない。
「マジでやばい。一枚は表彰式の時のだから、最悪あれが本人の手に渡ったら…絶対私だってバレて殺される!」
「あー仕方ないね、その時は」
れいちゃんは、私のラクリスシャイクにまで勝手に手を出してズルズル飲みながら、悠長にそう言った。
それからの二日間、血眼になってプリントを探した。
勘違いしたかと思って家の中も探したし、おばあちゃんにも聞いたけど知らないと言う。他の部員にも聞いてみたが、誰も知らない、見ていないと言う。
あーこういうの、先生に見つかったらどうなるのかな? 中間テストの結果より、そっちの方が気になって仕方がなかった。
テストが終わって三日目の昼休み、しばらく振りのおばあちゃん特製うなぎ弁当に一瞬浮かれていた時だった。顔に米粒をつけて、れいちゃんにまたバカ扱いされていた私に、クラスの男子が声をかけた。
「おい千葉、お前に客だぞ」
「へ?」
何の心の準備もなく箸を咥えて振り返った先には…なんと航くんが教室のドアに肘をついて立っていた。私の教室のドアに。
「ちょっと、あとで顔貸してくれませんか。先輩」
私は、貧血にも似た寒気を体中に感じた。
「あー、とうとう殺されちゃうんだー」
れいちゃんが笑ってつぶやいた。
航くんの指定した場所は、私の教室だった。要するに掃除が終わった後残っていろ、ということだった。時間の指定なし。完全に放置プレイだ、これ。
私は教室の一番後ろの壁に座りながら寄り掛かって、膝を抱えたままじっと考え事をしていた。やっぱり、どう考えてもあのプリントのことだよね。どうやって弁解しよう。
教室の中は電気もついてないせいか、薄暗くなってきた。
九月の熱風がカーテンをさらりと揺らす。ああ、帰りに戸締まりをしていかなくちゃ。明日、掃除当番に怒られる。
それより何を言おう。どう謝ろう。頭の中のシミュレーションは全然まとまらなかった。
「電気ぐらいつけろよ。逃げたのかと思った」
その声にびくっとした。
教室の前の方にあるドアを開けて入って来た航くんは、そう言いながら自分でも電気をつけなかった。
机の合間を縫って、薄暗がりの中ゆっくりこっちに歩いてくる。
「何のことだか、わかってるよな」
「うん」
私は小さな声で返事をした。
航くんは、その手に私がいくら探しても見つからなかったあの封筒を手にしていた。
「昨日クラスに全然知らない奴が突然来て、コレお前のだろって渡された。見たら俺がドアップで写ってんじゃん。そりゃ驚くよな」
航くんの顔が見られない。沈黙。
「なんか意図があるのかもしれないと思って、放課後に写真部の部室に行った。部長の多胡って人に話聞いたけど、誰が撮ったかなんて知らないって言う。ついでに別室に連れて行かれて何か変なことも言われたし。でもしらばっくれるってことは、何か言えない訳があるってことだよな。だって誰がこれを撮ったのか、撮られた俺が一番良く知ってるんだから」
航くんは、写真を私に勢い良く投げつけ、腕組みをした。怒りの衝動をなるべく表に出さないように、言葉を選んで話しているようだった。
私は床に散らばったプリントを全部拾って、のろのろと立ち上がった。昨日の放課後は、すぐに帰っておばあちゃんの定期検査の付き添いで病院に行っていた。その間に、多胡先輩と航くんは話をしたんだ。そして、多胡先輩は私のことを黙っていた。すぐわかることなのに。
「ごめんなさい。悪い事だとは分かってたけど」
「けど、何だよ。何でお前があの図書館にいるんだよ。また後つけてたのかよ」
「違うよ、あの日は本当に偶然に…私も探し物してて。料理の…本…」
沈黙。これは嘘ではない。
「百歩譲って偶然だったとしても、何で写真を撮るんだよ」
「それは…言えない」
言えなかった、というよりわからなかった。何で写真を撮ったかなんてそんなの自分でもわからなかった。ただ、あの時この目で見ていたものを、ただ純粋に写真に閉じ込めたかったんだ。
「…キモいんだよ」
航くんが、しばらくの沈黙のあと、ひと言つぶやいた。
「え…」
「キモいんだよ、お前。後ついて来てお袋に取り入ったり、こうやってこそこそ写真撮ったり。完全にストーカーじゃねえか」
誰かに、キモいって言われたのは初めてだった。何度も耳にするたびに、テレビや友達の会話の中で耳にするたびに、すごく不快になる言葉。全てをあっという間にシャットダウンし、そして蔑みの意味を存分に込められる魔法のひと言。
ああ私、キモいんだ。
「勝手に写真撮ったりして…ごめんな…さ…」
とたんに、涙があふれて来た。今一番その言葉を言われたくない人に、キモいって言われてしまった。言わせてしまった。
一粒でも涙が溢れ出したら、もう自分では止まらなくなってしまった。
「ごめんら…さ…」
どんどん、泣き声が大きくなる。謝らなきゃ、ちゃんと謝らなきゃ。そう思う程に、言葉が喉につかえてしまう。唇も震えて言葉にならない。
航くんは小さな舌うちをして、わざと大きな音をたててドアを開けたまま教室を出て行ってしまった。きっとすごく怒ってイライラしただろう。
最悪だ。私はもう航くんに顔見せできない。航くんを心から怒らせてしまった。このプリント達と引き換えに。
口に手を当てても、嗚咽が止まらない。涙が溢れ出てくる。こんなに泣くなら、最初から写真なんか撮らなければよかった。こんなに辛いと思うなら、あの時追いかけなければよかった。私はしては行けない事をしてしまったのだ。
「ごめんらさ…」
航くんが行ってしまってからも、私は謝り続けていた。涙を手の甲で拭っても拭っても、後から後から湧き出してくる。
突然、航くんが開けて出て行ったドアから、誰かが素早く入って来た。一年生の上履きが目に入る。びっくりして顔を上げると、横を向いたままの航くんだった。逆光で表情は見えなかったけど、確かに航くん本人だった。
「少し言いすぎた」
航くんはそう言いながら、私を急に両腕で抱え込んだ。私はビックリして顔を上げようとしたけど、すでに顔を胸に押さえつけられて動けない。息もできない。そして航くんはさらに無言で、ドアと壁の間の影に私の体を押し付けた。
パニックになっても、一度泣き始めたらしゃっくりはそうそう止められない。声にならない声を出しながら、航くんのブレザーに容赦なく自分の涙と鼻水が押し付けられる。
「黙ってろ」
航くんがそう言うのと同時に、すぐに男子二人の話し声が聞こえて来た。生徒の誰かが廊下を話しながら歩いてくるようだった。私は声を出さずに、肩だけしゃっくりと同じように動かしていた。航くんの温かさと早い鼓動が伝わってくる。
声の主達は私たちに気づかず、やがてすぐ横を横切って階段の下へと行ってしまった。
それと同時に航くんは腕を緩めて、笑いながら私の顔を見た。
「それにしても…お前すごい顔で泣くのな」
私はこの学校で航くんに出会ってから、笑顔を初めて見た。優しい、困ったような笑顔だった。
「ごめん。ただ…俺は目立ちたくないだけなんだ。もう泣くなよ。俺が言ったことなんか、気にすることないのに」
そう言われたとたん、また涙があふれて来た。人前でこんなになるくらい泣いたのは初めてだった。おじいちゃんが死んだ時だって、両親が離婚した時だって、人前では絶対こんなに泣かなかったのに。
航くんは、わざわざ戻って来てくれたのかもしれない。他の人に泣いているところを見られないように、私をかくまってくれたのかもしれない。
「その代わり、この写真は全部没収な」
航くんの本当の優しさを垣間みた日。最初は気になっていただけなのに。助けてあげられないかなって思っていただけなのに。私はこの日、恋に落ちた。航くんが好きなんだって言う自分の気持ちに気づいた。あんな、恋人みたいに抱きしめられて、ブレザーの胸元をさんざん汚したあとで。
どんなきっかけがあったのは知らないけれど、航くんに仲のいい友達が出来たのは数日前から知っていた。その子の名前は、隆弘。
この航くんが隆弘と呼ぶクラスメイトの小山田隆弘くんは、とにかく背が高い人だった。航くんのプラス五センチくらいだろうか。航くんもかなり背が高い方だから、この二人が歩いているとかなり目立つ。そして、何だかよくわからないけど何も出来ないダメダメな人らしかった。というのも、何かにつけて航くんがお世話をしているところを何度も目撃したからだ。
例えば、この前の英語スピーチの表彰式。メガネの航くんに何度も話しかけて、何か説明させている。自分も目が悪かったらメガネ持ってくれば良いのに。
特別校舎からは、全ての教室が見渡せるようになっていて、よく保健室に行くときや移動教室の時なんかに、航くんのいる一年A組を無意識にチラ見してしまう。すると、窓側に座っている小山田と航くんが、授業中なのに二人で何か話している姿が目に入る。しかも前の席に座っている航くんが、まるで後ろの席の小山田くんの家庭教師みたいに見えるのだ。
お昼の時間でも、よく晴れた日は二人で中庭で昼食を食べているけど、小山田くんはいつも購買で買ったパンで、航くんはよく小山田くんにおかずをあげているのを見かけた。他の人には分からない何かほんわかしたラブラブっぷりが気になっていたところだった。
「で、そいつに言うわけ? この人は私の未来の彼氏なんで、ちょっかい出さないでくださいって」
ポットのウーロン茶を日本酒みたいにぐびっと飲んだれいちゃんがニヤニヤしながら言った。
「そんなこと言う訳ないでしょ。お願いだから茶化すのやめて」
今日も、窓の下には航くんと小山田くんが二人でまったりベンチに座っているところが見える。私は向こうから見えないように気をつけながら、教室でれいちゃんとお弁当を食べていた。
「そんなザコキャラのことなんてどうでも良いから、その熱い抱擁の後に進展あったわけ?」
私は真剣に話しているつもりなのに、どうしてもいつもおばさんの井戸端会議みたいな話になっちゃうのかなと疑問に思う。
お箸を咥えながら、少し声を落とす。
「それが、そのザコキャラが今すごくポイントなんだよ。だって、その子に彼女ができちゃったんだから!」
「なんでわかるのよ」
「だって…その彼女が、うちの写真部の一年だから」
「わお、じゃあもう情報筒抜け? 偵察機? ってかノロけまくり?」
「すごくいい子なんだから、そういう言い方やめてってば」
小山田くんは、新しい彼女の山田悠菜さんによれば“とにかく放っておけない人”なのだそうだ。お弁当もいつも購買のパンなので、彼女ががんばってお弁当を作ってあげる事にしたそうだ。忘れ物は日常茶飯事、体は大きいくせにぼーっとしていて、そのくせ笑った笑顔がきゅんとくるかわいさ…らしい。うん、恋は盲目。何も見えてない。
もちろん、普通ならよかったねと応援してあげたいところだが、この二人がお弁当を一緒に食べるとなると話は若干変わってくる。航くんにとって今まで一緒にいた友達が急にいなくなってしまったら? 急に世話する人がいなくなったら? れいちゃんがいきなり学校内で彼氏作ったら、私はお昼休みは寂しくて一人じゃ耐えられない。
こういう時だけ私の予感は的中するもので、案の定小山田くんは山田さんとお昼休みを一緒に過ごすようになった。と、彼女が部室で嬉しそうにノロけている。困った。
「小山田くんに、“山田、ちっちゃくなっちゃうけど小山田にならない?” とか言われたらどうしよう! 先輩」
人間、幸せな人が増えるってことは、悩みを持つ人が増えるってことなんだなと実感する。私も、はやく手を打たねば。ってか、まず普通に会話だけでもできるようにならないと。
でもその“普通に会話”というのが、とても私にはハードルが高い。まず普通に話す話題がない。向こうは私をすごく警戒している。そして向こうは私に興味がない。
「先輩、そんなに羨ましいですかあ? この前写真部に乗り込んで来た、たかちゃんと同じクラスの村上くんは周りから固めていくとうまく丸め込めるタイプですよ」
「丸め込めるなんて…そんなの嫌だよ」
と言った瞬間、山田さんはニカッと笑った。
「ひっかかった! 村上くんってところは否定しないんですかあ? だから先輩は可愛いんですよね。私、応援してますよ!」
山田さんはさらに私の耳元でささやいた。
「村上くんは、マザコンて聞いてますよ。あくまで小山田くん情報ですけど。ママから落とすのもいいんじゃないですか」
私はその日、航くんのおばさんに気がついたらメールしていた。最初に会った時、こっそりメアドを聞いていたのだ。こういうところは自分でも抜かりないなと思う。
そして航くんがいないという平日の夕方、私はこっそり航くんの家にお邪魔した。しっかり菓子折りを持って。
「まあ、そんな気を使わなくてもいいのに…でも何で餃子?」
「えっと…なんでですかね? でも美味しいんですよ。うちはおやつに餃子食べます。お土産用のは家で焼かないといけないんですけど、私はいつもお店で焼いてもらったのをお土産にしてます。よかったらどうぞ」
今日は、航くんは病院のカウンセリングを受けに行っているという。私はおばさんにリビングダイニングのテーブルに案内された。いつもはどこに航くんが座っているんだろう。
「体の傷はもう癒えたけれど、心の傷が…ね」
私は正直に、航くんのことをもっと知りたいとおばさんに言った。新聞記事だけじゃわからない、あの事故のことを。
航くんが中学二年生だった六月十三日、家の近くの国道で交通事故があった。その時航くんはスイミングスクールの帰りで、一人で自転車に乗って帰宅途中だった。目の前で、軽自動車と普通の乗用車が衝突したらしい。
軽自動車には、運転していたお母さん、後ろに乗っていたその方の父親とチャイルドシートに座っていた息子さん三歳。
乗用車の方に乗っていたおじさんはすぐに車から逃げ出せたけど、軽自動車に乗っていた三人は車がひしゃげて自力で外に出る事はできなかったそうだ。
周りにいた見物人たちが、何とかドアをあけて、運転席のお母さんとおじいちゃんを助け出そうとしていた。でも、全てのドアが開かない。
大人数人が苦労している時に、航くんが…脱出用ハンマーなるものを持って来て、窓ガラスを割った。
私も知らなかったけど、これは車に万が一閉じ込められた場合に簡単に窓ガラスを割ることができるハンマーだそうだ。航くんは、そばに停まっていた車に一台一台声をかけて、そのハンマーを持っていないか聞いて走ったという。
そして、その脱出用ハンマーの一発で窓ガラスは粉々に砕け、中に体を入れたけど、チャイルドシートの子供はもちろんシートベルトをしていた。その脱出用ハンマーというのは、はさみなんかじゃ絶対に切れない頑丈なシートベルトを簡単に切れるカッターもついていて、航くんは躊躇なくシートベルトをそのカッターで切った。
ギャン泣きしている十五キロの子供をシートからなんとか片手で抱え上げて外に出した瞬間、漏れていたエンジンのガソリンが発火して車は炎上。まだドアも開けられなかったお母さんとおじいちゃんを車内に残したまま。航くんは、右腕のシャツのボタンが一瞬シートベルトにひっかかってしまったために、大やけどを負ってしまう。
その後、新聞記事にあるように、航くんは車内に残っていた他の二人とともにすぐに救急車で運ばれたけど、残念ながら二人は翌朝に亡くなった。
航くんのやけどは本当に酷かったらしい。救急車に乗っていた間、ずっとけいれんしていたという。
私は胸が詰まった。おばさんも、だんだんと気分が悪くなっていくようだった。
「あの、無理して話していただかなくても…」
私は気を使ったつもりだったけど、おばさんはとにかく話したがった。
「だって私が話さなかったら、たぶんあいちゃんには誰も教えてくれないだろうから」
航くんは治療室でのことはあまり記憶にないそうだ。長袖のシャツを着ていただけの航くんは、炎を思い切りかぶってしまった。あまりに痛みがひどくて、何度も気絶する。鎮痛剤なんて全然聞かなくて、可哀想に思った若い看護婦さんが泣いてしまう程ひどい有様だったらしい。
クリームとガーゼで包まれた右上半身は、ガーゼを変えるたびに皮膚がはがれ、看護婦さんがナイフのようなもので取っていたという。
痛みで何度も気絶なんて…涙がまたあふれて来た。どうしよう。
結局皮膚移植が行われ、見えないところの皮膚を一部切り取って移植手術をしたという。移植の手術を二回、そしてその後の修正手術というものを二回やったという。
病院でずっと治療を続け、結局中学を留年してしまった。それは本人も仕方がないと諦めてくれたという。
ゆいから聞いた喉のやけどを聞いてみたけど、それはデマだった。
「喉をやけどすることを気道熱傷っていうんだけど、航は泳ぐ時みたいに瞬間に息を止めてたらしいから、大丈夫だったみたい。声が出なかったのは…ショックのせい。精神的なものだってカウンセラーの人は言っていた。今はもう普通に話せるけど。あとは、時々やってくる“もう痛くないはずなのに痛い、熱くないはずなのに熱い”って思う感覚ね。それは今も継続してカウンセラーの人に見てもらってるけど、決定的な有効策はないみたい」
おばさんは、無理矢理餃子を一口ほおばって、美味しいと言ってくれた。
「新聞記事になって、知らない人から送られてくる大量の寄付金やお花やお手紙に対処するのでも大変だったわ。お花やお手紙は嬉しいけど、お金はさすがに受け取れないでしょ。そこはお父さんがうまくやってくれて」
「感謝状、結局もらわなかったんですね」
「うん、辞退させてもらった。というか、本人が嫌だって言ったの。欲しくないんじゃなくて感謝なんてされたくないって言ったものだから。本人が嫌がってるのに無理してあげることもないだろうって、消防署の方がね」
しばらくの沈黙のあと、おばさんが気分を取り戻したかのように、パンッと膝を叩いた。
「で、私も質問。この前航のブレザーのここんとこを汚したのは、あいちゃんなのかな?」
おばさんは自分の胸元を指差して、突然私に聞いて来た。そして、テーブルの向かいで頬づえをつきながら、私の顔を覗き込んだ。私は顔がみるみる熱くなる。
「…あの、お話色々ありがとうございます。でも私そろそろ」
鼻をすすりながら慌ててそう切り出した時、後ろから声が聞こえた。
「誰? 客?」
振り返ると、学ラン姿の航くんが立っていた。いや、よく似ているけど違う。髪型もずっと短い。
「あらお帰り。保坂あいちゃん、孝広は覚えてる? 航と小学生の頃お友達だったのよ」
たかひろ…小山田くんと同じ名前の孝広くんは、私をまじまじと見て、素っ気なく答えた。
「知らね。それより何でテーブルに餃子だけが乗ってんの」
私はあわてて挨拶を返した。
「これ、私のお土産なの。美味しいから、よかったら食べて」
「でも、何で餃子?」
親子だなあ…。
「うちはおやつに餃子食べるの」
「で、兄貴の彼女になりたい女が、兄貴のいないうちに周りから固めてくって寸法?」
「孝広!」
「そんなんじゃないよ! 誤解だよ!」
「そうかよ、別に誤解したままでもいいんじゃね?」
私はつい、さっさと階段を登っていく孝広くんを追いかけていった。
「ちょっと待って本当に…違うんだってば。おばさん、ちょっと失礼します」
追いかけた先は、孝広くんの部屋だった。ドアを閉められる前にがっちり手で押さえた。
「ちゃんと人の話を聞け、コラ」
ちょっとイラつきぎみに掴んだドアを開けると、壁一面のポスターが目に入った。すごい。音楽が好きなんだ。しかもダンスミュージック?
私には分からないバンドとか、ミュージシャンのポスターが、壁一面に所狭しと張られていて、ぱっと見、全体的に黒くなっている。白い壁なのに。
右の壁には山のように積まれたCDとレコード。レコードなんて、おばあちゃんちにしかないと思っていたのに。もちろん音楽の中身は全然違うだろうけど。
「へえー孝広くん、ダンス好きなんだ?」
私もあまり覚えてないけど、確かに航くんには弟がいた。ちっこくって、かわいくて、よく泣く子。それが…こんなにもスクスクと反抗的に育つなんて。
「勝手に入んなよ。兄貴の部屋でイチャコラしてろ」
「だから違うんだって」
学ランを無言で脱ぎ始める孝広くんに、私はちょっと焦ってしまった。このままだと着替えをのぞく事になっちゃうから、部屋を出て行かないといかなくなるわけで。そうすると、もうたぶん二度と弁解できないわけで。
「わ…私、実はムーンウォークできるんだ、ホラ!」
ものすごい突然だってわかっていたけど、すでに餃子で変な人認定されてるし、イチかバチかで3ステップぐらいやってみた。ムーンウォークと言えば、ダンスの基礎! とは言え、これしか出来なかった。
「な…にそれ」
「何って、ムーンウォークだよ。知らない? 有名じゃん!」
「知ってるけど、何であんたがそんなことできるんだよ」
よし、土壇場で食いついて来た!
「去年、いとこのお姉ちゃんが結婚するっていうんで、そのいとこのお兄ちゃんと一緒に結婚式の余興で踊ったんだ。お兄ちゃんは別にプロじゃないんだけど、ダンスが好きでさ。それで私もその時に猛特訓して覚えたの」
「もう一回やってみてよ」
孝広くんは、学ランを脱いだまま、ベッドに座って私を凝視している。こ、怖い。
「う、うん」
私はもう一度部屋の端まで行って、照れながら足を開いた。制服のスカートじゃうまく見えないかも、と思って少し裾をあげてみる。五ステップもやったら、壁に背中をぶつけてしまった。
「ご、ごめん、大きな音立てちゃった」
「…」
孝広くんはいきなりベッドから慌ただしく降りて、絨毯の床に正座をした。
「師匠! 俺にそのムーンウォークを伝授していただけないでしょうか!」
「へっ?」
私は思わず、変な声を出してしまった。
孝広くんは、大のダンスミュージックファンだけど、自分で踊る、という発想が今この瞬間までなかったという。
これだけ好きで、そういう発想が出て来ないって方が私には驚きだけど、とにかくまあ、今まで考えた事がなかったらしい。
とにかく落ち着いて話を聞く事にした。
下で待っていたおばさんは、私と孝広くんがなぜか仲良くなったことにすごく喜んで、キャピキャピしながらお茶と餃子を部屋まで持って来てくれた。
「ああ、あの時のあのホワイトレディか! 随分太ったね」
「余計なお世話だよ」
ホワイトレディというのは、私と航くんがレンジャーごっこをしていたとき、私がやっていた女のレンジャーの名前だった。よく覚えているなあ。太ったってのは本当に余計だけど。
「というわけで、師匠。お願いします」
「いやいや、まだまだ話は終わってないから。孝広くんは航くんに…その、彼女ができるの嫌なの?」
おそるおそる聞いてみると、一瞬ふてくされたような顔になった。
「そういうわけじゃないけど。単に兄貴のことが嫌いなだけ」
うわあ、直球だ。さすが中学生。
「何でよ」
「ヒーローづらしてるから」
「いや、全然してないと思うけど」
逆に悪役みたいに振る舞っているぐらいなんだけど、と私は心の中で突っ込んだ。
「母親も父親も、それはそれは大事な兄貴につきっきりだよ。何てったって人命を救助したヒーローだからな。親は、俺が今何が好きなのかとか、何考えてんのかとか、何も知らねーし」
「そんなの…ご両親はたぶん航くんのことだって、今何が好きなのかとか、何考えてんのかとか、何も知らないと思うよ」
「えっ」
孝広くんは、あからさまに驚いた。
「そんなの、子供だったら親と意見が違うのなんて、超当たり前だと思うんだけど。ヒーローとか関係ないよ」
孝広くんは、まだきょとんとしている。まだ中学生だもんね。親が離婚した頃は私もまだ中学生だった。
「でも! 勉強出来ても少しは遊べって文句言われて、部活出来ても勉強してないって文句言われて。兄貴のこと考えれば裏があるだろって言われて、ちょっと反抗するばそらみろって、親は結局俺が何やったって文句言うんだ」
「じゃあ、好きな事やって文句言われる方がいいに決まってんじゃん。さ、やるよ」
もし単にかまって欲しいだけなら、話はめちゃくちゃ早い。
私はさっさと立ち上がって、左足をつま先立ちで前に、右足を伸ばして後ろにかかとをつけた。基本のポーズだ。
「ホワイトレディ、いきます!」
「お願いします、師匠!」
弟の心を偶然とはいえ、がっちりつかんでしまった私。航くんのカウンセリングが終わって帰ってくる前に慌てて家を出た。
もちろんこの事は内緒にしてもらって、次回の練習の約束までとりつけてしまった。
ああ、私、航くんのいないところで何やっているんだろ。本気で周りから囲もうとしているように見える。
でも、お母さんは最後の電話で私に弟ができる、と言った。気がつかないうちに意識してしまったのかもしれない。弟との会話。うん、上手くいくといい。
しかしあの号泣事件から、私は一度も航くんに会えずにいた。家にはお邪魔したが、本人不在を狙ってしっかり逃げて帰って来た。
正直、あの後でどんな顔をして会えばいいのかわからなかった。それ以上に、どんな話題で航くんと話をすればいいのか、見当もつかなかった。
そうこうしているうちに、孝広くんとの次の約束の日が来てしまった。
航くんの家、いや、今日は正しくは孝広くんの家だ。来ちゃったのはいいけど、本当に大丈夫かなと思いつつ、今日はちゃんと孝広くんの正式な師匠として招待されているんだから大丈夫と胸を張った。航くんも夜までいないって言っていたし。
孝広くんの部屋に入ったら、早速特訓開始。
とりあえず、インターネットで動き方とかチェックしてくれていたみたいだけど、やっぱり直に目で見て、できないところはどう直せばいいのか指摘してくれるのは強い。
「そっか。やっぱり直に目で見て、どこがどんな風に違ってるのか確かめないとね」
つい、ひとり言が出てしまう。
「どうした、師匠」
「ううん、何でもない。それよりもう一度ここ見て。つま先立ちした足の方に重心を乗せる時。そう」
孝広くんは元々好きなだけあって、ステップの飲み込みも早かった。やっぱり若いし男の子だし、何より知りたいって気持ちであふれているし。
「もう完璧。後ろに歩いてるようにしか見えない。マジで」
私はついでに教えた腕の振り付けのせいもあって、汗だくになりながらその使命を終えた、ってか終わらせた。素人の私じゃこれが限界。あとは勝手にどっかの動画から学んで吸収してくれ。
「ちょっと汗かいたから着替えていい? ここで」
孝広くんは私が着替えている間に、飲み物を取って来てくれると言って、一階に降りた。私はTシャツを脱ごうと、シャツの脇を持ちあげた。しかもちょっと鼻歌とか歌ったりしながら。
「おい孝広、玄関に女の…靴…」
Tシャツの白一面の視界から開放された瞬間、私の目の前には孝広くんではなくジーンズに長袖Tシャツの航くんの驚いた顔があった。
なんだろう私、航くんの驚いた顔を見る確立がすごく高い。
私の生着替え…ってか、ブラを見られた。フロントホックのブルーのお気に入り。ああああ。
「餃子、お土産に買って来たから、よかったら食べてね…」
私は上げた両腕にTシャツを絡めたまま固まって、航くんにそういうのが精一杯だった。
「お、おう…」
航くんは、思ったよりもずっと静かにドアを閉めてくれた。
最後に会ったのが、あの号泣の日だったけど、次にこんな形で会うとは思わなかった。でも、もう何かどうでもいい。
気まずい雰囲気が一気に吹っ飛んでしまった。下着姿くらい、減るもんじゃなし。健全な男子に大サービスだ、と気持ちをまず落ち着かせる。
丁度着替え終わると、孝広くんがきちんとノックしてニヤニヤしながら部屋に入って来た。
「兄貴にノックして入れって、いつも言ってるんだけどなあ。やっぱ見られちゃった? 兄貴すごい顔してたぞ」
「ばっちりしっかり見られちゃったよ」
「師匠の下着は何色だったか、あとで聞いておかなきゃ」
「それだけはやめて。…それより今、お兄ちゃんと少し話したい」
私は、航くんの部屋のドアをノックした。
「ちょっと話したいんだけど、いいかな?」
しばらくして、航くんは無言でドアを開けた。もしかして生着替えショックで弱っている? 結構チャンスかも。
「あの、さっきのことだけど」
私以上に航くんも、耳まで顔が真っ赤だった。うわあ、何か意外。虚勢を張っている人って、エロネタ意外に弱いのかな。
「悪かったよ、お前がいるなんて知らなくて。ってか、なんでお前が孝広の彼女なのかよくわかんねーけど」
私はドアを後ろ手で閉めて、立ったまま航くんを見つめた。
航くんは机に戻って、私を見ようとしない。でもああ、勉強始めていたんだ。デスクライトもついているし、何かのノートが開いている。
「誤解しないで。孝広くんとは何でもないよ。 彼女でもないから」
「だってお前、着替えてたじゃん…」
今度は急にこっちが赤くなる。やめて! 恥ずかしい方に誤解しないで。
「孝広くんに頼まれたの! それで汗かいたから着替えてただけ」
話が見えてないっぽい。でも航くんから見れば、まったく分かんないだろうなと納得もいく。
「何を頼まれたら男の部屋で着替えたりするんだ。お前の興味は、俺じゃなくて孝広だったってことか」
「だから違うって言ったでしょ! 順番が逆なの!」
「何の順番だよ」
話が全く噛み合ない。このままじゃ平行線だ。
「同じクラスの小山田くん、彼女できたんだよね。孝広くんと漢字は違うけど同じ名前の子」
「なんでその話になるんだ。ってか、なんでソレ知ってんだよ」
「だって小山田くんの彼女、私の部活の後輩だもん。毎日ノロケられて困ってる」
「へえ。俺には関係ないね」
なかなか乗って来ない。私は続けた。
「そうかな。小山田くんはもう他の人がいるんだから、今度は本物の弟を世話したら?」
「はあ?」
航くんは私の言葉に反応して振り返った。
「孝広くんね、あ、あなたの弟くんの方。お兄ちゃんが大好きでしょうがないって感じだよ。航…じゃなかった村上くんもそうなんじゃない? ただ、お互い意地張ってるだけで、相思相愛っていうか」
「意味わかんねえ。どこからそういう話につながるわけ?」
「下着姿を村上くんに覗かれたって、おばさんに言うよ」
「何を…脅しかよ」
「有効なら」
「お前はバカか」
「うん、友達にもよく言われる」
「しかも何の脅しかまったくわかんない」
「孝広くんの部屋になんで私がいたか知ってる?」
「知らねーよ。エロいことしてたんじゃねーの」
椅子の背もたれに腕をおいて、下から覗き込むような目線を投げてくる。
「私の脅しはこれよ。孝広くんと話して。何で私が孝広くんの部屋に下着姿でいたのか、聞きなさいよ。じゃないとおばさんに本当に言うから!」
私は航くんの部屋を飛び出した。孝広くんの部屋に入って、カバンをひったくる。
「ありがと。あとはお兄ちゃんと二人でうまくやって。じゃ」
私は捨てゼリフみたいに言い残して、逃げるように航くんの家を出た。
やっぱり私だって、ショックじゃなかったと言えば嘘になる。あんな形で下着姿を見られるなんて! しかもよりによって航くんに!
私は熱くなった耳を両手で押さえて冷やした。とにかく収まれ収まれ収まれ。
おばあちゃんにすぐに電話して、ご飯の前に速攻でお風呂に入るとだけ伝えた。
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