第三章 #2
右足を上げたまま数秒固まる。
僕の右側の路地から飛び出してきた何かが、丁度足を下ろそうとしたところで止まったからだ。
「おっと!」
バランスを崩しそうになりながらも左手でガードレールを掴んで身体を支え、現れた何かを踏みつけないように足を下ろす。変な下ろし方をしたせいで太ももの裏が攣った。
そこをさすりながら下を見て飛び出してきた正体を探る。
銅色の毛並みに垂れた耳とフクロウのように大きな目が特徴の猫、スコティッシュフィールドがこちらを見上げていた。
首輪が付いているので飼い猫のようだ。
こんな時間に出歩くなんて散歩しているのだろうか? 今日は満月だからお月見をしているのかもしれない。
けれど様子がおかしい。瞳孔が丸く開きヒゲが顔にくっついたスコティッシュフィールドは、僕の事などまるで眼中にないのか左右に忙しなく首を動かしている。
まるで何かから怯えて逃げ道を探しているように見えた。
いつもはそのまま通り過ぎるが、何となく猫の行動が気になって路地の方に目を遣る。
僕とスコティッシュフィールドは真上の電灯に照らされているが路地には灯りがない。
今日は満月なのに建物の壁に阻まれて月明かりも届かないらしく、全く見通せない濃い闇に包まれていた。
まるで闇自体が自ら嫌う明かりを吸収してしまったようなそんな深く濃厚な闇だ。
暗闇に身を潜めている奴が僕と猫に視線を送っているような気がして、思わず背中に氷を入れられたように背筋が震えた。
いや、誰もいるわけないじゃないか。
僕はそう自分を安心させて、まだ左右を見ていた猫を避けて通り過ぎようとする。
その時、身軽な筈の猫が反応できないほどの素早さで暗がりから現れた影が覆いかぶさった。
猫を踏まないように下を見ていたので、その影がどんな形をしているのかハッキリと分かってしまう。
それは人間ように五本指の生えた黒い右手だったのだ。
猫は潰れたカエルのような悲鳴を上げながら、黒い手から逃れようと全身を使って暴れている。
ホラー映画のワンシーンが目の前で展開されて、僕はその場に立ち尽くして見ていることしかできなかった。
スコティッシュフィールドは牙を剥き出して声を上げながら、前脚の爪でアスファルトを何度も引っ掻くが、抵抗虚しく光差さない路地に引き摺り込まれてしまう。
首を動かして猫を追うも闇に阻まれ、中で何が起きているのか分からない。
けれども途切れ途切れではあるが、苦しそうな猫の鳴き声が聞こえてきた。
路地で何が行われているか分からないが、僕の身体は脳から命令を受け取る前にそこから距離を取ろうとする。
どう見ても闇の中で楽しいことが起きてるなんて考えられない。逃げないと!巻き添えなんてごめんだ!
捕まった猫は助からないと決め付けて囮にし、肩から提げた鞄を手で固定して、服が擦れる音さえ立てないように慎重に路地から離れていく。
野良猫一匹助けたところで僕に何のメリットがあるっていうんだ。関係ない、関係ない!
逃げると決意し足を動かす間も、スコティッシュフィールドの鳴き声が僕の胸を掻き毟る。
不意に声が聞こえなくなったので、僕は足を止める。
し、死んじゃった?
身体は風邪をひいたように震え、逃げ出す為に足が勝手に進もうとするが、僕は意志の力を総動員してその場に留まる。
助けるのか? 猫一匹の為に危険を犯すのか? そもそも相手の正体も分からないのに……!
また猫のか細い鳴き声。その声は先日見た夢で泣いていた僕のようだった。
自分と同じように助けを求める存在がいると認めた途端、逃げると言う選択肢は僕の頭からなくなってしまった。
心の中で悪態を吐きながら引き返した僕は、何か使える物はないかと辺りを探し、路地の近くにある飲み物の自販機を見つけた。
喉はカラカラだが、こんな時に飲み物が飲みたくなったわけではない。
有難いことに飲み終えた缶や瓶を捨てるゴミ箱もあるじゃないか。
その中から空き缶を一つ取り出すと、猫が引き摺り込まれた路地にもう一度視線を送る。
鳴き声はおろか何の物音も聞こえてこなくなってしばらく経つ。本当に死んでしまったのだろうか?
踏み出す勇気が中々湧かず耳を凝らしてみる。
すると今にも消えそうな蝋燭のように苦しげな鳴き声が微かに耳に飛び込んできた。僕には助けて欲しいと訴えているように聞こえた。
今行くから、死なないでくれよ。
唾を飲み込み、ゆっくりと真っ暗な路地に足を踏み入れる。
一歩二歩と歩いても何も見えない。
四歩目まで歩いた時、目が闇に慣れてきて鉛筆で書いたような路地の輪郭が見えるようになってきた。
建物と建物に挟まれたそこの幅は人が一人通れるくらい。その奥に明らかに人ではない姿を発見してしまった。
全長は僕より大きく所々が凸凹している楕円形の球体だ。
狭い壁と壁の間に挟まれているのだろうか、まるで黒いラグビーボールのようにも見える。
そのラグビーボールのような球体から一本の腕が伸びている。手が掴んでいるのはさっき逃げてきたスコティッシュフィールドだ。
あの猫は目の前の不気味な球体から逃げていたに違いない。
もしかしたら猫が捕まってしまったのは、僕が逃げ道を塞いでしまったからだろうか。
前後を挟まれてパニックになり動けなくなってしまったのかも。
捕まったスコティッシュフィールドは右手によって球体の方に引き寄せられていく。
何をする気なんだ。まさか食い殺す気なんじゃ?
頭の中で抵抗できないスコティッシュフィールドが頭からバリバリと食べられてしまうところを想像して鳥肌が立った。
最悪の光景から猫を救うべく、僕は持っていた空き缶を正体不明の球体に投げつけた。
野球未経験の僕が投げた缶は猫の頭上を飛び越えて、見事球体に命中。
楕円形の球体は驚いたように体を震わせると同時に捕まえていた猫を落とした。
「早く逃げろ!」
言葉が通じないのは分かっていても声をかけずにはいられない。
自由になった猫は立ち上がると僕の言葉を理解してくれたのか、一目散に路地から抜け出し明るいLEDに照らされた角を曲がって姿を消した。
無事な姿に笑みが溢れるが、スコティッシュフィールドが逃げ切った事を喜んでいる場合じゃない。
捕らえた獲物が逃げられた事で、球体が次に狙う獲物は……僕だ!
猫が逃げた方へ僕も走り出す。
電灯に照らされたところまで来れたので、うまく逃げれたと思い込み油断して力を抜いてしまう。
だから右足に強い圧迫感を感じた時は全身が硬直すると同時に、音が聞こえるほどの勢いで血の気が引いた。
転んだ僕が右足を見ると、いつか見た悪夢のように足首を掴まれている。
声にならない叫びを上げながら、僕はそばにあった自販機を掴み、自由な左足で必死に黒い手を蹴りまくった。
離れろ! 一心不乱に自由な足のかかとを金槌のように振り下ろす。
まるで女性のように丸みを帯びた右腕を何度も蹴りつけると、耐えきれなくなったのか足首から指が離れた。
やった! と喜んで立ち上がると、新たな左腕が伸びてきて今度は僕の首を掴んできた。
喉を掴まれた事で息苦しさを感じ、瞬間抵抗する気力が失せて自販機を掴む右手の力も緩んでしまう。
そのまま僕はあの暗い路地に連れ込まれてしまった。
引きずり込まれる時にぶつかったのか、倒れたゴミ箱から空き缶や空き瓶が散らばる音はまるで悲鳴のようだった。
「ひっ」
左腕に引き寄せられて、僕と球体の距離は目と鼻の先ほどしかない。
おまけに、さっきより夜目が効いてきて楕円形の詳細な姿が分かるようになってきた。
結論から言うと分かりたくなんてなかった。不審人物ならどれだけマシだっただろう。
まるで悪夢から這い出てきたような姿。
球体を形作っているのは無数の人間の腕なのだ。数え切れないほどの左腕と右腕が寄り集まり丸い形を作っている。
そのうちの一本が伸びて、僕の首を掴んでいるようだ。
あり得ないことに目前の球体から声が聞こえる。
何か話しているようだがまるで静かな時に隣から聞こえてくる声のように小さくて聞き取りづらい。
球体は僕を殺す気がないのか、それ以上首を締めようとはせず、その無数の腕のどこにあるか分からない口を使ってボソボソと喋り続けていた。
何をどうしていいか分からないが、取り敢えず逃げようと両手を使って首を掴んでいる腕を引き剥がそうとする。
しかし女性のような腕に反して力が強くびくともしない。
腕がダメなら指なら何となるかもしれない。蛇のように巻きつく球体の指を首から剥がしにかかる。
嘘だ……全然取れない。
女性のように細く長い指ではあるが、まるで溶接されたように固定され、小指一本も動かすことが出来なかった。
逃げようともがいている間、球体は一定の握力で僕の首を締め上げたまま相変わらず聞き取れない声を発し続ける。
「何がしたいんだよ。離してくれよ!」
先程のように足を使って球体の腕を蹴ってやろうとしたが、バレエを習っているわけではないので自分の首の高さまで届くはずがない。
だから目の前の球体を蹴る。多数の腕によって作られたその感触は外側は柔らかく中は硬い。
蹴るたびに跳ね返されるような衝撃を覚えた。
それでも今の状況から抜け出したくて、自由な両足を交互に動かして蹴り続けた。
爪先が痛くなってきたので今度は足裏で球体を押し除けるように蹴っていく。
すると僕の顔の前に新たな右腕が現れ、岩のように固そうな握り拳を作り始めた。
握り拳が建物の壁を叩いた。大きな音がした方を見て僕の動きは止まる。
コンクリートの壁が、亀裂ができるどころか月面のクレーターのように陥没していたのだ。
そこで頭の中の引き出しが勝手に開き、最近起きている騒ぎを思い出す。
まさか、こいつが最近の破壊騒動の犯人?
僕が抵抗しなくなった事を確認したのか、球体は壁を殴った右腕を引っ込ませた。
僕に何か訴えようとするように、聞き取れない声を出し続ける。
このまま暗闇の中でずっと意味不明な声を聞かされ続けるのか? でも逃げようにもまた暴れたら今度はあの握り拳が僕の頭をスイカ割りのように潰してしまうかもしれない。
さっきの壁を殴りつけた音で誰かが来てくれる可能性はある。でもこんな化け物から助け出してくれる保証なんてない。
助けを呼ばなきゃ、でも誰に? 頼れる人なんて僕にはいない。
その時、一人だけ頭の中に思い浮かんだ。
いや駄目だ。
球体からの声を無視して、聞き耳を立てるも誰も近づく足音はしないし、車一台通る気配がなかった。
何でこんな時に誰も通らないんだ。それにこの怪物が壁を殴った時に相当な物音がした筈なのに……。
僕はその音を聞いた人間の立場になって想像する。
壁が陥没するほどの勢いはかなり大きくまるで爆発音。そんなのを聞いた人が野次馬根性で見にくるだろうか?
いや気になっても見には来ないだろう。
じゃあこの球体と二人っきり? いやきっと警察に通報した人がいるだろう。もう少ししたら助かる。
でも警察官でも勝てるのか。この巨大な腕の塊に? 拳銃で倒せるならいいけど効かなかったら僕みたいに首を絞められるか殴り殺されてしまう。
じゃあどうしたらいいんだ。どうすれば僕は助かるんだ。
やっぱり猫を助けないであのまま逃げてれば、こんな事にならなかったのに。
首の骨が折れるほどの力ではないが、段々と気道が塞がってきて意識が朦朧としてくる。
視界が滲んだ絵具のようにぼやけ、球体の囁き声も聞こえなくなっていた。
口が一人でに開き酸素を求めるように舌が外に伸びていくのを感じる。
助けて。誰か助けて。
それは以前見た夢と同じように、助けを求めても誰も答えない。
嫌だ。死にたくないよ。こんな得体の知れない怪物に殺されるなんて嫌だ。助けて誰か誰か僕の声を聞いてよ!
「助けて! アルデ助けて!」
洞穴に閉じ込められて一筋の光を見つけた遭難者のように、身体の内側から外の世界に向けて声を飛ばす。
助けを読んだところで来る筈ないし、そもそも距離が離れていて声が届くはずもない。
それでも僕は助けを求め続けた。酷い仕打ちばかりしてしまった彼女にしか頼れる人が思い浮かばなかったから。
「助けてアルデ。僕は死にたくない。死にたくない!」
声を出すたびに肺に残った貴重な酸素が失われ更に意識が朦朧としてくる。
もう声を出す事をやめなかった。叫ぶのをやめた途端、僕は死ぬという暗い予測が頭の中から離れなかったからだ。
真っ暗だった路地が眩い光に包まれたのを瞼の裏から感じ、首の圧迫感が消えた。
重力に引っ張られ、頭から全身が落ちていくのが分かる。
でも身体は動かず受け身も取れない。
このまま地面に頭をぶつける。分かっていても何もできなかった。
ぶつかったら痛いだろうなぁ。
そう考えていると僕の後頭部が何か柔らかいものに受け止められた。
全く衝撃を感じず首に負担もない。そして更に柔らかく温かい枕のようなものに頭を乗せられる。
瞼を開くと、そこには見知った女性の顔。
「遅くなってごめんね」
女神のように微笑む彼女の笑顔を見て、僕の両眼に温かいものが溢れ出すのを止められなかった。
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