第三章 #8

 二月三日、朝七時半起床。


「おはよう」


「あっ、おはよう。朝食用意しておいたわ」


 アルデは今日一日忙しくなるのがわかっていて、ボリュームのある朝ごはんを用意してくれていた。


 それを平らげて少しお腹を落ち着かせてから、出勤の支度をしていく。


 九時半、家を出る時間になった。


「いってきます」


「いってらっしゃい」


 少し青い顔の彼女に声をかける。


「あまり無理しないでよ」


「大丈夫。気にかけてくれてありがとう。ダットも今日一日忙しいのだから無理しないでね」


「そっちの方が無理してるように見えるけど」


「無理はしてないわ。もし感知したら知らせるわね」


「うん。今日は休んでなよ。明日は休みだから家事とか手伝うからさ」


「まあ。じゃあお言葉に甘えようかしら」


 蕩けるような瞳でそんなこと言われると、こっちが恥ずかしくなってくる。


「と、とにかく今日はゆっくりしてて。もしネガティブバーストが現れたら教えて。じゃあいってきます」


「はい。いってらっしゃい」


 手を振る彼女に見送られながら家を後にした。


 九時四五分、出勤スキャンをして更衣室で着替える。店に入った途端空気がピリピリしているような気がする。


 着替え終え一階に降りると、そこは戦場になっていた。


 完成した商品が売り場に出るのを今か今かと待つように大量に並び、恵方巻作業に従事している人々が慌ただしく行き交っている。


 どこからともなく聞こえてくるのは怒号。開店して一時間だが既に問題が起きているらしい。


 こういう時ってあんまり作業場に行きたくないんだよなー。


 揉め事に巻き込まれませんようにと祈りつつ、作業場に入る。


 中はいつにないほど人でごった返し、その熱気のせいで二月のはずなのに暑さを感じるほどだった。


 見知った寿司のパートの人もいれば、使い捨てのエプロンや帽子を被った他部門の人達の姿もある。


 人が多すぎて誰が誰だか把握するだけで一苦労だ。


「おはようございます」


 品出しをしている上司を見つけて声をかけると、今日の僕が担当する場所を教えてもらった。


 寿司作業場から歩いて二分くらい離れたところにあって、いつもなら他の部門が使用する小さな部屋だ。


 扉を開けて右手側にはテーブル二つに挟まれた流しがあり、左手側には手前に値付け機があってその奥にテーブルがある。


 狭い部屋の中には五人いて、一人が値付けをし、残りの人達で製造をしていた。


 この部屋で作るのは予約の商品だけだが、それでも三百近くある。


 会社的にはこの数では足りないらしいが、一人で八十本近く巻く身にもなってほしい。


 僕はその部屋でする事は製造の補助だ。


 ネタがなくなりそうになったら解凍したり、シャリが少なくなればご飯が十キロ入った入れ物を持ってきたりする。


 予約リストを確認すると、順調に進んでいるらしく僕が来たときにはお昼までの分は作り終わっていた。


 これなら問題なく終わるかな。


 そんな甘い考えは金棒で簡単に粉砕してしまう。


 節分の日に順調に終わったことなど今の今まで一度もないのに油断してしまうのだ。


 製造に余裕ができたところを見計らい、朝から来た人達には休憩に行ってもらう。


 残った僕はリストを見て作り忘れているものがないか確認したり、満杯になったゴミ袋を新しいのと変えて作業がスムーズに進むよう準備していく。


 休憩の人達が戻ってきた。あと半分で終わると意気込んで作り始めるも……。


 午後二時。一人の従業員が慌てた様子でやってきた。


 今来ているお客様の分の恵方巻が見当たらないのだという。


 幸い後の時間の分が出来上がっていたので、そちらを渡して事なきを得た。


 しかしここからドミノ倒しのようにトラブルが止まらなくなっていく。


 ここで作った商品はテープ止めをしておいて、お渡しカウンターにいる人が持っていく。


 今度のトラブルはその持っていった商品が見当たらないというものだった。


 通常の二倍はある太巻の中に細い巻物を詰めるという難易度の高い物で、担当していた人の堪忍袋の尾が切れそうになっていたのは誰の目にも明らかだった。


 これ以降トラブルが起きないように僕はリストを見て作った商品をチェックしていく係に専念する。


 こうする事で作る人は作る事に、僕は確認作業に専念できるため作り忘れがなくなるはずだった。


 現にそうする事でリストの数量分無事に作り終わる事ができた。


 終わったと安堵するのも束の間、またも数が足りないらしい。


 でもこちらのリストでは全部作り終わっている。なのに数が足りないと言われて軽いパニックだ。


 お渡しカウンターの担当者は他部門の応援の人で渡した数を把握しておらず、リストも持っていなかった。


 取りに来た人と製造するパートの人が一触即発になりそうだったので、僕は仲裁に入って何とかその場を収める。


 結局作ったはずの巻物は行方不明のままだが、余っていた材料で事なきを得た。


 時刻は十七時。数々のトラブルはあったが、なんとか予約製造を終わらせる事ができた。


 借りていた部屋の掃除を終わらせてひと段落ついたので休憩を取る事にする。


 途中寿司作業場を通りかかると来た時以上に忙しそうだった。


 作業場の方を見ていたせいで、前から来た人とぶつかりそうになってしまう。


「すいません」


「ごめんなさい!」


 ぶつかりそうになったのは予約の商品を沢山運ぶセオイさんだった。


 身体ごと謝ったので彼女の持つカゴから商品がずれる。


「ああっ」


 セオイさんは悲鳴を上げて固まってしまったが、それに気づいた僕は素早く左手で受け止めた。


 商品は崩れておらず問題なさそうだ。僕はセオイさんの持っているカゴに戻す。


「商品大丈夫そうですよ」


「良かったー」


 心底安堵したのかセオイさんは長く息を吐いた。


 相変わらず疲労で顔色は悪く、また痩せたように見えるが、風邪は治ったようで喉の調子は戻っていた。


「ドクドクさんの方は終わったんですか」


「はい。今から休憩行こうと思ってます。セオイさんの方は?」


「私は休憩は行ったんだけど、まだまだ忙しい――」


「セオイさん! お客さん待ってるから早く持っていって」


 雷に打たれたようにセオイさんの背筋が伸びた。


「すみません!」


 上司に怒られたセオイさんは会話の途中で行ってしまった。


 引き止めて悪い事しちゃったかな。


 落ち着いたら謝ろうと考えて、僕も休憩を取ることにした。


 定食を終えた僕は寝たフリをして、しまっている白鳩のイヤリングに触れる。


『アルデ聞こえる?』


 少ししてからテレパシーが返ってきた。


『聞こえているわ。何かあったの?』


『うん? うーん。今何してるかなって』


 ここで正直に『心配だ』と言えればいいのに。頭の中で会話していても本心は中々言い出せない。


『休んでいるところよ。お陰で体調も戻ってきたみたい』


 今までネガティブバーストによる被害を人知れず修復してきたアルデ。


 その力を使う度に自分の体力を酷く消耗していた。


 だから今はあまり調子が良くないはずなのに、変わらず家の事をしようとする。


 とてもありがたいが、無理して働く姿は見たくはない。


『今日一日は寝てなよ』


『ありがとう。でも寝てばかりいられないわ。ダットの夕食作らなきゃ。今日は何がいいかしら』


『いいよ。コンビニで買うから』


『何言ってるの。今日は忙しい日なのは分かってるのよ。だったら私の作った食事で疲れを癒してもらいたいって思うのは悪いこと?

 それに疲れた顔して帰ってくるの見るのは辛いのだから』


 胸の奥が暖かくなると同時に羨ましいと思う。彼女は素直に僕の事を心配していると言えるのだから。


『分かった。じゃあ……』


 食べたいものをリクエストしておく。


『じゃあ作っておきます。それとネガティブバーストが現れたらすぐ対応できるようにしておいてね』


『近くで反応あるの?』


『ううん。でもあなたの周辺で微かな力を感じるの。恐らく出てくる機会を狙っているんだわ』


『今出てきてもおかしくないってことか。分かった備えておく。じゃあそろそろ休憩終わるから』


『はい。頑張ってね』


 テレパシーを終わらせた僕は、アルデの忠告を守りロッカールームに寄ってボンボニエールを取り出し制服のポケットに入れた。


 今日はめちゃくちゃ疲れるので、今日だけは出てきませんように。


 そんな願いなんて意味ない事は分かっていても願いたくなってしまうから不思議なものだ。


 午後六時、いつもなら製造はとっくに終わっている筈の作業場に戻ると、まだみんな巻物を作っていた。


 なんでも売れているらしく、予備の材料を全部使い切る勢いのようだ。


 残ったパートの人達は後一時間足らずしかいないが、ずっと商品を作ることになる。


 困ったな。今日は残りの掃除が山とありそうだ。


 作業場にはセオイさんの姿がある。予約の方が終わったのかこちらに背を向けて商品を作っているようだ。


「セオイさんの方は順調ですか」


 彼女は何も答えず首を縦に振るだけ。どうやらかなり忙しいらしく答える余裕もないようだ。


 上司は品出しに追われ、パートさん達とセオイさんは恵方巻を巻き続ける。


 僕は製造を任せ、できるところの片付けを始めた。


 片付けている間も様々な人の声が耳に入ってくる。


「セオイさん。ちょっとお客さん呼んでるから出てくれる」


「はい」


 品出しする上司の代わりにセオイさんが接客する。どうやら品切れしているのでお客さんが怒っているらしい。


 その怒りの豪雨を、彼女は逃げる事なく全身に浴びていた。


「あっセオイさん。それ中巻のりじゃなくて細巻のりよ!」


「すいません」


「セオイさん。それ入れ方逆よ。断面が見えるようにしないと!」


「……すいません」


 中々帰れない事で、不満が溜まっているパートさん達の口撃を受け止める彼女の背中が、重荷を背負わされているように曲がって見えた。


 このままだと喧嘩になるかもしれない。


 洗い物を中断し、セオイさんの方を手伝う事にする。


「手伝います。何すれば――」


 ダン! と大きな音がして僕の言葉が途切れた。普段の大人しいセオイさんからは考えられないような行動をしたからだ。


 包丁を叩きつけたのだ。その勢いはまな板ごとテーブルを真っ二つにするようで、作業場内に響き渡る。


 それも一度のみならず。何度も何度も巻物が落ち刃がかけてもお構いなしに包丁を叩きつけていた。


 周りの人達も絶句し作業の手を止めて様子のおかしい彼女の方を見ていた。


「セ、セオイさん?」


 話しかけても彼女は右手を上下に動かすだけだ。


 セオイさん。いったいどうしちゃったんだ?


 困惑していると、手が滑ったのか彼女が包丁を足元に落としてしまった。


 拾おうと手を伸ばすも、先に彼女が拾い上げる。


 叩きつけるのはやめたが、包丁を持ったまま動かない。


 唇がわずかに動いている。何か喋っているのか?


「……るさい煩いうるさいウルサイウルサイ」


 聞き取れた言葉が意味しているのはひとつだけだった。


 同じ言葉を繰り返す彼女に上司が声を掛ける。


「セオイさん。早く落としたの拾って新しいの作って」


 それが引き金になった。


 彼女は身体の向きを変えて、持っている包丁の切っ先を上司に向ける。


 自らの死を予感したのか、上司の動きが止まる。


 僕は一歩近づくセオイさんの前に飛び出す。


「セオイさん。落ち着いて」


 立ち止まった彼女は一度作業場を見回すと、唾を飲み込むように喉を動かし、三日月の形に口を開く。


「オ・イ・シ・ソ・ウ」


 まるで言葉を覚えたての子供のように辿々しい口調。


 直後に口腔から出てきたのは見覚えのある黒い右手だった。


 その正体を記憶から引っ張り出す前に、喉が潰れるほどの力で首を掴まれ持ち上げられると、視界が凄い勢いで流れ背中に激痛を感じた。


 壁に叩きつけられたのだと見当をつけた直後に僕の頭の中は真っ白になる。




 白一色だった視界が色を取り戻していく。


 自分の身体は床に足を伸ばして座り込んでいた。右のこめかみの辺りがぬるま湯をかけられたように濡れている。


 何が起きた……そうだセオイさんの口からあの手が……。


 絹を裂くような悲鳴で僕の意識が完全に覚醒する。


 見るとパートさんの一人が天井近くまで持ち上げられている。


 持ち上げているのは黒い腕で、その出所はセオイさんの口からだった。


 逃げようと暴れるパートさんが力を失ったようにぐったりする。


 あの腕の大好物であるストレスを吸われているんだ。


 黒い腕は満足したのか、まるでミイラのように痩せ細ったパートさんを落とした。


 受け身も取らずに床に倒れ込み、死んでしまったのかピクリとも動かない。


 周りには似たようにストレスを吸われた上司や他のパートさんが倒れている。


 作業場で立っているのは目から黒い涙を流すセオイさんただ一人。


 口から伸びていた腕が体内に戻っていくと、彼女の全身からヘドロのようなものが垂れていく。


 それは無数の腕が形作る球体となって彼女を包み込んだ。


 二度も戦った化け物はこんな近くに潜伏していたのだ。

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