第二章 #2
夢を見た。
まだ小さくて幼くて可愛いとみんなから持て囃され愛され守られていた時期の僕だ。
上げた右腕は誰かと手をつないでいる。
見なくても分かる。ほのかに漂う甘やかな匂い、僕の手を包み込む柔らかな掌、そして耳に入ってくる優しい声。
僕を一番愛してくれる
隣の人に連れて行かれるまま、目的地も知らないまま僕は歩いていく。でもこの人と一緒なら、どこに行っても、ただ歩いているだけでも楽しい。
だからずっとずっとこのままで……。
突然手を繋いでくれていた人から声を掛けられた。
「ダット」
小さな僕は彼女を見上げる。相手の目元は光に照らされたように見えない。
女性がまた口を開いた。
「起きて。ダット起きなさい」
僕は目を覚まして現実に戻ってきた。
その視界に女の顔が入ってくる。
「起きた。おはよう、朝ごはん食べる?」
寝ぼけている子供に語りかけるようにゆっくりとした口調で話しかけてくる。
それは昨日僕の家に勝手に入っていた女、自分の事を地球だと妄言を吐く女。
名前は確か……。
「アルデ」
「はい。よかった覚えてくれたみたいね」
眠気が覚めた僕の身体がバネ仕掛けのように跳ね上がる。
「な、何でお前まだここにいるんだ! 昨日の出来事は夢じゃないのか?」
「そんな一息に喋らないで。全部現実よ。ほら触ってみて」
女は僕の手を取って自らの頰に触れさせた。
ほんのりと赤みがかった頰は柔らかくしっとりしていて、ずっと触っていたい感触だった。
「わたしが現実に存在するって信じてくれたかしら」
「離せ」
僕はペースに呑まれないように、女の手から自分の手を引き離す。
「朝ごはん用意できてるから、食欲あったら食べに来てね」
女は特に気を悪くした風もなく先に出て行く。
僕は右手に残る感触を確かめながら、時計を確認する。
まだ目覚ましが大騒ぎするまで数時間もある。
朝ご飯なんていらない。僕は無言の抗議をするために布団に潜り込んだ。
しかしリビングから漂う匂いを布団で遮る事はできず、またしても胃が動き出すのを抑え付けられなかった。
「いらっしゃい」
やってきた僕に気づいた女が、椅子を引いてくれる。
無言で座ると、用意された朝ご飯を何も言わずに食べていく。
女が『昨日の残りでごめんね』と謝るが無視して食べ続ける。
もう何年も朝食なんて口にした事がなかったが、胃腸は今までにないほど元気で、自分でも驚くほどの速さで箸を進めていく。
こちらを見守るように見つめてくる女の視線を無視するために、僕はテレビをつけた。
ブラジルで環境問題についての会議をするという自分に全く関係ない話題だった。
次のニュース。今年はインフルエンザが大流行しているらしく予防の為のマスクが品薄になっているらしい。
そのマスクを買い占めて通常の何倍もの値段で転売されている事が報道されていた。
確実に防げるわけでもないのに、そんなのに高い金を払う人間がいるなんて考えられない。
マスクに高い金を出すくらいなら、同じ治療費を出した方が有意義に使えるのではないのだろうか。
それと、人の弱みにつけ込んで金儲けする奴も感染して苦しめばいいんだ。
愚かな他人を見下していると、隣から針で刺されたような視線を感じた。
わずかに目だけ動かすと、女が悲しそうな眼差しをこちらに向けている。
米を口に放り込みながら尋ねる。
「何だよ」
「誰かを見下しては駄目」
図星を突かれて、女の方に首を巡らせた。
「誰にも、人を見下す権利なんてないわ」
「何言ってんだ。人間は他人を蹴落として自分だけ幸せになろうとする生き物だぞ。
言葉を吐き捨ててから味噌汁を飲み干し、何か言われる前に空のお椀をテーブルに音を立てて置き会話を終わりにする。
「これ片付けといて」
食べ終えた僕は食器をそのままにするも女は怒る気配も見せないので、任せて二度寝する。
目を閉じると付けっぱなしだったテレビが消えて、その後流しで洗い物する音が聞こえてきた。
眠りにつくまで、女の鼻歌は全く聞こえてくる気配はなかった。
目覚ましを止めて僕は起きた。服を着替えて仕事へ行く支度を整え終えた時、あの女の姿がなくなっていることに気づく。
出て行ったのか。
やっと元の生活に戻れるという思いが心を締めていく中、心の片隅が空っぽになったような気がする。
靴を履こうと玄関に近づいたところで、いつもそこにあるゴミ袋がない。女がどこへ行ったか判明した。
忘れてた。今日はゴミ捨ての日か。
外へ出てみると、丁字路の突き当たりのゴミ捨て場は周辺の住人が捨てたゴミ袋をたらふく詰め込んでいた。
いつもはもっと散らかっているはずなのに、今日は綺麗に全てのゴミ袋がカラス除けのネットの中に入っている。
綺麗にしたのはあの女かもしれない。
そんな確信を抱きながら坂を下っていくと、姿は見えないがブロック塀の陰から話し声が聞こえてくる。
「あんた若いのに掃除するなんて感心だね。名前はなんていうんだい」
「はい
なっ、あの女何言ってるんだ。
僕は早足で角を曲がった。いたのは僕の家に勝手に居ついている女と、ゴミ出しを監視するあの老婆の二人だ。
「あらダット。もう出勤の時間だったのね。気づかなくてごめんなさい」
「いやそんな事はどうでもいい。ちょっとこっちに来い」
老婆の視線を痛いほど浴びながら坂の中腹に戻る。
手を引かれた女は老婆に別れを告げてから、後をついてきた。
「さっきの自己紹介はなんだ。何で僕の名字勝手に名乗ってるんだよ」
「人間の男女が一つ屋根の下で暮らすことになったら同じ苗字を使うのが一般的なんでしょ?」
「それは、結婚した男女の話で、だいたい今は結婚しても別々の姓を名乗ったりするんだよ!」
「でもわたしはドクドクって名字気に入ってるのよ」
「知らないよ!」
もっと口撃してやりたかったが、このままでは遅刻するので途中でやめておく。
だが最後に釘を打っておくのを忘れない。
「いいか。他人と無闇に喋るな。お前は不法侵入者なんだ。もし警察呼ばれたりしたら困るのはお前の方なんだぞ」
「そんな事にはならないわ。わたしご近所さんとは仲良くできる自信があるから」
打ったはずの釘は女の笑顔の釘抜によって、いとも簡単に抜かれてしまったようだ。
本当に時間がない。僕は『いいから家に戻ってろ』とだけ言い残して、走って会社を目指した。
ギリギリ遅刻は免れたが、久しぶりに走ったせいで冬なのに全身に汗を書いて不快な事この上なかった。
いつも通りの仕事をこなしていると、長いミーティングを終えた上司が戻ってきて僕を含めたパート全員を集める。
二月の節分、そこで売り出す恵方巻について話し始めた。
目標の売り上げとか、他部門から応援が何人来るとか、予約獲得のための試食会をやるとかいう話をしている。
僕はメモを取るフリをして違うことを考える。
家から出て行こうとしない謎の女をどうやって出て行かせようか。
待てよ。いっそのこと利用するというのはどうだろう。
あの女は僕を救うとか頼みごとがあるとか、訳のわからない事を言っていた。
そうだ。だったら頼み事を聞いてやるかわりに言う事聞かせればいいじゃないか。
家の片付け、食事の用意、ゴミ捨てさせて目覚ましがわり。それにいい身体しているから、僕の、欲望の処理をさせるのもいいかもしれない。
唾を飲み込む。
どれか一つでも拒否しようものならこう言えばいいのだ。
『だったら僕はお前の頼み事なんか聞かない。早く出ていけ』
そうだよ。向こうから出ていくって言うまでせいぜいこき使ってやろう。
暗い喜びを覚えた僕は、マスクの中で口角が上がるのを止められなかった。
ペンを持つ手が素早く動き、メモ帳の白いページが女に対する要求で黒く埋め尽くされていく。
あの女にどんな命令をしてやろうか考えると胸が熱くなっていき、いつもはつまらない仕事も手早く終わらせる事ができた。
「お帰りなさい」
帰ってくると笑顔で出迎えてくる女。
夕飯の支度ができているらしいが、その前に話す事があると言って椅子に座らせた。
リビングで向き合う僕と女。
「お前は何のためにここにいるんだ?』
もう一度ここにきた目的を尋ねる。
もちろん従う気はないが流れでこちらの言い分を通しやすくするためでもあった。
「私は貴方を勇気づけるために来たの」
女は自分の胸に手を当て、そこにしまわれている目的を語り出す。
「わたしは全ての生命体の誕生をこの目で見てきた。みんな大切な子供達。もちろん貴方を含めた人間もよ。
今までは貴方達に干渉しようとは思わなかった。けれどもある日叫び声が聞こえたの」
「それが、僕の叫びだったっていうのか」
頷いた女は続ける。
「小さな可愛らしい男の子が
だからわたし思わず答えてしまったの。わたしがいるから大丈夫よ。もう泣かないでって。さしたらその子わたしの声が届いたのか泣き止んだのよ」
女は当時の光景を思い出したのか、笑顔を見せる。
僕の方は、そんな事を言っていたのかと思うと恥ずかしくなってくるが、口を開けばボロが出そうなので黙って聞き続ける。
「それ以上干渉しようとは思わなかったけれど、気になったわたしはその子を注意深く見守る事にしたの」
「何で気になったんだ。僕より酷い境遇の子は沢山るのに」
「ええ。わたし自身もよく分かっらないのだけれど……」
女は、そのあとの言葉を言いにくいのか、一旦言葉を区切る。
「……多分貴方の声が聞こえた事が関係してると思うわ」
意味がわからない。
「そんなポカンとした顔しないで。でも貴方の気持ちがわたしの中に飛び込んできた時、空っぽだったわたしの心の容器に一滴の水が落ちてきたような気分になったわ」
要するに、嬉しかったとでも言いたいのだろうか。
「じゃあ、ずっと僕の事を上から覗き見してたのか」
笑顔だった女は申し訳なそうな顔になり、首を左右に振った。
「いいえ。わたし自身も
それに貴方の声はそれ以来届いてこなかったからもう大丈夫と思っていたのだけど」
確かに僕の母が亡くなった時、周りが引くくらい泣いていたと親父から聞いた事がある。
自分でもぼんやりと覚えている程度だが、身体の水分を出し尽くす勢いで、涙が止まらなかった事だけは覚えている。
「また貴方の助けを求める声が聞こえた。あれはお父様が亡くなった直後よね」
「親父が死んだ時……か」
僕は親父とは仲良くはなかった。いつも仕事優先で毎週会社仲間と飲み会に行っていた。
道端で眠りこけることもあるほど酔っ払って帰ってきては母に肩を貸してもらって寝室に消えていく。
そんな姿の親父が嫌いだったし、恥も外聞もなくなる酒も嫌いになった。
母が死んでから親父は僕に厳しく当たるようになった。
僕が母の事を思い出して泣くとぶってくる。そして決まってこう言う。
『男なんだから泣くな』
泣いて何が悪いと思ったが、口答えしても親父には勝てなかったので、次第に泣くのをやめ親父の言う事に反抗するようになっていた。
そして親父も死んだ。昼休みの運動直後に倒れてそのまま息を引き取った。
病院で見た親父は、裸で無数のチューブが繋がれている姿。
いつもの威厳はどこにも見えなかった。
親と住んでいる時は気づかなかったが、嫌いだった親父が死んで一人になった家は、こんなにも広かったのかと驚愕したものだ。
「確かに認めるよ。嫌いだったけど親父の葬儀が終わった後はすごい悲しい気持ちになった。
心の中で助けを求めたことは全く覚えてないけどな。でもそうだとしても、その時あんたはやって来なかった」
「ええ。わたし自身の問題が解決出来なくて、正直に言うと貴方に構う余裕がなかったの」
女は悲痛な声で当時の自分の状況を話す。仮にこいつが地球だとして、地球が解決出来ない問題ってなんなんだ。
その事を尋ねようとすると、女の方が先に喋り出した。
「わたし自身の問題は解決出来ないままだったけれど、ずっと貴方の声は聞こえていたわ。それこそ毎日のように」
「毎日泣いてなんかいない」
僕の言葉を女は無視した。
「ある日わたしは、自分の問題を解決する手段を見つけた。それには貴方の協力が必要不可欠なの。このままだとわたしは――」
女がそれ以上詳細な事情を話す前に僕は自分の意見を告げる為に手を上げた。
「待て待て。詳しい事情を聞きたいが明日も仕事だから早く寝たいんだ。だから先に言っておく。協力はしてやる」
「本当!」
女の顔が夏の日差しを浴びて喜ぶ、満開のひまわりのような笑顔を見せた。
僕はその笑顔を見て心にチクリとした痛みを覚えながらも、無視して自分の要求を話す。
「ああ。だから僕の要求を聞いてもらう。協力して欲しかったらあんたの誠意を見せろ」
要するに僕の言う事をなんでも聞け。そう言ってやると女は躊躇わずに頷いた。
「ええ。まだアレが成長するまで猶予はあるはず。それまでなら貴方の望むことはなんでもするつもりよ」
よし。言質がとれた。
「その言葉は記録した。もう言い逃れはできないからな」
ポケットに入れておいたスマホを取り出して液晶を見せつけて再生する。
『貴方の望むことはなんでもするつもりよ』
スマホから先ほどの女の言葉が再生された。
起動しておいたボイスレコーダーアプリで、女の話しを録音しておいたのだ。
会話を録音されて気を悪くして出ていくかとも思ったが、予想と違う反応が帰ってきた。
「そんな事しなくてもいいのに」
女は僕の提示した交換条件を飲むようだ。それならそれで結構。
「じゃあ契約成立だ。早速今から言うこと聞いてもらうぞ」
僕は仕事前の朝食は要らないから寝かせろ。と言い残して寝る準備を始める。
寝る直前女の方を向いてこう告げてやった。
「おい。食器片付けておけ。それと僕は寝るから大きな音立てるなよ」
「分かったわ」
僕は従順な奴隷を手に入れた。そして人を顎で使うという甘い蜜の味の虜になっていく。
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