第三章 #3

「あんた、どうやってここに……」


 コップから溢れ出す水のように僕の頭から沢山質問したい事が溢れたが、それを声に出す前に向こうが先に口を開く。


「質問は後」


 全身から淡い光を放つ彼女は、こちらを見下ろしながら右手を横に伸ばしていた。


 その右の掌からはLEDよりも明るい光が放たれている。


「立てるかしら」


「あ、ああ」


 確かめてみると、掴まれていた足首と絞められていた首の筋肉が広がっていく感覚。


 それに蹴り続けていた足に僅かな痛みがあるが、自分の体重を支える事に支障はなさそうだ。


 ついさっきまで絞められていた首をさすりながら立ち上がると、彼女が中腰である事に気づく。


 服装はいつものシャツと細いパンツに上からエプロン。家にいる時の格好のまま来たみたいだ。


 同時に僕の頭を支えていた柔らかい枕の正体が太ももだと分かって、こんな時なのに耳の辺りが熱くなってしまった。


 立てる事を確認した彼女は、僕を安心させるように口角を少し上げて頷くと、自らも立ち上がり伸ばした右手の方に首を巡らせる。


 釣られて視線を向けると、僕に襲い掛かった球体の化け物が苦しむような動きをしていた。


 球体から伸びた二つの掌で陽射しを遮るように覆いを作りながら、少しでも距離を取ろうと後ろに仰け反っている。


 明らかに女の放つ光で苦しんでいるようで、黒い手から白煙が立ち上っていた。


「あんた。あいつを倒せるのか? だったら早く倒してくれ!」


 僕が苦しむ球体を指差すと、女は目を伏せて首を振った。


「私の力では強すぎてさせてしまう。それだけはできないわ」


「あんな醜い化け物に同情するのか? 僕を絞め殺そうとしたんだぞ」


 球体に指を刺したまま彼女に詰め寄る。


「駄目よ。あの中にはがいるの。その人ごと消滅させてしまうわ」


 ネガティブ……? 取り憑かれている人? 一体何の話をしているんだ。


 彼女は僕を庇うように一歩前に出る。足元を見ると靴を履いておらず裸足のままだった。


「怒らないで聞いて。鞄の中に銀色の容器を入れてあるの」


 僕は休憩時間に調べたボンボニエールを思い出す。


「やっぱり。アレを入れたのあんただったのか」


 彼女は謝罪せずに、今の状況では非常識とも言うべき事を指示してきた。


「信じて。容器の中に入っている砂糖菓子によく似たモノが入っているわ。それを一粒とって今すぐ食べて」


 な、何だって。こんな状況で逃げろではなく菓子を食べろと言ってきた。


「今そんなことしてる場合か。それともにでもなれるのかよ」


 皮肉を込めて言ったつもりだったのだが、彼女は怪物に視線向けたままこちらを見ずに答える。


「ええ。それを一粒食べたらネガティブバーストを止められるわ」


「僕にそんなことできるわけ――」


 化け物と戦うように言われてすぐさま拒否しようとするも、こちらを向いた彼女の眼差しは曇りなき刃のような真剣そのもので思わず口をつぐむ。


 だが力溢れる眼差しと比べ、彼女の顔は青ざめ何かに堪えるように歯を食いしばっていた。


「どうしたんだ。まさか具合が悪いのかよ」


「ううん。でも長くは保たないかもしれない。だから早く食べて。お願い」


 視界の中で彼女が放つ光が瞬く。まるで寿命を迎える蛍光灯のようにチカチカと点滅を始めた。


 このままじゃまた怪物に襲われるかもしれない。


 僕は整理しないでグチャグチャな鞄の中に慌てて手を突っ込み、コンパクト大の容器を取り出した。


 蓋を開けて桃色の金平糖を一つ摘み上げる。


「食べるのは一つだけでいいんだな!」


「ええ。私のお願い聞いてくれてありがとう」


 今お礼言ってる場合か!


 最初見た時に毒かもしれないと思い込んだせいで口に入れるのを一瞬躊躇った。


 しかし視界の隅で光が瞬くのが見え、このままではまずいと感じて口の中に放り込んだ。


 奥歯で噛み潰した金平糖が細かく砕け散った途端、鼻を抜ける香りと同時に味蕾が刺激されて口中が優しい甘さに溢れる。


 異常事態にも関わらず、ほんの一瞬幸せを感じてしまうほどの甘さであった。


 口の中の甘みを飲み込む。数秒待っても身体に変化は起きなかった。


「何も変わった気がしないが、これでいいのか?」


 よくあるのが、周りの時間が止まって安全に変身していくものだが、少なくとも特殊なバリアなどは僕の周りに現れておらず、カッコいいスーツなども出てくる気配はない。


 こちらを振り向いた彼女にはこうなった原因が一瞬で判明したようだ。


「そんな……」


「僕は力を得たのか。これであいつを倒せるのか」


「いいえ。今のままでは駄目。お願い


「あんたの言う事を信じて食べたじゃないか」


「違うの。私の存在を心から信じて。今だけでもいいから私の全てを信じて欲しいの」


「何言ってるんだ。そんな簡単に信じられるか!」


 こちらを振り向いた彼女は今にも泣きそうな表情をしている。


 まるで僕に信頼されてない事を嘆き悲しんでいるようであった。


 だからといって『分かった。信じる』なんて言えない。そんな簡単に人を信じられるか!


 僕は彼女を睨むように見ていた。彼女もまた僕の方を向いている。


 だからお互い球体の動向に注意を払っていなかった。


 彼女が何かに気づいたのか息を呑んで振り返ると、僕の耳がズンと、柔らかい肉に太い杭が突き刺さるような音を捉える。


 前に立っていた彼女が両足から力が抜けたように崩れ落ちて膝をついた。


 様子を見ると彼女は今にも嘔吐しそうに口を大きく開き、黒い何かが腹を突き破っているように見えた。


 いや違う。突き破っているのではない。黒い右拳が深くめり込んでいるのだ。


 恐らく僕達が口論している隙をついて、球体の化け物が腕を伸ばし彼女の腹部を殴打したのだろう。


 突然の奇襲によって集中力が霧散したのか、彼女の放つ光が消え路地が闇に包まれる。


 右腕が闇の中に戻っていくと、暗闇から風切り音が聞こえてくる。


 それが球体の新たな攻撃だと直感した僕は、頭の中が真っ白になっているにも関わらず、うずくまる彼女の前に出て両手を広げた。


 予想通り球体の放つ左拳が、まるでダーツの矢のように僕の顔目掛けて飛んできた。


 目を閉じて死を迎え入れる準備もできそうにない。


 涙が蒸発するほど大きく開いた視界にコンクリートをも砕く拳が肉迫する。


 だが僕は死ななかった。拳が見えない壁に阻まれたように僕の前でピタリと止まっていたからだ。


 けれど安心はできなかった。左手は拳を開くと、またもや僕の首を掴もうとしてきた。


 捕まえようと伸びた黒い左腕がまた動きを止めた。今度は光を放つ右手に掴まれている。


 殴られた腹を抑えた彼女が、荒い息を吐きながら立ち上がり僕を助けてくれたようだ。


 黒い左腕は掴まれる事がよほど嫌なのか、殺虫剤をかけられたムカデのように滅茶苦茶に暴れ回る。


 その抵抗に抗えず、彼女の右指が離されてしまった。


 黒い左腕が闇の中に引っ込んだ。


 彼女はそれを追おうとせず、僕の両肩に手を置き前に立つ。


 無防備な背中を化け物の方に向けて。


「何、してるんだ」


 まるで僕を守る盾か城壁のようだが、蒼白な表情からも頼りなさが滲み出ていた。


「大丈夫」


 そう言い終えた彼女が息を吐き切ると、彼女の身体が逆くの字に折れた。


 それも一度ではない。何度も何度も彼女の身体は前から襲いかかる衝撃の暴風に晒され続ける。


 暴風の正体が何かすぐに分かった。


 球体が腕を伸ばして攻撃してきている。その石礫から彼女は全身を使って壁になっていた。


 衝撃で頭が大きく揺らいでも僕に向けた笑顔を崩さない。


 僕の頬に生暖かい液体が付着し鼻腔に鉄錆の臭いが飛び込んでくる。


 確かめなくても分かる。彼女の笑顔が額の上から流れる赤い液体で染まっていたからだ。


 拳が迫る風切り音と、彼女の身体を傷つける鈍い音が響く中、僕は声を荒げる。


「おい、逃げろって」


 微笑んだまま小さく首を振る。


「逃げろって言ってるんだ」


 また首を振った。


「馬鹿野郎。死んじゃうんだぞ! 早く逃げろ!」


 僕は心の底から声を出して説得した。虫のいい話だが本当に死んで欲しくなかったのだ。


 一瞬拳の暴風が止むと、返事の代わりに彼女が抱きしめてきた。


「今なら逃げれるだろ。抱きついてくるな」


 軟らかい髪と生暖かい液体を僕の頰に押し付けながら、耳元でこう囁いてくる。


「あなたならできる。大丈夫だから」


「何が――」


 大丈夫なんだと尋ねようとしたが、不意に彼女が離れていく。


 あんなに頑なな笑顔だった表情が歪んでいる。


 球体の右手が爪が食い込むほどの強さで彼女の頭を鷲掴みにしていたのだ、


 片手一本で持ち上げられた彼女は僕の頭上まで持ち上げられると、汚らしいゴミを捨てるように放り投げられてしまった。


 助けようと腕を伸ばすこともできず、僕は頭だけ動かして、放物線を書いて飛んでいく彼女を目で追う。


 投げられた彼女は頭からガードレールに激突すると、そのまま崩れ落ちてこちらに背中を見せたまま動かない。


 頭が当たって凹んだガードレールは白から赤に変わっていた。


「嘘だろ……」


 僕は左手を伸ばし彼女の元に向かおうとするが、後ろから伸びてきた右手に首を掴まれて無理やり振り向かされる。


 球体に引き寄せられると、また聞き取れない声を無数の腕の奥から出し始めた。


「離せ」


 彼女と同じように両腕で掴むも、自分の手から光など出るはずもなく自由にはなれない。


 でも最初と違うのは、僕の中で湧き上がるこの感情だ。


 最初は正体不明の怪物に対して恐怖しかなかった。誰かに助けて欲しいと願ってばかりだった。


 けれど今は違う。


「離せ!」


 僕は助けたいと思った。僕を助けに来てくれた彼女を助けたいと脳のみならず全細胞が雄叫びを上げた。


 最初に気づいたのは黒い右腕を掴んでいた両掌が粘つくのを感じた事だ。


 最初は汗かと思ったが違う。このネバつきはまるでかき混ぜた納豆のような、いやもっとドロっとした液体状の蜂蜜みたいな……。


 正体が分かる前に思考が中断される。突然球体が手を離したからだ。


 僕の言葉を聞き入れたわけではないのは明白だった。


 黒い右腕から白い煙が上がっていて、白煙が上がっているところをよく見ると二つの手形が残っていた。


 僕は自分の掌をその時初めて見て、思わず背筋に針が刺さるような刺激を覚えた。


 掌の皮膚からトロミのある液体が滲み出てきている。


 それはまるで樹皮を削った時に溢れる樹脂のようだった。


 今置かれている状況も忘れて見入っていると、樹脂がひとりでに動き出すではないか。


 もう声も出なかった。


 樹脂は僕の十本の指に絡むと手の甲を包み、前腕を覆い尽くした。


 このまま二の腕まで浸食するのかと思いきや力尽きたように肘のところで止まる。


 そして固まっていく。まるで長い年月を経た樹脂が化石になるように。


 僕の肘から先は琥珀に包まれた。


 まるでサイズの小さい靴を無理やり履くような圧迫感を感じ、手の甲の部分には何かを嵌め込める窪みが出来ていた。


 不思議な事に硬化したはずの樹脂に覆われた指や手首は動かせる。


 むしろつけていない時より滑らかに動く。そして内側から張り裂けんばかりに力が溢れてくる。


 腕だけ超人になったようだ。


 僕は今なら球体の化け物と闘えると直感で分かっていた。


 化け物は驚いたように自らの掌をこちらに見せていたが、すぐに拳を固めた右腕で殴りかかってくる。


 だから僕も左腕で真っ直ぐ突く。お互いの拳が正面衝突した。


 吹き飛んだのは化け物の右手。何が起きたか分からないのか右手を握ったり開いたりしていた。


 化物に打ち勝った事もそうだが、正面衝突した拳に軽い衝撃が走っただけで痛みさえ感じない。


 今度は左手が飛んできた。さっきは全く見えなかったのに動体視力が良くなったのか目で追える。


 反射神経も劇的に改善されたようで、ピッチャーの投げたストレートをキャッチするような感覚で左の手首を掴む。


 そして思いっきり力を込めた。


 化け物の左手が苦しむように痙攣する。もちろん離してなどやらない。


 次は右手が飛んできたので同じように手首を掴み、すべての指に力を込める。


 手首を握り潰してやる。


 歯を割らんばかりに食い縛り、腕だらけの化け物を睨みつけながら手首を握りしめていく。


 琥珀に包まれた指が肉に深く食い込み硬い感触に触れる。恐らく骨だ。これを砕いて二度とこんな事できなくしてやる!


 更に力を入れると骨が軋むような音を捉える。あと少しでこいつの腕は使い物にならなくなる。


 痛いのだろう。ラグビーボールの形に歪んだ胴体を腹踊りのように醜く捩らせている。


 張り詰めた腸詰めを握り潰すように一気に力を込めようとしたその時だった。


「駄目!」


 背後からの絶叫で呆けたように両手の力が抜けてしまう。


 両肘で上半身を支え頭から血を流した彼女がこちらに声を掛けてきたのだ。


 流れる涙は額の血と混じり合っている。


 それを見た途端心が強く締め付られ首を絞められた時以上の痛みに思わず胸を抑えた。


 気を取られたせいで、球体の次の行動に気づくのが遅れた。


「あっ、待て」


 化け物は握り潰される寸前だった両手を無数の腕で作られた胴体に戻すと、闇に一体化する様に消えてしまった。


 逃げたのだろうか? いやそんな事よりも。


 化け物の追うという考えを頭の中から追い出し、僕は彼女の方に駆け寄った。


 彼女はぎこちない動きで起き上がるも立ち上がれないのか、血糊のついたガードレールに背中を預ける。


「だ、大丈夫、じゃないよな」


 こんなに血を流している人を間近で見るなんて初めてで、声に感情が乗っていなかった。


「大丈夫――あっ!」


 彼女は立ち上がろうとするも、力が入らないようでまた座り込んでしまう。


「立つなよ。そんなに血が流れてるんだから」


 頭からの出血は着ているシャツとエプロンに染み込み、服も所々破けて、覗く素肌には擦り傷らしきものが認められた。


 このままにしておけるはずもなく、僕はポケットからスマートフォンを取り出して救急車を呼ぼうとする。


「待って」


 伸ばされた手が僕のスマホを持つ手を掴む。


「病院は大丈夫。家に帰って休めばすぐに良くなるわ」


 信じられないが、彼女の力を持ってすれば自己治癒も可能なのかもしれない。


「分かった。じゃ早く帰ろう。手を貸すよ」


「その前にやらなきゃいけない事があるの」


 彼女は両腕を頭上に掲げ花咲くように両手を開いた。


 溢れる光のシャワーが周辺に降り注ぎ、倒れたゴミ箱が一人でに起き上がり空き缶が元に戻っていく。


 陥没したビル壁も修繕され化け物が暴れていた形跡はどこにも見当たらなかった。


「これで無用な混乱は避ける事ができたわ。じゃあ帰りましょう……」


 立ち上がろうとした彼女は尻餅をつくように倒れ込む。


「お、おい!」


 顔を見ると、先ほどよりも蒼白で具合が悪そうだ。


「……ごめんね。すぐに立つからちょっと待って」


 中々立ち上がれず、話すだけでも辛そうで、僕はそんな彼女を見てられなくなってある行動を起こす。


「……掴まれ」


「えっ……きゃっ!」


 僕は琥珀に包まれた両腕を彼女の背中と太腿の裏に回して抱え上げる。


 お姫様抱っこのような形になった事で驚いたのか彼女が声を上げた。


 耳元で可愛らしい声を出すな。ただでさえ恥ずかしいのにますます心臓の鼓動が激しくなるじゃないか。


「しっかり掴まれ。このまま家に戻るから」


「……はい」


 いつもしっかりしている彼女が少し弱々しく返事すると、僕の首にしっかりと両手を回してきた事を確認して歩き出す。


 胸に顔を押し付けるのはやめて欲しい。心臓が飛び跳ねているのがバレてしまうから。


 夜遅い事が幸いしたのだろう。誰とも遭遇する事なく僕達は家に帰ってくる事ができた。


 家に着いても動けそうにない彼女を、自分が使う万年床に寝かしつける。


 こういう時にちゃんときれいにしておけばと後悔するも、今は彼女を安静にする事が重要だ。


 彼女を仰向けに寝かせると「ありがとう」と一言呟いて目を閉じてしまう。


 一瞬最悪な想像もしてしまったが、しばらくすると規則正しい息遣いが聞こえてきた。


 どうやら生きてるみたいだ。


 一安心して余裕が出来ると、彼女の流した血が気になってくる。


 清潔だと思われるタオルに水分を含ませ、起こさないように慎重に顔についた汚れを拭う。


 タオルが真っ赤になった代わりに彼女の顔は汚れひとつない綺麗さを取り戻していた。


 汚れ破けた服も換えてやるべきなのだろうが、いかんせん男の僕がやるには憚られるので、申し訳ないがそのまま上から毛布をかける。


 しばらく彼女の様子を伺っていると、眉根を寄せ汗をかき始めた。


 そんな彼女を少しでも楽にさせたいと、慌てて新しいタオルを持ってきて汗を拭った。


 苦しそうな表情が和らいでいく。


 不意に彼女の口が何かを伝えるように開いたので僕は耳を寄せる。


「……ありがとう」


「えっ?」


 言葉を発した彼女はまた眠ってしまった。今の言葉は誰に言ったのだろう。夢の中の人物? それとも僕?


 気づくと僕は眠っていたようだ。しかもあぐらを描いたままで身体の節々が痛い。


 伸びをすると、肩から何かが落ちた。目で追うと僕が使っている毛布だ。


 彼女にかけていたはずの毛布が何故僕の方に……。


 眠気が覚めて目の前の布団を確認すると、もぬけの殻だった。


 段々と五感が覚醒してきて、離れたところから物音が聞こえる。


 出所は台所だ。電気がついていていつもとは変わらない彼女の後ろ姿を認めた。


 彼女の立つ台所からいい匂いが漂ってきて昨日あんな事があったのに空腹を訴えてきた。


 立ち上がって彼女の方に近づくと、声をかける前に振り返って笑顔を見せてくる。


「おはようご主人様」


「おはよう」


「今日はお仕事でしょう。昨日大変だったからお腹空いてると思って軽めのもの作ってるの」


 彼女の視線を追うと時計が目につく。仕事行く二時間前だ。


「いつも起きる時間までまだあるわね。料理できたら起こすからもう少し寝ておく?」


「いや」


 僕は昨日から考えていた事を口に出す。


「今日は仕事は休む。昨日遭遇した化け物の正体とか、いろいろ知りたい。それに……」


 あんたの事が心配なんだとは、恥ずかしくて言い出せなかった。


「分かった。じゃあもう少しで出来上がるから。会社の方に連絡しておいたらどうかしら」


 彼女は僕の心の声が聞こえたのか笑顔が一層輝いたように見えた。


 上司に体調不良で休む事を伝えると、特に問題なく休みをもらえたので、顔を洗って眠気を完全に飛ばす事にした。


 顔を洗って鏡を見ると、自分の瞳に違和感を覚える。黒目の部分が赤く染まっていた。


 その色は瞬きするほんのわずかの間に消え、黒目に戻っていた。


 眠気を飛ばしてリビングで待っていると、彼女が完成した料理を持って来た。


「お待たせしました」


 テーブルに置かれたお皿には、狐の神様も大好きな茶色くジューシーな座布団。おいなりさんだ。


「これならそんなに手間も掛からなくてお腹いっぱいになると思って」


 お行儀よく並んだ三個のうちひとつを持ち上げてみると、ずっしりと重量感を感じる。


「……いただきます」


 噛んだ途端、いなりの皮が吸ったおだしが文字通り口の中に溢れた。


 だしは濃いめの味付けだったが、さっぱりとした酢飯と混ざり合いちょうど良い濃さに変わる。


 顎を動かしているとシャリッとした歯応えがあり、爽やかな香りが鼻を抜けていった。


 これは刻み――。


「刻んだ生姜が入ってるの」


 タイミングよく彼女が正解を教えてくれた。


 一個目を食べ終えた僕はすぐさま二個目。三個目と手に取っていく。


「ふふふ」


 隣で彼女自分の頰を指差し、笑いながらこう言った。


「ほっぺ。リスみたい」


 一気に頬張って膨らんだ頰を見てそう例えられてしまい、僕は恥ずかしさを誤魔化す為に食べる事に集中した。


「ふう」


 満足のため息をつきながら用意されたお茶で口をさっぱりさせていく。


「美味しかったかしら?」


「ああ」


 僕はもう一口お茶を啜りながら頷く。


「良かった! また作るわね」


 ぶっきらぼうに答えてしまったが、両手を顔の前で合わせた彼女はとても嬉しそうだ。


 このままこの満腹感に浸っていたいがそうも言っていられない。


 僕はコップをテーブルに置いて彼女に着席を促す。


 座った彼女の方に椅子ごと身体を向け、覚悟を決めて膝に手を置いた。


「さあ。今日はこの後何もない。時間はたっぷりある。だから教えてほしい」


「何を知りたいの」


「あの化け物、昨日の僕に起きた変化。そしてあん……貴女の正体を詳しく、教えてほしい」


 そして謝りたいという言葉は喉につっかえて出てこなかったよ


 一番言わなきゃいけない事を言えない悪い癖だ。


「そうね。じゃあまずは私の生い立ちから話します。全ては私が生まれた事に関わるから」


 本当に長い一日になりそうだ。

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