第三章 #5

 僕は黙って聞いていた。


 最初、彼女は楽しそうに思い出を語る。生物が誕生した時なんか、本当に赤ちゃんを抱いているように見えた。


 けれど僕達によって傷つけられている事を話し始めた途端、空気が一変する。


 楽しい思い出話を語っていた最初の雰囲気は蒸発したように消え失せ、怒りと悲しみのマグマが押し寄せてくるようだった。


 慈母のように微笑んでいた雰囲気も一変し額から角が伸びた牙の生えた鬼女であった。


 憎しみと怒りと悲しみのどす黒い液体が彼女の全身から流れ出しているように見え、一声発せられる度に世界が震え今にも崩壊しそうな目眩を覚えた。


 僕は咄嗟に彼女の膝の上に置かれている両手を強く握った。


「もういいアルデ。もう分かったから」


 海に沈む夕日のように泣きはらした瞳が僕を捉える。


 正気に戻ったのか、アルデの言葉が一度途切れた。


「また……」


「また?」


「あなたはまた私を救ってくれた」


 考える。


「ごめん。以前救った事は覚えてない」


「あなたは気づいてないだけ。以前話したでしょ。小さい頃に心が通じた事」


 母が死んだ時の話だ。


「その時気づいたの。あなたみたいな子がいる。自分だけの事しか考えていない人だけではないんだって。だから私は自らの身体を止める決意をしたの」


「でも、僕達は地球あなたを蔑ろにしてきた。これからも人間がこの問題に真剣に向き合うかどうかなんて分からない」


 取り組んでいるフリをしている人は大勢いるだろう。


「もしかしたら取り返しのつかないところまで行ってそのまま地球を捨てるという選択肢を取る可能性もある」


 僕だって地球アルデの環境のことなんて何一つ気にしていなかった。


 彼女からすれば僕も同罪のはずだ。


「そうね」


 否定しないアルデの言葉が胸に突き刺さる。


「でも考えてくれている。今私の事を心配してくれているでしょう?」


「それは、そうだけど」


 彼女の内側に溜まっていた膿みの正体を知ったからだともいえる。


「僕は何も知らなかった……違う。僕は見て見ぬふりをしていたんだ。ごめん」


 アルデは首を振る。動く度に細かく散る涙は真珠のようだ。


「いいの。謝らなくていいの。改めてお願いしたい事があるの」


 僕の両手が柔らかで温かな掌に包み込まれる。そこから怒りは感じなかった。


 まだ自分がした酷い行いを謝っていないのに、アルデは僕を完全に信じているように見える。


 その思いに甘えていてはいけないのに。


「このままではみんなが死んでしまう。今は抑え込んでいるけれど、いつまで抑えられるか分からないの。だから力を貸して」


「僕に何をしろと?」


 無駄にゴミを出さないとか、エコバッグを使うことくらいしか頭の中で思い浮かばない。それとも……。


「昨日現れた化け物を殺すヒーローになれとでも?」


 何とか撃退したとはいえ、ハッキリいってヒーローとしては酷い体たらくだった。


「殺すのではないわ。アレに取り憑かれた人を救う手伝いをお願いしたいの」


「救う? そもそも昨日の化け物は一体何なの。今の地球の状況と関係があるの?」


 アルデは小さく頷くと、僕の手を握る掌にほんの少し力を込めてくる。


「ここ数十年で貴方達は強い不安を抱えるようになった。今までもそれはあったわ。でもそれを発散する術を知っていた。けれど今の貴方達はそれを抱え込むようになってしまった」


「それってストレスの事?」


「ええ。将来への不安、人間関係の不安。様々な不安が混じり合い貴方達を蝕んでいる。気付かぬうちに身体から漏れ出ていて、私の目には世界中が黒雲に覆われているように見えているの」


 例えると、霧に包まれたロンドンみたいなのだろうか。


「ある時、大量に放出されているストレスに狙いをつけた存在がいるの」


「昨日の化け物……確かネガティブバーストって言ってたよね」


「それは誰にも気づかれる事なくストレスを大量に抱えた人を見つけては取り憑くの。最初は体内に留まっているけれども、新たな餌を求めて宿主を操るのよ」


 話を聞いて僕の全身が震える。では昨日助けられていなければ、全身の血を吸われたミイラのようになっていたのかもしれない。


「でもストレスを吸われるという事は良い事ではなんじゃないの? 不安が全くなくなるという事なんだろ?」


 取り憑かれた人には気の毒だが、ストレスなんてなくなって欲しいと思う人は多いから、自分から差し出す人が出てくるかもしれない。


 襲われた僕は願い下げだけれども。


「いいえ。ストレスを吸い尽くしたら更に生命力まで奪っていくわ。最終的に死を意味する。そして空腹は満たされる事なく、際限なく貴方達に襲いかかっていくの」


「取り憑かれた人は自分がおかしな行動をしていることに気づかないのか」


「気づけないわ。巧妙に宿主の記憶を改竄してしまうから」


「取り憑かれた事自体にも気づいていない?」


 次のアルデの言葉は、僕の心臓を吃驚させるのに充分な力を持っていた。


「気づかないわ。だって、あなたも取り憑かれていたのよ」


「僕も取り憑かれていた?」


「私が今確認できたのは三体。その三体全てがこの街に降りていた。そして一体が貴方に取り憑いたの」


 以前見ていた悪夢の事を思い出す。


「そういえば、黒い津波が襲ってくる夢を毎晩のように見ていた事がある。取り込まれそうになって光に助けてもらってからは見なくなったけれど」


 光の正体はやはり目の前の彼女だったのか? その言葉を乗せた視線を向けると通じたようで、彼女は頷いた。


「私が貴方に取り憑いたネガティブバーストを消滅させたの。まだ完全に取り憑く前だから可能だったのよ。

 でも貴方に取り憑いていなければ気づかずに大きな被害が出ていたかもしれないわ」


 僕も昨日の腕だけの化け物になってしまっていたのかもしれない。考えると冷や汗が止まらなかったが、アルデに包まれた手から伝わる温もりのおかげで、冷たい汗は止まっていく。


 こう考えると、僕も何度も彼女に救われていた。それなのになんて酷い事をしてしまったのか。


「僕に化け物、ネガティブバーストを止めて欲しいと?」


「ええ。あなたと私の力を合わせれば、取り憑かれた人を安全に切り離す事ができるの。手伝ってくれますか」


「……頼ってくれるのは嬉しい。けれど無理だよ」


 自分の行いを考えればヒーローになる資格などない。


「どうして?」


 凍りつく彼女の表情は見ていられない。


「僕は生まれてからずっと感謝された事もない。それに、不細工で、三十過ぎて正社員でもない」


 自分の駄目なところを口に出す度に涙が溢れるが、これから言うことに比べれば些細な事だ。


「記憶に埋もれて小さな感謝は忘れてしまっているだけ。それと容姿も年齢も職業も関係ないわ」


 違う。僕はフォローしてもらいたいんじゃない。本当に駄目人間なんだ。


「それに、それにだ」


 アルデは僕の手を握ったまま黙って聞いてくれる。


 だがこの言葉を聞いて彼女を傷つけることになるのは辛い。


「僕はずっと君に酷い扱いをしてきた。挙げ句の果てに君をお、襲うような事までしてしまった。 

 それなのに今まで謝罪もしなかった僕を気にかけてくれて昨日も助けてくれたりして、そんな僕に資格僕なんてないんだ。

 だからヒーローになれない。力にはなってあげたい。あげたいけれど僕にその資格はないんだ」


 彼女を拒絶する事はまるで、わが身を引き裂くような痛みを覚えたが、しかしその方が彼女の為なのだ。


 彼女のショックを受けたであろう顔を見れず俯く。


 痛みを我慢して包まれた手を抜こうとするのだが、彼女の手がそれを許してくれなかった。


 離せと強く拒絶するのも憚られて、自分の手に少しだけ力を込めて引くが離してくれない。


 アルデは笑顔のままだが、抗い難い力を持っていた。でも僕を責めるような様子は感じられない。


「何で逃げるの?」


「えっ」


「今のあなたは目の前の辛い事から逃げようとしているでしょう。違うかしら」


 ゆっくりと説明してくる口調は、大きな声で怒られるよりも僕の心に染みてくる。


「私の頼みはとても大変な事よ。でもあなたは大変だから嫌だと言ってない。ずっと自分の犯した過ちの事しか言ってないわ。

 私は失敗の事なんて気にしていないの。あなたを信頼しているからお願いしているのよ」


 無意識のうちに僕はまた逃げ出そうとしていたようだ。


「ダット。私の頼みを聞いてくれますか?」


 名前を呼ばれる事で彼女の言葉が心に作った殻にヒビが入っていく。


「僕は」


「うん」


 音を立てて崩れた心の殻から僕の本音が口から飛び出した。


「僕は役に立ちたい。アルデを助ける事ができるなら、僕は手伝いたい!」


 手伝いたい。その言葉に嘘偽りがない事を証明するために彼女のオレンジサファイアの瞳を真っ直ぐ見返した。


「ありがとう」


 たった一言だけど、僕の体内に春が訪れたように暖かくなり、今まで永久凍土に閉じ込められて言い出せなかった言葉をやっと伝える事が出来た。


「ごめんなさい。今頃謝っても許してはくれないだろうけど、本当にごめんなさい」


 涙と鼻水が止まらない。加害者が泣くなんて卑怯なのに。


「分かってる。ダットがそんな事する人じゃないって分かってたから。もう気にしないで。ね」


 僕の手をポンポンしながら罪を赦してくれる。


 鼻をすすりながら尋ねた。


「何でそんな信用してくれるの?」


「信用じゃないわ。私はダットを信頼しているの。今までもこれからも、ずうっと信頼しているわ」


 信用と信頼の違いはよく分からないけれど、僕も彼女に信頼の証を立てる。


「僕も、アルデを、信頼する」


 何とも気恥ずかしくて片言みたいになってしまったが、彼女の微笑みは馬鹿にしたような感じはなく、上手く伝わったようだ。


 僕の背後で桃色の輝きが溢れ出した事に気づく。


「僕の鞄が光ってる」


 正確にはファスナーの隙間から光が漏れているので鞄の中に入っているものが光を放っているらしい。


 柔らかい光だが、通常では起こり得ない事を目の当たりにして軽く動揺してしまう。


「あの光は何?」


 アルデの方を見ると、彼女は慌てもせずに落ち着いているようだった。


「カバンを持ってきてもらえる?」


 言われた通りに鞄を持ってくる。光は溢れているが近い距離に持ってきても目が痛くなる事は決してない。


 ファスナーを開けてみると、光を放つ正体が分かった。


 取り出したのは掌に収まるコンパクト大の容器ボンボニエールだ。


 その中にあるものが光を放っている。


 中身が何か知っているが、とても発酵するような代物ではなかった。


 こちらを見るアルデに焦りを感じないので、恐ろしい事が起こっているわけではなさそうだ。


「中にはお菓子が入ってたよな」


 蓋を開けるとやはり金平糖。その一つ一つが桃色の光を放っている。


「私とダットがお互いを信頼した証よ」


「お互いを信頼したから、光り出した」


 頷くアルデ。


「昨日は不完全な姿だったけれど、これで真の力を発揮できるようになったわ」


 確かに。昨日は腕だけしか変身しなかった。


「サイズが合ってなかったのはそういう事か」


 腕が締め付けれるようにキツかった疑問が解決した。筈だったのだが……。


「一度変身してみましょう」


 こんな提案をしてきた。


「家で? いいけど」


 僕は言われるままにボンボニエールから金平糖を一つ取った。光は先程より収まったが淡く光を内包している。


 口に含んで噛む。幸せな甘みと共に僕の身体は一瞬で変化した。


 両腕には昨日と同じ琥珀色の籠手。手の甲の部分の窪みにラピスラズリが嵌め込まれている。


「鏡で見てみましょう」


 全身を確認しようとすると声をかけられて彼女の方を見ると違和感が、


 あれ大きくなった?


 背中を押されて玄関の姿見に映る自分を目にすると……。


 誰、この子供。


 鏡に映るのは少し身をかがめたアルデ。その前には琥珀の甲冑を纏った少年がいた。


 僕の姿はどこにもない。


 自分の姿を探すために目を左右に動かすと、鏡の少年も同じように目を動かす。


 左手を挙げると、鏡合わせの少年は右手を挙げた。


「君は僕?」


 鏡の世界の少年が同じタイミングで口を動かした。更に正体から発せられた声もまるで変声期前のような高音。


 つまり今の僕は……。


「これがあなたの変身した姿よ」


 身をかがめたアルデが僕の肩に手を置くと、鏡に映る少年に手が置かれている。


 身長はアルデより低くなったのはさっき言った通り。


 ボサボサだった髪は空気を含んだようにふんわりとした黒髪で、瞳も大きく宝石のように輝いている。


 カサついた肌もハリがあって、赤みのさしたほっぺに丸みを帯びた輪郭。


 少女にも見え、自分の姿なのに可愛らしい。


「すごく似合ってるわ」


 アルデも絶賛の姿だようだ。容姿を褒められるなんて人生初なので全身がむず痒い。


 首から下を守るのは琥珀色の甲冑で、肩から背中にかけて赤いマントが伸びていた。


 頭には海の色の宝石が嵌め込まれた王冠をつけている。


「なんか王様みたいな格好だね」


「ちょっと違うのよ」


 何が違うのだろう。


 アルデは僕の頭に頂かれた王冠を指差す。


「これは王冠クラウンじゃなくてティアラなのよ」


「ふ〜ん」


 クラウンじゃなくてティアラなのか。だから少し細身なんだ……って!


「これ女性用⁉︎」


 頭のティアラを指差すとアルデは微笑んで答える。


「最初考えたとき、ダットのこの姿なら絶対似合うって思ったの。私の思った通りね」


 アルデは自分の狙いが的中した事を表すようにポンと手を叩いた。


「じゃあ、今つけている装備の詳細を話すわね」


 説明を聞きながらも、ティアラを戴く自分の姿を見て、これはこれでありかもと思ってしまうのだった。

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