第三章 #6
夢を見た。
誰もいなくなってずっと泣いていた僕は今のままでは何も解決しないことに気がついた。
だから、呼んだ。泣きながら大声で最愛の人を呼び続けた。
隣に人の気配を感じて見上げると、憂いを秘めて微笑む彼女の姿があった。
彼女がごめんねと言ったので僕の方こそごめんねと返した。
それからお互い何も言わずに手を繋ぎ歩いていく。
二人ならどんな困難にも立ち向かえる。
アルデと色々な話をした休みの翌日。
お互いのことが知れた昨日とは違い今日は仕事だ。しかも夜に連絡が来て急遽早番になってしまった。
仕事がある日はいつもギリギリまで寝ていて、特に早番の日なんか起きたくもないと思っていたけれど、今日は余裕を持って起きる事ができた。
「おはようダット」
僕が起きた事に気づいたアルデが、台所から挨拶してきた。
「……おはよう」
朝の挨拶なんてすごい久しぶりすぎる。知らない外国の言葉を話しているみたいで違和感を感じてしまう。
以前なら早く起きても眠気のせいにして何もしないで過ごしてきたが、彼女の作った朝ご飯から漂う食欲をくすぐる匂いのおかげで目覚めは快適といっていい。
今日の朝ごはんは鮭の塩焼きと味噌汁で、脂の乗った鮭の身とカリカリの皮が白米と相性抜群でお代わりをしてしまうほどだった。
食べるのに夢中になりすぎて、身嗜みを整え終えるとちょうど出る時間になった。
「いってらっしゃい」
「うん」
まだ遅刻はしないので、出かける前に気になる事を質問する。
「ネガティブバーストはいつ出てくるか分からないの?」
昨日みたいに暴れる前に、居場所が分かれば先手を打てる。だが簡単にはいかないらしい。
身体の前で手を組んで僕を見送る彼女の眉が少し下がっていた。
「活動を始めないと感知する事ができないの。でもこの街の何処かにいるのは確かよ」
彼女にしか分からないのなら、僕は連絡を待つだけだ。
「分かった。じゃあ感知できたら教えて」
「もちろん。すぐに知らせるわね」
「いってきます……ふう」
「なにか気になることでもあるのかしら?」
どうやら僕のため息に仕事に対する不安が混じっていたらしい。
「いや、ないよ」
「辛い事があるのなら溜め込まないで話して」
「大した事じゃないんだけど」
誤魔化してみる。
「それでもいいから話してみて」
左腕を掴まれてしまった。言わないと離してくれそうにない。
「仕事、つまり遅番はほとんど一人でやってるんだ」
最初は躊躇ったのに、口に出した途端すらすらと言葉が出てきた。
「他の人は手伝ってくれないの」
自分が以前怒ってしまった事を話す。
「だから会話とか全然なくて、それでも残業とかにならずに帰れるからいいんだけど」
でも今日は早番。いつもの遅番より長い時間パートの人達といる事になる。
「でも、今の状態を辛いと感じているのね」
すっかりお見通しのようだ。
「うん。まあ辛い。でもどうしたらいいか分からなくて……」
「それを改善できる方法ならあるわ」
「あるの! だったら、教えてほしい」
答えを待ち望む僕の瞳は期待に輝いているだろう。
「難しいことではないわ。話しかけてみたらいいのよ」
瞳の輝きが一瞬で曇ってしまった。
「えっ、僕から話しかける」
今から空を飛べと言っているようなものではないか。
「無理だよ。僕から話しかけるなんて」
「じゃあ、話しかけてもらうまで、ずうっと待っているの? もしお互いそう考えていたら誰がきっかけを作るのかしら」
きっかけ。確かにこのままだと何も進まない。それなら僕から話しかけた方がいいのかもしれない。
理解はできるが……。
「もし失敗したら。恥ずかしい思いするだけかもしれない」
恥ずかしいどころか言ったことを後悔して泣きたくなるかも。
「恥ずかしい思いをすればいいじゃない」
これまた意外な答えが返ってくる。
「失敗したらその時はその時。顔も耳も赤くして、子供みたいに泣いちゃえばいいのよ。その時は私が受け止めてあげます。
それに話しかける前から失敗失敗って、どうして成功した時の事は考えないのかしら」
言われてみると失敗した時のダメージを考えるばかりで成功のビジョンを全く思い浮かべていなかった。
つまり僕は受け入れてもらえないのが怖かったのだ。
「断られる可能性はあるわよ。だってみんな人間で機械じゃないもの。プログラミング通りに動いているわけじゃないのだから。どう答えるかはその人次第。
でも協力して欲しいと思ったら声を掛けないとね。テレパシーが使えるわけじゃないんだから」
アルデの言葉を聞いていると、背中を押されるように自分から話しかけてみようとそんな気持ちになる。
こんな気持ち初めてだ。
「大切なのはまだ見ぬ成功や失敗を考えることでなく、一歩踏み出す勇気よ」
「勇気」
「ええ。ほら時間ギリギリよ。美味しい夕飯用意しておくから。いってらっしゃい」
スマホを見ると、言われた通り危うい時間になっている。よく時計を見てないのに分かるものだ。
感心している場合じゃないか。
「いってきます」
何かあったらすぐ連絡してねと言いながら手を振るアルデに見送られて家を出た。
小走りで会社に向かったが、ありがたいことに車も通らず信号は全て青だった。
遅刻することなく仕事を始める事が出来たが、巻物担当の僕はいつも通りに一人で仕事を進めている。
今いるのはパート数人とセオイさんだ。
「ドクドクさん。鉄火巻きが少なくなってるんで補充お願いします」
「分かりました」
セオイさんの顔も見ずに返事する。
午後になっても中々話しかける機会はない。そして作業から手が離せそうになかった。
平日なのにお客さんが途切れない。
どうやら近くのスーパーが閉店した影響で、今までそちらで買い物していた人がこちらにやってきているらしい。
お店的には売り上げが上がるから有難いだろうが、実際作っている僕たちからすればかなり大変な事態である。
なんせお客さんが増えても減った従業員を補充しようとはしてくれない。
誰かが言った言葉が耳に残っている。『一番手軽に節約できるのが人件費』だそうだ。
でもパートは雇わないのに、新入社員は新しく入ってくるらしい。少しは製造も手伝ってくれればいいのだが。
「お客様が鉄火巻き一パック欲しいそうです」
そんなセオイさんの声で我に帰る。しまった心の中で愚痴ってたら手が止まっていた。
「すいません。今、お持ちします!」
巻き終わっていた分をすぐに切ってパックし、セオイさんに手渡す。
受け取った彼女の手首に白い物が巻かれているのが目についたが、今は忙しいので聞くことができなかった。
セオイさんの制服の袖口から覗く両手首に湿布が貼られ、その上からネットで保護されていたのだ。
怪我したのかな。でもあんな状態で出勤しなきゃいけないなんて自分の仕事が山積みなのかな。
僕の担当している巻物はもちろん、握りやちらし寿司も飛ぶように売れてしまい、正午を過ぎてもお昼休みが取れない。
パートの人達は交代制で行ったが、僕はいつも通り一人なので、途中で抜け出そうにもお客さんの波の切れ間がなかった。
とりあえず今日の予定を作り終えてから休憩行こう。
前述した通り、いつもは遅番の僕は早番で来ている。夜の片付けの仕上げはセオイさん一人に任せる事になっていた。
慣れている僕でも疲れを感じる時がある。ましてやセオイさんは自分の仕事もあるし、まだ来て日が浅いので余計に疲れを感じるだろう。
だから休憩が終わったら時間の許す限り片付けをしていこうと考えている。
朝から七時間以上製造して、その間何も食べていないので朝食を食べたとはいえお腹が空いてきた。
慣れない早起きをしたせいで眠気まで襲ってくる。
重くなった瞼と格闘しながら、今日の製造を終わらせた時には午後四時前になっていた。
平日で特別なイベントもないのに、約八時間作業していたことになる。
すでに契約が午前中までのパートの人は帰ってしまい、残っているのは僕を含めてパートの人が二人とセオイさんの四人しかいない。
僕はセオイさんに売り場を任せ休憩を取る。
午後の日差しで温まった椅子に座ると、お尻や太腿の裏から根が生えたような気がしてくる。
まるで光合成してるみたいだ。植物と違ってお腹は膨れないけど。
定食を早めに食べ終えると、音楽プレーヤーで外の音を遮断して少し休むことにする。
幸いお昼時を過ぎて食堂は閑散としているので、目を瞑っても文句を言われることはない。
休憩を終えて戻ると、残っていたパートさん二人も握り寿司の製造が終わったらしく作業台の片付けを終えたところだった。
今までならそこだけ終わらせて帰っていく。僕も止めない。
だけど今日はそれではいけない。
僕はパートさん達の方に近づいていく。
しかし早足かつ足音を消して近づいてしまったせいか、二人とも僕の接近に気づいた時は忍者かお化けを見るような顔をしていた。
これはまずい。今から話しかけるのに印象最悪すぎじゃないか。
ここは売り場に行くふりをして通り過ぎようとしたが、今朝のアルデの言葉が思い出される。
『大切なのは……一歩踏み出す勇気よ』
勇気。閉じた口の中でその言葉を反芻しながら、目を丸くしてこちらを見つめる二人の女性に話しかけた。
「今日は遅番が一人、セオイさんしかおらず、僕も早番なので最後まではいられません。
このままだと片付けが終わらないと思います。
なのでお二人にはもう少しお手伝いをお願いしたいのですが!」
くるみ割り人形みたいに口を動かしながらも、何とか最後まで言い切る事ができた。
後は二人がどう返事してくるかだ。別に断られたらそれはそれで『分かりました。お疲れ様でした』と言って終わりだ。
二人のパートさんは少しの間お互いの顔を見合わせてからこう返してきた。
「分かった。私達は掃除すればいいの?」
「は、はい!」
お、おお! 気持ちが通じた。良かった手伝ってくれる。
嬉しさでいっぱいな僕は、二人に終わらせてもらいたい仕事をお願いする。
両名とも僕が怒った時にその場に居合わせたのだが、それを気にする風もなく片付けを手伝ってくれた。
アルデの言う通りもっと早く話しかけてみればよかったな。
「お疲れ様でした。片付け手伝ってくれてありがとうございました」
頼んだ片付けを終わらせたパートさん達が帰るのを見届けながら、僕も自分の仕事を終わらせる。
手伝ってもらった事で、何とか作業場全体の片付けは終われそうだ。
今は一人で時間の許す限り作業場の掃除を終わらせている。
セオイさんが商品の値下げを終えて売り場から戻ってきた。
「私、向こうの炊飯器とか洗ってきます」
「時間まで、中の掃除終わらせておきますね」
「ありがとうございます」
シャリを出す機械を洗って拭いて組み立て、ゴミが溜まったゴミ袋を新しいのに交換して捨てに行って戻ってくると、残業の限界まで残り十五分になっていた。
もうこんな時間か。後は床の掃除だけだから一人でも大丈夫かな。聞いてこよう。
彼女も後一時間半くらいで帰る。それまでに終われるかどうか確かめに炊飯器が置いてあるところへ向かう。
掃除をしている後ろ姿を見つけ声を掛ける。
「セオイさん。こっちは終わりそうですか?」
「もうちょっとで終わります」
彼女は酢とご飯を混ぜ合わせる容器を持ち上げようとするが、それは炊飯器の窯よりも大きいので、てこずっているようだ。
「持ちますよ」
代わりに容器を持ち上げて流しに持っていきそのまま洗う。
一日の残業時間は決まっていてオーバーすると問題になるが、これを洗うくらいの時間はあった。
「ありがとう。助かりました」
洗い終えて組み立てると、手首をさするセオイさんにお礼を言われた。
「いえ。これくらい何て事ないですよ」
「あの、なにかいいことありました?」
急にそんなことを尋ねられる。
「いえ。特にはないですけど」
「今日はいつもより雰囲気が明るく見えたから」
もしかしてアルデから勇気をもらえたからかもしれない。
セオイさんがずっと手首を撫で続けているのが気になったので質問する。
「あの、手首どうしたんですか?」
「ああ。これ」
聞かれた途端さすっていた手が止まり、彼女は包帯をした手首を見下ろす。
「昨日朝起きたら手首が真っ赤になってたの。病院行ったら骨には異常ないみたいで。取り敢えず湿布もらって貼ってるの」
多分寝てる時にぶつけたんじゃないかなと言いながら痛みを鎮めるように手首をさする。
「ずっと痛いんですか」
「ううん。重いもの持ったりすると痛い時あるけど、日常生活に支障はないの。今は節分も近いから休んでられないよ」
仕事がいっぱい溜まっているようだ。
「何か手伝える事があったら遠慮なく言ってください」
「さっき洗ってくれてありがとう。正直言うとちょっと持ち上げるの辛かったの」
仕事で疲れているせいだろう。セオイさんの白い顔色がほんの少し明るくなったように見えた。
「もう上がっても大丈夫ですよ。今日は朝早かったんでしょ。後は私一人で終わらせるから上がってください」
セオイさんの言った通り、残業時間の限界を迎えていた。このままだと後で注意される。
「すいません上がります。後お願いします。お疲れ様でした」
「お疲れ様です」
僕はセオイさんに後を任せて会社を後にした。
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