本当は透明って、まだ知らない
倉橋刀心
第1話 必然。
鼻血は美女の代名詞である、と私は子供の頃からそう信じて疑わない。鼻血はか弱そうで、美しくて憧れる。
一度も鼻血を出した事がないからそう言うんだ、と人に何度もクギを刺される。でも、一度刷り込まれた可憐なイメージは、ちょっとやそっとじゃ崩せない。
赤い血に刻まれた過酷な運命。はかない命のともしび。姫、あなたはどうしてそんなに自分を苦しめるのか。
「いいから千葉、早く加藤を保健室に連れてけ。お前保健委員だろうが」
私、千葉あいは、先生の名指しで我に返った。うっかり人の鼻血に見とれていた。
「ごめん…れいちゃん、ぼーっとしてた。行こうか」
美しき姫、加藤れいを連れて、教室から出て行く。
二学期が始まった九月、まだまだ残暑は静まらず、熱い空気が廊下に溢れていた。
「ごめん、あい。まだまだ熱いし、現国は頭使うから何かコーフンしちゃって。で、またあんた羨ましがってるわけ?」
「ドキッ」
わざわざ口で言ってみる。
「嫌だ、れいちゃん。そんなことビンゴに決まってるじゃん」
そして退屈な現国の授業を少しでも抜け出せるなら、じゃんけんで負けて仕方なく請け負った保健委員もいいかな、と思う。
「だよね…あい、よく鼻血出したいって言ってるもんね。私にとっては鼻血出したことがないあんたの方が羨ましいけど」
れいちゃんが、がっくりしながらティッシュを鼻に勢いよく詰めている。
「れいちゃん…鼻にティッシュ詰めるなんて、お姫様が台無しだよ。もっとか弱くしてよ。私もお姫様だっこはできないけどさあ」
二人でバカ話している間に保健室に着いた。ノックして開けると、ベッドのカーテンの中から福士先生の“はーい”という声がした。
「すみません、二年C組の千葉です。加藤さんがまた鼻血出しちゃったみたいなんで連れて来ました」
れいちゃんを奥の椅子に座らせようと無言で即す。その時に気がついた。
左側に二つあるベッドの内、手前のベッドの白いカーテンが少しだけ開いている。先生の声も多分そこからだ。何気なく顔を向けた時、上半身裸でベッドに座っている男子の背中が目に飛び込んで来た。え? なに? 保健室の先生と生徒の情事? さすがにマンガの読み過ぎ?
でも、その背中は私にとってかなり衝撃的なものだった。右側の肩から腕、背中の半分あたりまで、他の肌の色とは違うまだら色をしている。これは…やけどの跡? 少し引きつれている場所もある。
呆然と立ち尽くしていた私に、れいちゃんが声をかけた。
「あい、何やってんの」
その瞬間、その人は振り返った。
私はとっさに目をそらす暇もなくて、真っ正面から目が合ってしまった。驚きとも怒りとも見える顔。私は思わず息をのんだ。
「す、すみません、カーテンが…少し開いてたから」
急いできびすを返し、コットンが置いてある右側の棚に行く。あの人、すごいやけどをしてるんだ。大丈夫なのかな。
すごくプライベートなものを見てしまった気がして動揺した。いくらカーテンが開いていたからといって、他人の裸を覗き見するような形になってしまったし。どうしよう。
れいちゃんを椅子に座らせて、しばらくコットンと消毒液で顔に着いた血を拭いてあげていると、福士先生が湿布の袋を持ったままカーテンの中から出て来た。
「ごめんなさいね、お待たせして」
先生はれいちゃんと話を始めたが、私はただ落ち着きなくれいちゃんの後ろで立ち尽くしていた。
しばらくして同じカーテンの中から、その人が出て来た。白い半袖シャツにノーネクタイ、そしてそのシャツの下に紺の長袖タートルネックを着ていた。右手だけにベージュの手袋。こんなに暑いのに。今まで見た事のない顔だ。一年生だろうか。私も転校生だからそんなに生徒の顔を知ってるわけじゃないけれど。
「あの…」
私は声をかけようとした。でもその人は私と話す隙も見せずに、さっさっと保健室から出て行ってしまった。先生にひと言挨拶だけして。
お辞儀をした時に、その人の柔らかそうな黒髪がさらりと揺れた。そして、本当に一瞬だけ再び目が合う。でも、その人は表情を微塵も変えず、やけに冷たい視線を向けていた。
何か嫌な感じだ。大丈夫かな、なんて心配して損した。
でもこの時から、ものすごく気になってしまったのだ。あの冷たい視線が、あの…やけどの痕が。
私はこの地元の高校に“戻って来た”という言い方をよくする。それは、私はこの街に小学五年生まで両親と一緒に暮らしていたからだ。
兄弟はいない。一人っ子で甘やかされて育った。
甘やかされて育った、とは何たる言い回しだろうと今の私は時々思う。甘やかす程心の余裕があったのに、どうして両親は離婚を選んだのか。
お母さんからは、お父さんが原因だと聞かされた。お父さんの何が原因なのか、私にとってはどうでもいいことだった。家族が離ればなれになることに変わりはない。誰も責める義理はないと思う程冷めてしまっていた。
私は小学五年生の時に、お父さんの仕事の都合で一度東京に移り住んだ。実質は小学六年生と中学の三年間、それに高校の九ヶ月間を東京で過ごし、両親の離婚とともに引越、そして最後に前に住んでいたお母さんの地元に再び舞い戻って来た。
地元とは言っても関東圏だから、東京までは電車で約一時間半で行ける。でも、まだまだ自転車通勤では畑道の間をぬって走るし、春の陽気にはコートだけを着て全裸を女子高生に見せたがる露出狂も出る立派な田舎だ。
離婚決定後、私はお母さんと暮らすことになって、名前もお母さんの旧姓になった。けれど、それもほんの少しの間だけだった。お母さんが独身に戻って主婦から会計の仕事に復帰したあと、待っていたかのような元同僚さんからの猛烈アプローチ。
私としては、だったら最初からお父さんに持っていかれるんじゃないよ、と思う。お父さんに会う前からその同僚のことはお互い知っていたんだから。でも、大人の男女関係を娘がとやかく言う筋合いもないとも思ってる。
悪い人じゃないとは分かっているけど、お母さんが再婚したいって言って来たとき、もう高校生になるんだし石井という新しい名字にまた変わるのはさすがに嫌だと反発した。
話し合いは結構長引いたけれど、お母さんに赤ちゃんができたと分かったあと、状況は一変した。
私は自分の希望を、お母さんと義父の石井さんに何度も訴えた。おじいちゃんが亡くなったあと一人暮らしをしているおばあちゃんと一緒に住みたいと。
結局二人は折れて、前に住んでいた地元の隣町にあるお母さんの実家・おばあちゃんちに私を預けることにし、お母さんは石井さんとお腹の赤ちゃんと共に東京で新たなスタートを切る事になった。
結局私の思い通りになったけど、その嬉しさとは裏腹にモヤモヤした後悔のような、悲しさのような寂しさのような、何とも名前がつけられない気持ちを抱えることになった。
赤ちゃんが出来て、お母さんも私が邪魔になったんだ。よくやるよ。長女と十六歳も離れている妹か弟なんて、どうやって接すればいいんだ。
その代わり、おばあちゃんはすごく私に良くしてくれる。六十七歳とは思えない程ハツラツとしていて、毎食お肉をがっつり食べる。私がダイエットしたいっていっても、肉食ダイエットとかいうご飯を食べないダイエットを勧めてきた程だ。
おばあちゃんとの二人暮らしは、正直快適だった。ちゃんと個室もあるし、年が明けてすぐに転校した高校も、二年生になっても今のところ問題はない。
本当は高校一年生の三学期に転校なんて、すでに出来上がっていた友達の輪の中に入るのは難しかった。でもそういうのも気にせず普通に接していれば、れいちゃんのようなクールで群れない友達もすぐ見つけられる。二年になって、また同じクラスになれて本当によかった。
小学生時代の知り合いは男子しかこの高校にはいなかった。さすがに高校生ともなると、小学校の時にどんなに仲良く遊んでいても、何か気まずい。何度となく話かけてみたけど、結局“彼女の座を狙ってる”と他の女の子にことごとく勘違いされることがわかって、自ら声をかけるのをやめた。何だか思春期みたいだ、と思う。いやまあ十分に思春期なんだけど、私たち。
入学式に美しい叙情を見せてくれた学校内の桜の木は、まだまだ青々しい葉をこれでもかと茂らせている。セミも未だに元気に鳴いているし、秋はまだまだ遠い。
所属している写真部でカメラのお手入れ講習を一年生向けに開いたあと、私は学校から最寄り駅までの畑道を一人で歩きながら、保健室で会ったあの男子のことを考えた。
何か気になる。どこかで会ったことがある? 近所の年下の男の子? 友達の弟? そんなのいないよなあ…。
悩んでいる暇があったら直接聞けば早い、というのはB型れいちゃんの座右の銘だ。うん、直接聞いてみよう。他の誰かに。だって私、A型だもん。
翌朝、さっそくれいちゃんに聞いた。でも、れいちゃんは保健室でその男子の姿を見ていないからわからないという。そっか、確かに顔動かせなかったもんね、あの時。お昼休みに、他の適当なクラスメイトにも話しかけてみた。二人目ですぐにヒットした。
「あいつはね。ある意味超有名人だよ」
新沼くんは、ニヤリとした顔で私の質問に答えた。二十円チョコの誘惑にあっという間に負けたくせして。
「あいつは村上航っていうんだ。しかも本当は俺たちと同い年なんだぜ」
村上航? その名前を聞いたとたん、私は一気に胸の高鳴りを感じた。わたる…?
「あいつは中学二年の時に、目の前で起きた交通事故の被害者を助けようとして、大やけどを負ったんだ。新聞にも載ったんだぜ。でもそのやけどがひどいもんで、入院や皮膚の移植手術とか繰り返しててずっと病院に入院していた。で、結局一年留年して、二回中学二年生をやったわけだ。それで今は一学年下でこの高校に入学した、というわけ」
私は、言葉が出ないくらい驚いた。
「でもさ。あいつ、あの事故のあと変わっちまったんだ。誰も近づけない。事故にあった人を助けたヒーローなのにさ。誰とも話さない、誰ともつるまない、誰にも心を開かない…周りも完全に“腫れ物”扱いだしな」
新沼くんは言葉を切った。
「私、航くんと小学校の時同じクラスだったんだ。私、五年生の時に引越ちゃったんだけど」
「そっか。俺は、あいつと中学の時同じクラスだったんだ。結構仲もよかった。家でゲームしたりしてさ。でも…本当にあの時から変わっちゃったんだ、あいつ。中学に戻って来た時何度か声かけたけどもう相手にしてくれないし、部活もやめちまってさ。俺この高校の入学式の時にも、あいつに会いに一年のクラスに行ったんだ。でも、完全に無視された。無視だぜ? 仲良かったのに。俺にはあいつのことはもう分かんない。それ以来もう関わらない事にしたんだ。やることはやったしな」
「あり…がとう」
やっとの思いで言葉を出した。でも…あれが、本当に村上航くん?
航くんとは、小学校の時同じクラスだった。まだ全然子供の顔だったけどかっこいいとクラスの中でも人気があった。
小学校時代は、みんな男の子も女の子も関係なく下の名前で呼んでいた。航くん、あいちゃんと。
私は小学校の頃はとてもやんちゃだったから、女の子とよりも男の子とよく遊んでいた。ゲームもしたけど、一番楽しかったのはレンジャーごっこだった。テレビのヒーローを真似て、レンジャーの戦闘ポーズを練習した。私は勿論いつも女のレンジャー役で、女っぽい決めポーズが大嫌いだった。でも、航くんは“レンジャーのスーツの中身は全員男なんだから、あいちゃんにぴったりじゃん”っていつも言っていた。ようするに、私の外身は女の子だけど中身は男ってことだ。私はそれに妙に納得していた。うまいこと言うな、とまで思っていた。
新沼くんは、肝心の事故についてはあまり教えてくれなかった。その代わり、学校か近所の図書館で新聞を調べればいいんじゃないのと言ってくれた。先入観なしに事故のことを知るにはそれが一番だと。話したくない…というのが本音だとも言った。一体、三年前に何が。
三年前と言えば、私がまだ母と二人で東京に住んでいたころだ。いや、両親が離婚して引越に忙しくしていた頃だろうか。母は学区が変わって転校しないように、私が通っていた中学校の近くにアパートを借りてくれた。小さくって、古くって、とても友達を呼べるような部屋じゃなかったけど、お母さんは一生懸命働いて、私が高校に行くお金も工面してくれた。
例の元同僚さんが猛烈アタックしてきた頃、私は高校受験でピリピリしていた。多分、お母さんは私が高校受験が終わるまで待っていたんだと思う。私が別々に暮らしたいって言うなんて夢にも思わずに。
私は赤ちゃんが出来た時、何だか裏切られた気がした。あくまで何となくだけど。ずっとずっと妹が欲しいって思っていたけど、こんな形で実現したいわけじゃなかった。お父さん違いの姉妹なんて。
自分が一番不幸だなんて思ってないけど、何も悩み事がない程幸せじゃないってことだけも感じてた。
航くん。背がすごく伸びたんだね。小学生の時は私と同じくらいだったのに。顔も丸くて、まだ子供顔だった。元々かっこよかったけど、今はもっとかっこよくなってる。でもあの目。あの冷たい目。まだ…信じられない。
この日、私は部活をさぼってまずパソコン室に向かった。おばあちゃんちにWi-Fiはないから、パソコンを持ってても宝の持ち腐れと思って買ってない。ってか、買ってもらえてない。携帯にも限度はあるし。
学校のパスワードを打ち込んだあと、新聞記事を早速検索してみる。でも地方の小さな交通事故、しかも三年前とあって、これという記事は見つけられなかった。その代わり、航くんであろう他の検索がヒットした。
航くんは、中学一年生と二年生の時に関東中学校水泳競技大会なるものに参加していた。
バタフライの種目で、中学二年で異例の百メートル二位、二百メートル三位を勝ち取っていた。すごい。一年の時の五位、六位から随分タイムを縮めている。あとはほとんど全員中学三年生、言い換えればずっと部活で練習して来た人が並んでいた。
でも新沼くんの話だと、航くんは事故に遭ったあと部活をやめている。何もなければ、中学三年で一位くらい余裕で取れていたかもしれない。あくまで、たられば、だけど。
確かに思えば航くんは小学校の時、駅前のスイミングスクールに通っていた。一度も覗いたことはないけれど。航くん本人が、すっごく楽しいよって言っていたのを思い出して、思わず顔がほころんだ。
インターネットで調べられる内容にはやっぱり限界があった。
私は足早に学校を出て、そのまま近くの市立図書室に向かった。この日は丁度水曜日で、遅くまで図書室が開いている日だったからラッキーとも言える。
図書室のお姉さんに聞くと、地方版の記事は新聞記事データベースを契約している図書館でないと見られないということがわかった。私が行った図書館ではなく駅の向こう側の少し離れた中央図書館でないとダメらしい。
壁にかかっている大きな時計を見る。もう五時半、どうするか。
とりあえず図書館脇のコンビニに立ち寄って、メロンパンとコーヒー牛乳を買った。
携帯でおばあちゃんに電話した。とりあえず遅くなるけど、七時まで図書館にいること、ちゃんと家でご飯を食べるけど、先に食べて欲しいことを伝えた。
今までおばあちゃんと暮らした九ヶ月で、こんなことは初めてだ。こんな遅くまで一人で図書館に残っていることも。いい子にしてなくちゃいけないってのはすごく分かってる。でも。
私は半分残ったメロンパンを袋に入れて、コーヒー牛乳の紙パックを捨てた。
腹は収まった。あとは好奇心だけだ。
私はバスで中央図書館まで向かった。夕方のラッシュと重なってバスはかなり混んでいたけど、図書館前はすぐだったから我慢した。くしゃみを連発しているマスクのお姉さんを気の毒に思い、秋の花粉症は今の時期きついよねなどと話すおじさんたちに同情した。
中央図書館は美しいレンガ造りで、まるで本の要塞のような佇まいをしていた。最後にここに来たのは何年前だろうか。小学生の時たぶん、見たかったアニメか何かのDVDを借りに来た以来だ。
受付のおばさんに新聞記事の調べ方を教えてもらって、マイクロフィルムの見方と機械の使い方を教わる。幸い三十分くらいで記事は見つかった。閉館ギリギリの時間だ。
短い文だったから、ノートに手書きでコピーする。
受付の人に挨拶して外へ出ると、どっぷりと日が暮れていた。あーこんなに暗くなるまで何やってるんだろ、私。
家に帰る電車の中で、さっき写した手書きコピーを開いた。
『十三日午後七時五十分頃、○○市新田二丁目の国道で、近くに住む主婦、Aさん(27)と△△市の会社員、Bさん(51)の乗用車同士が衝突、炎上した。Aさんと後部座席に乗っていたAさんの父親(70)は重度のやけどを負い、病院に搬送されたが十四日朝までに死亡。後部座席の息子(3)は周囲の人に救助され、軽いやけどを負った。
県警○○署によると、現場は片側2車線で信号機のある交差点。Aさんが右折しようとした際、対向してきたBさんの車と衝突したもよう。Aさんは△△市内から帰宅途中だった。同署は原因を調べている。なお、後部座席の子供を助けた中学生(14)には後日消防署長より人命救助の感謝状が贈られる予定』
炎上…あの国道で。やっぱり車が燃えたんだ。あのやけどの痕からして、かなりの炎だったんじゃないかと思う。もしかして、助けてる途中で爆発とかがあったのかな? こんな小さな地方版の記事だけじゃ全然状況がつかめない。
誰かに思い切って聞くしかないか。でも誰に聞く?本人に?
さらに、私は不思議に思った。感謝状が送られる程の人命救助なのに、名前が乗っていない。普通そういうのって大げさに名前を出して、中学校の名前まで堂々と出して、写真付きで制服の航くんが消防署長と笑顔で映ってる写真とか、絶対ありそうなのに。
私は翌日も我慢できなくて同じ図書館に行った。記事を調べたことはれいちゃんや新沼くんにもとりあえず黙っていた。そして、すっかり顔見知りになったおばさんに“お勉強熱心ね”と言われつつ、マイクロフィルムでその後の記事を探した。
しかし…事故のあとの四ヶ月先まで丁寧に記事を探すが、どうしても事故のあとの追加記事が見当たらない。特に感謝状のくだり。
航くんは感謝状を受け取っていないのだろうか?
今日一日、かなり意識して一年生のクラスを見てみたが、意外に敷居が高い。うちの高校は学年ごとに建物の階が違うから、何か用がないと違う学年の階でさえも行きにくい。それに私は、村上くんがどのクラスにいるのかも知らなかった。
ため息。さすがに三時間も細かな文字を見ていたら疲れる。昨日のメロンパンの残りがカバンに入れっぱなしと気がついて、こっそり下を向いてかじる。飲食禁止だからね、館内は。
私の好きなメロンパンは、いかにもメロンですって偉そうに自己主張する。そんなメロンパンが好きでたまに買ってたけど、今日は何だか、その主張そのものに抵抗感を感じた。なんだろう、この気持ち。航くんが自己主張もせず感謝状をもらわなかった、と推理したから? そんなことを考えるだけで、私の味覚まで変わるのだろうか。
夜になって、家から一本の電話をかけた。
ゆう。佐伯ゆう。私の小学校からの友達で、未だに年賀メールとか細々とやりとりしていた友達。違う高校になってしまったけれど、夏休みは少し一緒に遊んだし、九月の連休にもまた一緒に遊ぶ約束をしている。
すぐに電話は繋がった。メール以外では夏休みの最初に会った以来久しぶりだった。少しだけお互いの近況報告を手短にしたあと、思い切って本題を切り出す。
「ねえ、ゆう。昔小学校の同じクラスに村上航くんっていたじゃん。覚えてる? その航くんが私の高校に一学年下で入学してたんだよ」
「え? あの、航くんて…あの事故の?」
ゆうはやっぱり何か知っている。私はまくしたてた。
「ゆう、お願い。知ってることがあったらとにかく全部教えて!」
ゆうによると、彼は学区が違うから同じ中学には進まなかったという。それでも、中二の時のあの事故は、当時近所で知らない人はいない程だったという。
「だって、航くん、噂によるとすごいやけどだったんだって。ずっと病院に入院してたらしいんだけど、そのうちに何度も皮膚の手術したって噂。喉もやけどしちゃったらしくて、一時期声も出なかったんだって」
私はショックを受けた。喉のやけど? 手が微かに震えてきた。
「詳しいことは私もわかんないんだけど…役に立てなくてごめん。でも何かしばらくしてから、航くんの話が何かこう…タブーみたいな雰囲気が出て来て、私自身はあんたみたいに航くんと特別仲良かった訳じゃなかったから、まあ、口つぐんだよね」
「タブー? なんでそのこと、もっと早く教えてくれなかったの? 私が東京にいる時だって、話そうと思えば話せたじゃん。メールでも」
電話口のゆうは口ごもった。
「ごめん…でもなんかそういう話ってゴシップみたいじゃん。私があんたがそんなに村上くんのこと気にしてたなんて知らなかったし、こういう話すると、一気に場が沈むし」
場が沈む。その言葉には、優しさと残酷さが混ざり合っているように思えた。
新沼くんの、あの冷ややかさはここから来ているのか。他の友達は? 小学生の時の友達は? 中学の時は?
私は通話を切ったあと携帯をベッドに放り投げて、その上に覆いかぶさった。なんだよ。何かしっくりこない。皆なんで航くんのこと無視するの? 言わば、事故現場で子供を救ったスーパーヒーローじゃん。何でそんなに皆冷たいの?
でも、そんな私の子供じみた考えはすごく甘かったんだって、あとから痛い程思い知らされることになる。
翌日の金曜、思い切ってれいちゃんと駅前のファーストフードに行こうと誘った。今週はあんまり部活に参加してないけど、まあいい。一年生のお世話は部長の多胡先輩がなんとかしてくれるだろう。
そして私とれいちゃんは放課後、向かい合って新発売の薔薇味シェイクを一緒にズルズルさせていた。
ここで、私はとうとうれいちゃんに航くんのことを調べたと告げた。
「…で、あんたは何をしたいわけ? その航くんとやらに」
れいちゃんは冷ややかな目線を私に投げかける。それでもれいちゃんは、ちゃんと私の相談に付き合ってくれるんだって分かっているから私も負けじと言い返す。
「だって、皆冷たすぎるもん。ヒーローだよ? 大やけどを負いながら、子供の命を勇敢に助けた人だよ? どうして皆シレッとしてんの? タブーとか、私にはわからない」
「それはあんたがお子ちゃますぎるからじゃないの?」
ずばっと痛いところをつく。
「それか、その航くんって子自身が拒んでるからじゃない、単純に。自分がヒーロー呼ばわりされるの嫌なんでしょ?」
薔薇の冷たさが私の後頭部をきゅっと締め付けた。
「痛たた…頭痛が痛い」
「バカあい、よく聞きな。こういうのはね、あんたが思ってるほど単純じゃないんだよ。ほっとくのが一番」
「今単純って言ったじゃん…」
「理由は単純だけど、その理由に至るまでは単純じゃないってことだよ。あいはバカだなーほんと」
後頭部をさすりながら、ここで私はひとつ行動してみると決めた。来週、学校で航くんに話しかけてみる。
月曜日、すでに連休に突入する週だからか、クラスはおろか学校全体が浮き足立っていた。皆地面から足がプカプカ浮いて、薄いテスト用紙ならさくっと滑り込めそうだ。
月曜は数学という頭の痛い科目が続くため、午後には私の頭はフラフラだった。宿題はやって来たけど、週末ずっと航くんのことを考えていて勉強どころじゃなかったし。
最後の授業が終わるのが丁度四時。教室を出たあと、急いで玄関に走る。金曜にはもう航くんのクラスと靴箱の場所をチェックしていた。
申し訳ない、と心で拝んでから鉄の扉をこっそり開ける。…まだ学校内にいる。部活やってるのかな? もしかして水泳部?
「おい、何やってんだお前」
ドキッとして振り向いた瞬間、体温が急上昇したのがわかった。航くん本人だった。
思った以上に近くで見た航くんは背が高くなって、改めて随分雰囲気が変わったように思った。前回保健室で会った時は、一瞬だったし並んでいたわけじゃないからよくわからなかったけど。
それでも、タートルネックと手袋は前と同じままだった。この暑いのに、ブレザーもちゃんと着てる。ボタンはかけてないけど。
「あの、その…えと」
航くんは動揺している私の横をすり抜けて、さっさと上履きから革靴に履き替えた。航くんの肩にかけたナイロンバッグが私の腕に無造作に当たる。
「何か用? 画鋲でも入れるつもりだった?」
「そんなこと…しないよ」
私は答えるのに精一杯で、自分が何を伝えたいのかよくわからなくなってしまった。
おろおろしているうちに、あっという間に航くんは遠ざかっていく。ああ、最初から会話する気なんてないんだ、この人。
「待って航くん。私のこと覚えてる?」
航くんは、ぴたっと足をとめて振り返った。もじもじしている私を凝視しながら。
「私…私、保坂だよ。保坂あい。小学五年生の時一緒のクラスだったでしょ」
航くんの表情が一瞬驚きの表情に変わった。あれ。ちょっと、いやかなり保健室の時と違う。でもすぐにくるりと背中を向けられてしまった。
「…ああ、お前か。この学校にいたんだ」
「うん、今年の一月に転校してこっちに戻って来たんだ、東京から」
「で、なんの用?」
私はあわてて手にしていた革靴に履き替えて、玄関の入り口を出た。そうしないと、どんどん先を歩く航くんとはぐれてしまう。歩幅も大きくてなかなか追いつけない。
「待って、航くん。用なんてないけど…久しぶりだし、途中まで一緒に帰りたいなって思って。私、今隣の××町に住んでるんだ」
「へえ」
それ以上何も言わないし、振り向いてもくれない。私は航くんの三歩くらい後を時に駆け足でついて行く。
無言。無視。存在を消されている。とにかく黙ってついて行く。
「…何か聞いたの。俺のこと」
最初の交差点に差し掛かって、航くんは半分顔をこちらに向けながらひと言だけ言った。
「うん、少し。保健室でこの前見かけてから気になって。知らなかったんだ、事故のことも、同じ高校に航くんがいたことも」
青になるまでの短い時間、並んで話せる幸運を噛み締めながら私はそう言った。
「保坂先輩。俺、ウザい人嫌いなんすよ。ついて来ないでもらえますか」
先輩、と来た。しかも敬語。この突き放し感がハンパない。でも私は幸いにして航くんの家を知っている。まだまだ話す時間はある。私が追いつける限り。
「確かに友達にほっとけって言われたけど…わた…」
途中で私を遮るように、言葉を被せてきた。
「その友達とやらは賢いな。とりあえずそいつの言う事聞いとけ」
航くんはそういうと、青になった信号をスタスタと渡って行ってしまった。
なんだ? なんなんだ? これが…新沼くんの話していたことなのだろうか。誰にも近づかせないピリピリした空気。
私は急いで後を追った。
駅方面に行かないのなら、このあたりから地元の商店街に入って行く。そう、航くんの家は、商店街のちょっと先の住宅街の一軒家。たぶん今までに二回ぐらい遊びに行ったことがある。
だんだんと人の行き来が多くなって、紺のブレザーを探さないと、うっかり見失ってしまう。やっと見つけたとほっとした時、航くんが一人の女性とパン屋の前で話しているのに気がついた。
「こんにちは! 航くんのお母さんですよね?」
私はとびきりの笑顔で話かけた。航くんはさっきと同じ位驚いた顔で私を見ている。やった! ざまあみろ!
「私、小学校の時同じクラスだった保坂あいです。お久しぶりですおばさん」
「あらあらあら! 保坂さんトコの!」
ラッキーだった。おばさんは私のことを覚えていてくれた。
「久しぶりねえ! お母さん元気? よく保護者会で一緒になって仲良くしてたのよ」
知ってる。航くんのおばさんと私のお母さんは年も近いから話が合うってお母さんが昔よく話していた。
「はい、母は元気です。両親はもう離婚したんですけど、今母は再婚してお腹の中に赤ちゃんがいます。私の異父兄弟って言うんですかね? 今は私、母の旧姓の千葉を名乗ってて、母方の祖母と隣町で二人暮らしです。航くんと同じ高校に、今年の一月に転校してきました」
やった。とりあえず言いたいことは全部言えた。笑顔のままで、航くんにもダブルアピール。このまま無視され続けていたら、こんな私の近況も言えなかった。おばさんナイスタイミングです。
「…」
私の満足度とは裏腹に、航くんもおばさんも絶句してしまったみたいだ。さすがに、ちょっと唐突すぎたかもしれない。
「あの…あいちゃん、よかったらうちに来ない? 今ちょうどここのパン屋さんでシュークリーム買ったのよ。ね、航も話したいでしょ?」
同意を持ちかけられた航くんは、どうするのかと思っていたら、意外な返し方で私を動揺させた。
「お袋そんなの、あ…千葉さんに悪いよ。迷惑だよきっと。ほら、千葉さんも困ってるし」
と言いながら、私をキッと睨む。なんだ、その手のひらを返した態度! でもその顔が、どこか柔らかい雰囲気を出していることに気づく。おばさんの前ではそうなんだ。
「いえいえ、そんな迷惑だなんて。私シュークリーム大好きなんです! お言葉に甘えてお邪魔させていただきます!」
これ見よがしの語尾に、ちょっとやりすぎたかとも思ったが、おばさんはすごく喜んでくれた。
機嫌の悪い航くんを前にしておばさんと並び、三人で家まで歩いた。美人なおばさんは可愛らしくて、話し好きで航くんのことが大好きな普通のお母さんだった。こういう所は、なんだか昔の航くんに似ている気がした。
「お前さ…何あれ?」
航くんは、私を二階の部屋に通すなりそう言った。久しぶりに入る男子の部屋。ゲーム、マンガ、勉強机の上の何かのテキスト。でも思ったより片付いている。
「何あれって…何が」
「その態度だよ、お袋に媚び売って。何でうちまで来てんの? 信じらんないんだけど」
「媚びなんて売ってないもん。シュークリーム食べたかったんだもん。私も信じられないけど」
沈黙。
「…随分おばさんと話す時の態度と、私への態度が違うんだね」
航くんはブレザーをバサッとベッドの上に投げつけた。まあ、怒ってるよね普通。
「ヘタなこと言うんじゃねーぞ」
すぐにおばさんは、いそいそと飲み物とシュークリームをトレーに乗せて持って来てくれた。
「あいちゃん、紅茶でよかったかしら? ゆっくりしていってね」
「ありがとうございます! 紅茶大好きです。どうぞおかまいなく」
にっこり笑顔でおばさんを送ったあと、階段を下りる足音を確認してから航くんはベッドに座った。
「とにかく迷惑だ。これ食ってとっとと帰れ」
「嫌だ、話したいんだもん」
「俺には話なんてない」
「私にはあるの。私、何も知らなかったんだ」
私は正座をして紅茶に角砂糖を入れながら、もう一度聞いてみた。
「ね、何でおばさんと話す時はあんないい子調なの。どっちが本当の航くんなの」
「ヘタなこと言うなっていってんだろ。親には少し、悪い事をしたと思ってるだけだ」
「子供を…助けた事が?」
「お前がどこまで知ってんのか知らねえけど。保健室で見たんだろ、俺の体。何度も手術して、留年して…」
「で、現在学校では腫れ物扱いの問題児、家ではいい子ちゃんなんだ」
挑発しているのは分かってる。でもこうでもなくちゃ、今の航くんは私と話もしてくれなさそうだったから。
「何の好奇心だか知らねえが、いいかげんにしろよ」
航くんは、私のシャツを手袋をしている右手でぐいと掴んで持ち上げた。すごい力。思わず目を逸らしてしまった。
「ガキのくせに、なに背負ってんのって話」
航くんは私を突き飛ばして、壁に押し付けた。
「痛!」
私は派手に背中を打って、思わず声を出してしまった。
「ガキはお前だろ。さっさと帰れ千葉」
わざと荒々しく私のシャツを離して、横を向いた。
「それから…」
航くんは最後に吐き捨てるように言った。
「俺を下の名前で呼ぶな」
帰り道、新沼くんが中学の時航くんはケンカ三昧と言っていたことを思い出す。今ならなるほど良く分かる。内心は昔遊んだ仲だし、さすがに女の子には手を出さないかもって思っていたけど、見当違いだった。思いっきり脅された。それが、ゆうの言っていたタブーにつながるのか。
でも怖くはなかった。背中、ちょっとだけ痛かったけど。大きな音に驚いたおばさんには、つまずいたと誤摩化しておいた。
少女漫画だったら、イチャコラしてたところを親に見られて誤摩化すのが王道なのに、突き飛ばされたとは…なんてリアルで色気のない。
でも、それでも怖くなかったのは、昔の航くんを知っているから? それとも、再会の間に私がスレすぎてしまった? それより何か釈然としなかった。男の子の反抗期ってあんな感じなのかな? 家ではおりこうさんで、外では暴れ馬? 逆内弁慶? あのキャップは何なんだ。
…最後、航くんは私の事を“千葉”と呼んだ。保坂でもなく、昔呼んでくれたようにあいちゃん、でもなく。それって、さっき説明した今の私の状況を、しっかり理解してくれたってことになるのかな。例え無意識だったとしても。
「航くん、全然反抗しきれてないじゃん…」
私もだけどさ。一口だけかじったシュークリームのカスタードが、今更になって口元にじんわり広がって来た。
夕焼けの商店街をブラブラ駅までのんびり歩く。残したシュークリームは甘党のはずの航くんがこっそり食べるのだろうか、はたまた腹いせに捨ててしまうのだろうか、などとつまらないことを考えながら。
そして、九月の連休は遊びほうけた。
おばあちゃん家でれいちゃんとまったりしたり、れいちゃんちで二人で高いお肉を買って焼肉ごっこをしたり。ゆうとも一緒に池袋で買い物デートもした。改装後一度も行ったことのなかった水族館に行って、乙女ロードと呼ばれているところに行ってみた。
「マンガとかよくわかんないけど、かわいい雑貨とか服とか安いよね、ココ」
夏休みのときも思ったけど、ゆうはしばらく見ないうちにすっかり女の色気っていうものを身につけていた。洋服も可愛いし、かなりメイクも本格的にしているっぽい。ファーストフードで向かい合わせに座った時、ジロジロ見てしまった。さすが彼氏持ちのまつげ、長い、黒い、エロい。
「あいも早いとこ目覚めないと、置いてかれるよ。あいはタダでさえガハハ系なんだから、駄菓子ばっかり買うんじゃなくて、少しはメイク道具でも揃えたら?」
何に目覚めよと? ゆうの助言はよくわからなかったけど、私はそういう意味では全然焦ってなかった。
私が…私が焦っているのは、自分自身の身の振り方だ。高校卒業したら、私はどうするべきなのか、検討もつかなかった。就職? 大学進学? お金もないのに? ただでさえ今、おばあちゃんに面倒かけているのに?
連休が開け、学校も中間テストに向けてピリピリし始めた頃、またれい姫が鼻血を出した。しかも同じ現国で。どうしたれいちゃん、何を興奮しているの。
「何だか知らないけどいつもイライラするんだ、論文の解釈とか。先生と朝まで生討論とかしたい」
「お願いだから、その時は最悪鼻にティッシュ詰めてやって。私徹夜とか無理だから」
今日の保健室は、福士先生しかいなかった。
れいちゃんの鼻血をきれいにアルコールで拭きながら、ふいに先生は私に話しかけて来た。
「あなた千葉さんよね、さっき入ってくるとき名乗った保健委員」
「はい」
私は何の先入観もなしに返事をした。
「もしかして最近、一年生の村上くんの周りをうろついてない?」
「うろついてる?」
なんだろう、なんとなくそのトゲのある言い方。
「村上くんは時々この保健室に来るの。知ってるでしょ事故のこと。彼はね、時々“幻の熱”を感じてここへ来るの」
「幻の熱…」
「そう。幻肢痛というのは、腕や足などを失ってしまった人が、その箇所がないにも関わらずそこに痛みを感じる、というものなんだけど、村上くんの場合はそれが皮膚の温度センサーに起きているという感じかな。原因になる刺激がなくても、脳は熱さを感じ続けてしまうことがあるの。本当はもう事故から三年もたってるから、理論的にはもう痛みもないし、熱を感じる感覚も正常に戻ってるはず。でも体が熱を記憶していて、何か精神的な負荷がかかると、皮膚がまるで熱を持っているかのように感じてとても辛いらしいわ。時々湿布を貼ってあげるけど、そんなの付け焼き刃だしね。でも私が言いたいのはね」
福士先生は、れいちゃんの手当に使ったピンセットやらを片付けながら、私を見た。
「あの子をほおっておいてあげてほしい、ということ。あの子はとても優しい子なの。だから気を使ってくれる人に応えようとして、更に負担が増えていくのよ。もしあなたが本当に村上くんのことを思うんだったら、ほおっておきなさい。それもひとつの優しさの形よ」
福士先生は、きっぱりと私に言った。
あまりの明快さに、私は何も言えなかった。
「でも一体誰から聞いたんですかあ? 千葉さんが村上くんのまわりを“うろついてる”って」
れいちゃんが、横から口を出して来た。
「本人よ。村上くんがそう言ったの、私に直接」
「なあんだ、じゃあ結構脈ありなんじゃん」
れいちゃんはぼそっとひと言つぶやいて、立ち上がった。
「お世話かけました」
入り口でお辞儀をして、慌てて先に出て行くれいちゃんを追いかけて行く。
「れいちゃん、れいちゃん、今のセリフどういうこと? 私全然わかんないんだけど…」
先にずんずん歩いていたれいちゃんは、突然振り向いて私を指差した。
「あんた、その村上くんって子に気に入られたってことだよ。わかんないの? あんた、好きの反対は何だか知ってる?」
「うーんと、嫌い…?」
「何天然ぶってんの。好きの反対は無関心だよ、無関心。保健室の先生にあんたを名指しで文句言うなんて、私にしてみれば“俺あいつのこと、超気になるんだけど。テヘペロ”って公言してんのと一緒じゃない。うまくやんな」
「な、な、な、うまくやれって…なんのことよ」
れいちゃんは、まだちょっとだけ残っている鼻血を頬に付けたままニヤリと笑った。
「あんた、本当にバカだね。だから好きなんだけど。先生の言う事なんて、所詮押しつけだろ。自分で引いた方がいいって思うなら勝手にしたらって思うけど、押し付けられた正義なんかに、なんの価値もないだろ」
私は思わずれいちゃんを抱きしめた。
「れいちゃん、大好きっ!」
「コラ! 大きな声出すな二年! 授業中だぞ!」
教室のドアをがらっと開けた先生が怒鳴り声を上げた。やばい、ここ一年のクラスの廊下だった!
二人して笑いながら走って逃げる。
私はれいちゃんの言葉であっという間に救われた。
あのままだったら、きっと私も他の友達のように、航くんのためを思って引いてしまっただろう。そっとしておこうとか言って。本当に航くんのことを思うんだったら、とかいう名目の下に。
でも私も感じていた。正しい事なんて、そんなの見方の違いだけだろうって。同じ物事だって、角度や立場が違えば印象も全然変わる。
どっちにしろ嫌われるなら。自分がやりたいようになって、それで堂々と嫌われたい。
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