第二章 『僕』と『私』の物語 #1
僕はドアを開けたまま、永久凍土に閉じ込められたマンモスのように固まってしまう。
自分の家にいる見ず知らずの人間に視線が釘付けのままでいると、女が小首を傾げた。
正体を探る事を一瞬忘れてしまうほど、その仕草の可愛らしさに目を奪われてしまう。
「何突っ立ってるの。外は寒いんだから早く入りない」
「え、ちょっと引っ張らないで――」
振り解く間も無く、僕は自分の家の中に引き摺り込まれてしまう。
何か恐ろしい事が起こるという考えが頭の中にあったからか、女が鍵を閉める音で思わず身が竦んだ。
「そんな怖がらないで。取って食ったりしないから」
ビビる僕を下から覗き込みながら、女は鈴の音のような笑い声を上げた。
裸の女は僕の腕を引いてリビングに連れていく。
腰の長さまで伸びている柔らかな赤髪の毛先が動くのが目に入った。
同時にシミひとつない滑らかな背中とボリュームのある臀部を見てしまい、耳が熱くなったのを感じて慌てて目を逸らす。
何で僕が罪悪感を覚えなきゃいけないんだ。
「ちょっと、離せよ!」
声を出すと同時に女の右手を振り払う。
驚いたようにこちらを見る女。太陽のようなオレンジオパールの瞳が、悲しそうに揺らめいた。
こちらが悪い事をしているような気分だが、向こうは不法侵入している上に露出狂。
つまり僕に非は全くないはずだ。
自分の恐怖が露見しないように、大声で詰問する。
「お前誰だよ。どうやって僕の家に勝手に入ったんだよ?」
怖さが声に出たのか、どうしても語尾が上がってしまうのを抑えられなかった。
僕の迫力に動じた様子もなく女が身体ごとこちらに振り向く。
身体の前で手を組んでいるが、服を着ていないので形の良い乳房が見えている。
大きすぎず小さすぎず掌に収まりそうな丁度いいサイズで、胸の先端は長く垂れたもみあげによって辛うじて隠れていた。
正体の分からない女の肢体の美しさに目を奪われている場合ではない。
こうして油断させようとしているのかもしれない。相手のペースに呑まれては駄目だ。
自分を戒めてから質問を繰り返す。
「お前は何者だ?」
「わたしの事忘れてしまったの?」
忘れてしまったと言われたが、僕の記憶の引き出しを開けてみても、目の前の女に会った覚えはない。
でも次の言葉で引き出しの隅にある小さな手掛かりに気付かされた。
「
それはつい最近夢で聞いた言葉。じゃあ、あの時助けてくれた声の正体なのか。
確かに声は似ているような気がするが……いやそんなわけはない。あれは夢なんだ。
「会いに行くって。僕はお前なんか知らない。どうやって入ったか知らないが……」
そこで一度区切り、人差し指を玄関の方へ向けた。
「早く出て行ってくれ!」
女は『なんでそんなこと言うの?』と言いたげに眦を下げる。
穏便に済ませようと思ったけれど出ていかない。
そこで気づいたのだが、女と会話していている間、奥からは誰も出てこない。
どうやら、この女が一人で侵入したようだ。空き巣、露出狂の空き巣、そんな人間がいるのだろうか。
いや犯罪者の考える事なんて分かるはずもない。
「今すぐ出ていかないのなら、警察に通報するからな」
相手を刺激しないように細心の注意を払う。女とはいえ何をしてくるか分からない。凶器を持っている可能性もある。
全裸の女に僕を殺す力はあるとは思えないが。
目の前の不法侵入者が変な動きをしないように注意しながら、刺激しないようにポケットからスマホを取り出していく。
「待って」
女が慌てた様子で近づいてきた。襲われると思い、持っていたスマホを落としてしまう。
僕が動かせたのは頭だけ。視界にはゆっくりと落ちていくスマートフォン。
足元の固い床か自分の足の甲に落ちていく。どちらに当たっても落ちたら確実に液晶が割れる。最悪本体も壊れてしまう。
でも、そうはならなかった。
見えない手に掴まれたようにぶつかる寸前、空中でスマホは静止していたのだ。
浮遊していたスマホが動き出し、どこに向かうのかと目で追うと女の方へ向かっていく。
「足にぶつかる前に間に合ってよかった」
女は、赤の他人であるはずの僕の事を心配するような素振りを見せながら、柔らかそうな両掌で包み込んだスマホを、そのままこちらへ差し出してくる。
「はい。どこにもぶつかってないから壊れてないはずよ」
差し出されたスマホを受け取ると、ほんのりと暖かった。
「どう。壊れていないかしら?」
「ええ。壊れてないようです。ありがとうございます」
女のした不思議な行動に素直に礼を言ってしまった。
正体もわからないし謎の力も使う。人間じゃないのだろうか。
どうすればいいのか悩んでいると、女の方が先に口を開く。
「私が突然家にいるのが間違いだったみたいね。喜んでもらえるかと思ったんだけど驚かせてしまってごめんなさい」
女が深く頭を下げる。
頭を上げるとこんな提案をしてきた。
「最初から事情を話すから、聞いてくれないかしら?」
女の真摯な態度に僕は頷きかけるが、その動きを止める。
「話を聞くにしても、先にひとつお願いがあります」
「ええ。なんでも言って。あ、お腹空いてる? 先にお夕飯にしましょうか」
「違います。ふ、服を来てください」
暗い玄関先でも眩しいほどに輝く肢体から目を逸らしつつ、そうお願いする。
すると自分が服を着ていない事に初めて気がついたように女が自らの身体を見る。
「……ああそうだったわね。貴方達
女は『わたしは服を着る習慣がないから』と謎の発言をしながら指を軽く鳴らした。
目の前で起きたのは奇術か魔法か。指を鳴らした途端、女の身体に下着が現れ、衣服がその身を恭しく包んでいた。
細身のパンツにシャツといったラフな格好で、その上からエプロンを着用していく。
それは僕が思い描く理想の女性の姿そのものであった。
「これで大丈夫、あっもう一つ忘れてたわね」
腰まで届く長髪を結わえたところで、着替えが完了したようだ。
「お待たせ。どう? 何も問題ないかしら?」
くるりと一回転しながらそう問いかけてくる女は、まるでスクリーンから抜け出した妖精のようで、僕は唯々頷くことしかできない。
「貴方が好きそうな格好を選んだのだけれど気に入ってくれたみたいで良かった」
女の微笑みが僕の心を跳ね上げさせる。
何を油断しているんだ。こいつは不法侵入者で謎の力を使うんだぞ。
「じゃあリビングでお話ししましょう」
まるで自分の家に案内するように、女性に中に連れていかれてしまった。
完全に向こうのペースなのは否定できない。
リビングに来るとテーブルの上で乱雑に置かれていた物が綺麗に整頓されていて、二人分の食器が置けるスペースが空いていた。
「あんたが片付けたのか」
「ええ。だって食事できるところがなかったんだもの。ほらご飯も炊けてるのよ」
テーブルには炊飯器が置かれていた。しかしもう何年も前に壊れてそのまま埃をかぶっていたはず。
なのに電源が入っていて保温状態になっている。
「炊飯器が動いてる。コンセント挿しても電源入らなかったのに」
「
まるで炊飯器と話をしたような口振りだ。
詰まったホコリをとったら動いたのだろう。そう考えていると、女が炊飯器の蓋に手をかける。
中にはホラー映画よろしく、大量の虫でも詰め込まれていてそれを口に押し込まれるのではないか。そんな考えは杞憂に終わった。
「美味しそうに炊けてるわよ。見てみて」
パカっと軽い音がして開かれると同時に、柔らかな蒸気が顔を覆い、微かに甘い匂いが鼻をくすぐる。
お釜の中で炊けていた白米は灯りの光を反射してツヤツヤしていてかつ一粒一粒ふっくらしていた。
見ているだけで、口の中に唾が溜まり空っぽの胃袋が動いて大きな音が鳴った。
絶対隣の女にも聞こえたのだろう。嬉しそうな笑みを浮かべている。
「何がおかしいんだよ」
「ふふ。何でもないわ。やっぱり、お話しする前にご飯にしましょうね」
僕が止める間も無く、女は流しのほうに行くと慣れた手つきで食事の用意をしていく。
「座ってダット。今日は肉じゃがっていう料理作ってみたの」
どうして名前を知っているのかという疑問さえも、今の僕からは吹き飛んでいた。
テーブルに並べられたのは、一嗅ぎでご飯と相性抜群と分かる、味が染みて色づいたじゃがいも沢山の肉じゃが。それと味噌汁とご飯。
誰かに手料理を作ってもらいたいと思ったが、まさか見ず知らずの女に作ってもらうなんて。
でも誰が作ったかなんて関係なく、並べられた食べ物達はとても美味しそうだった。
胃が動くのが止まらず、口の端から唾が溢れそうになる。
椅子につき差し出された箸を手に取ると、何も言わずにジャガイモを取って口に入れる。
形崩れしていないジャガイモは固すぎず柔らかすぎずで、噛む度に濃い旨味が染み出してくる。
口の中に残っているうちにご飯を食べると、ほんのりとした甘さと一緒になって喉を滑り降りていく。
手料理の美味しさに抗えず、僕は無言で箸を動かし味噌汁で口の中をリセットしながら食べ進めた。
「……はあ」
満足のため息をつきながら、胃の辺りを撫でる。
今までは買ってきた物を大量に食べて満腹感は感じていたが、今日は同時に満足感を覚えていた。
身体がポカポカして温かい涙が溢れてくるような……。
「美味しかった?」
「うん。とっても――」
しまった。女の存在を忘れていた。
油断している時を狙われる。かと思って慌てて女の方を見るとニコニコしているだけだ。
まるで自分が作った料理を僕が食べてくれて嬉しいとでも思っているのか。とても温かい笑顔だった。
「お口に合ってよかったわ。今食器片付けるから少し待ってて。終わったらわたしの事話すから」
少量の汁が残っているだけの皿と米粒ひとつない茶碗に、空っぽのお椀と箸を持って流しに行き、そのまま洗い物を始める女。
無防備な背中をこちらに向ける女は鼻歌まじりで作業していた。
いったいあいつは何者なんだ。不審人物なのは間違いないのに。
とにかく正体を確かめなければいけない。そう決意するも満足感によってやってきた眠気が、僕の警戒心の邪魔をする。
「お待たせ」
食器用洗剤の柑橘系の香りを纏わせた女が隣に座った。
僕は単刀直入に尋ねる。
「あんたいったい何の目的があって僕の家にいるんだ」
「わたしは貴方を救うために来たの。
確かに目の前の女の姿形は僕の理想系といっていい。しかしそのことを口に出した事もSNSに上げたこともなかった。
「『勇気づける』ってどういう意味だ」
「貴方は毎日求めていたじゃない。自分を癒してくれる存在を」
「どこでそれを知ったんだ。僕は誰にも言ったことはないぞ」
「心の叫びが聞こえたの『誰か助けて。一人にしないで』って。そう貴方のご両親が亡くなった時からずっと」
「やめろ!」
僕は自分の心中を覗かれた恥ずかしさと怒りで声を荒げる。
確かに母が死んだ時から僕は誰かに助けを求めていたのかもしれない。でもこんな得体の知れない存在に助けてもらいたくない。
「僕は助けて欲しいなんて言ってない。万が一言ったとしてもお前に助けて欲しくなんてない!」
「どうして?」
「どうしてだと。当たり前だ。勝手に家に入って全裸のまま家の物を勝手に触るお前みたいな不法侵入者に誰が助けてもらいたいと思う。
そんなのに助けを求める方がおかしい」
「ごめんなさい。最初の人々が誕生してからずっと
この女はさっきから何を言っているんだ。まるで自分が神か何かのような言動をする。やっぱり変なやつなんだ。
こんなやつの作った物を食べてしまうなんて、僕は何で愚かなんだ。
置いてある時計が目に入って明日も仕事があることに気づく。早く
「言い訳はいいから早く出てってくれ。今なら警察にも通報しないから。お願いだから早く」
女の二の腕を掴んで立たせようとする。女性特有の柔らかい肉を強く掴むと、痛みで引き立ったような表情をした。
これで本性を表すと思ったが、
「わたしは出ていきません。だって貴方の苦しみは完全には取り除かれていないわ。このままでは
「何意味わからないこと言ってるんだ。早く出て――痛」
人差し指に覚えのある痛み。今日仕事中に切った場所からだ。
確認すると、セオイさんからもらった絆創膏が真っ赤に滲んでいく。
「大変、傷が開いたのね」
「触るな……そうだ」
痛みに苦しみながら、僕はある考えを思いついて、血が滲む人差し指の腹を眼前に持っていく。
「お前この傷直してみろよ。家の鍵開けたり、家電直したりはできても、人の怪我をどうにか出来るわけないよな」
女は何も言わずに赤く染まっていく傷口を見つめている。
やっぱりな。この女は何も出来ないんだ。どうせ服を一瞬で来たのも何かのマジック。特殊な力でも何でもないんだ。
今化けの皮を剥がしてやる。
「おい。何か言えよ。それとも出来なくて必死に言い訳考えてるのか!」
無言で頭を下げる女の姿に勝利を確認した僕は優越感という温泉に浸るような気分だった。
だから顔を上げた女の強い眼差しは予想できずにたじろいでしまった。
「治すのは簡単よ。けれどもどうしても痛い瞬間があるの。少し我慢してね』
僕の右手を包み込むように掴んだ女が何をするかと思えば、指に巻かれた絆創膏を外そうとしている。
「おい何してる」
絆創膏が外され、そのときに皮膚が引っ張られて傷口が開いた。
隙間にバールをねじ込まれて無理やり開けられたような痛みが襲って身体が跳ねる。
女はというと僕の右手を左手で掴んだまま、右の掌を傷口の上に持ってきていた。
傷口を覆うようにやってきた右手が淡く光り、痛みが引いていく。
何が起きているのか見ると、醜く裂けた皮膚と肉が時を遡るように治っていくではないか。
時間にして僅か数秒の間に、包丁で作ってしまった指の裂け目は跡形もなく消えていた。
「はいおしまい。ごめんね。
僕はもう信じるしかなかった。この女が特殊な力を持っている事に。
「あんた本当に何者なんだよ……そもそも人間なんだよな?」
「わたしは人間じゃないわ。貴方達の言葉を借りるならわたしは
頭が理解することを放棄したのか、軽い目眩が襲ってきた。
「ちきゅう? 僕が今立っている地球の事か? そしてあんたがその地球だと言うのか」
女は頷く。
「そうよ。わたしは地球。訳あって人の姿に受肉してここにいるの」
物語によくある神ではなく、目の前の女は自分の事を地球と言い出す。
「受肉って神が人の姿を手に入れて人間界にやってくるアレの事か。でも地球……」
「わたしの事は《アルデ》と呼んで。
「そ、そうか。じゃあアルデは本当に地球そのものなのか」
「正確にはダットの目の前にいるのはわたしの意識ね。ほら人の身体には魂があるでしょ。その魂が肉体という器に入っていると思って」
地球の魂が肉体を持って、僕の目の前にいる。このアルデと名乗る女はそう言っているようだ。
僕は理解できなくて頭を何度も左右に振る。
「いやあんたが仮に地球だとして、何で僕のところに来た」
「それは貴方を信じて手伝ってもらいたい事があるからなの」
「僕に手伝ってもらいたい事があるだって。こんな三〇すぎの中年に?」
女、アルデは『そう』と返事をする。
聞かなければいけない事は沢山あるが、翌日の仕事のことを考えるともう何もせずに早く眠りたい。少しでも疲れを取りたかった。
時計を見る僕の視線に気づいたのか、アルデから提案してきた。
「ダットは明日お仕事だったわね。今日はもう遅いし寝ましょう。話の続きまはまた時間のある時に、ね」
アルデに手を引かれて寝室へ。
ゴミだらけの布団が綺麗になって一人分の隙間が空いている。
「時間なかったらちょっとしか片づけられなかったの。あとこれ着て」
それはいつも着ていた一度も洗濯していないスウェット。
袖を通すと柔らかな肌触りに爽やかな石鹸の香り。
「洗濯しておいたのだけど、ちゃんと乾いているかしら」
僕は頷くだけ。寝巻きに着替えた途端瞼が重くなってきたからだ。
「時間になったら起こすから、何も心配せずに眠りなさい」
僕は優しい声に抗えず電気がついたまま布団の中へ入るも隙間風の寒さが眠りを妨げる。
少しでも寒さを紛らわせようと布団を頭まで被る。
視界が暗い中で背中に温かな感触を感じる。それが何か分かっているけれど、僕は退けたりせずにそのままにしておいた。
今日の出来事は夢だ。きっとここ最近の疲れが溜まっていたの間にか寝てしまったんだ。それでこんな変な夢を見ているんだ。
「ダット、おやすみなさい」
そう考えていた僕の脳は、地球と名乗る女の囁き声を聴いた途端休息に入ってしまった。意識は心地より眠りの世界に降りていく。
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