第一章 #4
僕はたった一言だけ聞こえた女性の声の正体を知りたくて辺りを見回した。
相変わらず目の前は真っ暗で自分の手足さえ見えない。
『僕ヲ褒メロ。褒メ称エロ』
周囲の津波からは、ひっきりなしに声が聞こえ続けていたが、僕はその声を耳障りだと感じるようになっていた。
もう一度、あの女性の声が聞きたい。その願いが聞き届けられたのか僕に質問が投げかけられる。
『自分の状況をもう一度よく見て。そのまま飲み込まれてもいいの?』
言われた通りに自分の置かれている状況を整理する。
全身は粘つく津波に襲われて身動きが取れず、鼻と口は流れ込んできた泥が隙間なく詰め込まれてしまっている。
このままじゃ死ぬ。
そう自覚した途端、僕は身体に纏わり付く泥から逃れる為に両手足を動かして暴れ回る。
だけど動けば動くほど泥の拘束は強まり、遂にはギプスをはめられたように動けなくなってしまった。
僕の対抗する意思を挫く為か、鼻の穴と口の中に先ほどより多い量の泥を流し込んでくる。
何度も鼻から息を吐いて追い出そうとするも、まるで接着剤で固定されたように出ていかない。
せめて口だけでもと思い、吐き出そうとするがやはり喉にくっついて動かない。
噛みちぎろうとしても、まるでガムのように伸びるだけだった。
僕の抵抗に腹を立てたのか、更に喉の奥へと泥が突き進んでくる。
自分のお腹のところにまで到達した事が分かった途端、吐き気を催して胃の中のものが上に上がってくるのを感じたが、口から侵入した泥によってまた胃の方へ戻ってしまった。
誰か、誰か助けて!
一瞬でもこんな状態が心地良いと感じた僕が愚かだった。
この泥の津波には、理由は分からないが明確な殺意を持って僕を殺そうとしているのが、今ならはっきりと分かる。
さっきの声の主なら助けてくれるのかもしれない。
声の出せない僕は心の中で救いを求める。
助けて、助けて。苦しい、早くここから出して!
『そこから抜け出したいのね』
僕の心の声が届いた。
どういう原理かなんて考えず僕は助けを求め続ける。
抜け出したい。こんなところで死にたくない。
「んー!んんー!」
声帯から発せられた呻き声が、泥と口のわずかな隙間から漏れる。
『分かったわ。でもよく聞いて私は助ける手助けはできるけれど、これ以上近づくことは出来ないの』
何だって。僕は身動き取れないんだぞ。
『今、貴方の身体を自由にするわ。そしたら全速力で走るの。分かったわね』
女性の強い口調と、どんどん近づいてくる死への恐怖で僕は反論することをやめ同意することしか頭になかった。
分かった。それでいいから早く自由に、この泥を何とかしろよ!
『目を閉じなさい』
言われた通りにすると、太陽光のような眩い光が僕の視界を埋め尽くす。
言われた通りにしなければ網膜が焼き切れるほどの強い光を浴びて、僕の身体に纏わりついていた泥が苦しそうに蠢いた。
鼻と口から泥が抜ける。特に口から出た泥の長さはまるで大蛇。
数メートルはあろうかという量が自分の体に入っていたなんて信じられなかった。
鼻と口が開放された直後、浮かされていた身体が床に落ちて背中を強打してしまう。
痛みを堪え、一体何が起きたかと瞼を開けると、僕の背後から差す強い光によって、黒い津波が苦しげに身を捩らせながら離れていくではないか。
後ろからの光が収まると同時に、例の声が頭の中に響いてくる。
『光が差していた方へ向かって走るの。早く』
打ち付けた背中の痛みも忘れて指示通りに駆け出す。
今まで真っ暗だった空間。その遥か遠くに小さな恒星が輝いていた。
僕はあの眩い星が助けてくれたのだと直感で気づき、唯一の希望目掛けて走り続ける。
ずるりと、濡れたままの雑巾が床を拭くような音が聞こえて思わず振り向てしまった。
また僕を襲うつもりなのか、黒い津波が動き出していた。
もう飲み込まれたくない。僕は光に向かって足を動かし続ける。
何故さっきみたいに光を放ってくれないのか。心の中で尋ねても返事は返ってこない。
少しずつ光との距離が縮まり、星の輪郭が大きくなっていく。
けれども後ろから聞こえる
振り向いたら死ぬ。そう思うと息切れした身体は鞭を打たれる馬のように動き続けた。
少しでも早く助けてもらいたくて、走りながら光に向かって左手を伸ばす。
「僕ヲ褒メロ」
いつの間に接近していたのか耳元で聞こえる津波の声。
もう捕まりたくない。その一心で少しでも距離を稼ぐ為に受け身のことも考えずにジャンプした。
あと少しのところで左手は届かなかった。
希望を手にすることは叶わず、一瞬だけ浮いた身体が落ちていく。
待ち構えている津波に食われる。そう思った僕の左手が、暖かくしなやかなものに掴まれた。
五本の指に丸みを帯びたそれは女性の腕のように見える。
女の人の腕とは思えない力強さで僕は引っ張られ、そのまま右腕と新たに現れた左腕によって抱き締められる。
甘く優しい匂いが僕の鼻腔をくすぐり、助かった事に安堵していると、光が爆発するように広がり、僕を食べようとしていた津波は真っ暗な空間と共に閃光に包まれて消滅してしまった。
何が何だか分からないままでいると、あの女性のこんな囁き声が僕の鼓膜を優しく震わせる。
『ダットよく頑張りましたね。近く貴方に会いに行きます。その時に詳しい事情を説明しますから待っていてくださいね。さあ起きる時間ですよ』
目を開けていられないほどの眩しさで僕は覚醒した。
気づくと目覚ましがなる一分前で、眩しさの原因はここ何年も開けた覚えのないカーテンの隙間から差す、日光のせいだと分かった。
今の夢は何だったのだろう。夢のはずなのに一部始終覚えている。
特に最後の女性が言った一言が気になってしょうがない。
「ちかく会いに来るって言ってたような……」
考える間も無く目覚ましが鳴ったので、慌てて止めてから仕事に行く準備をする。
太陽の日差しが部屋を暖めてくれているからか、準備をしている間いつも感じる隙間風の寒さを感じることはなかった。
仕事をしてはいるが、今日は中々集中できない。
原因は夢のせいだ。仕事している間も休憩中もずっと夢の内容が頭から離れないのだ。
あの津波のような夢は何度も見ていた。でも今朝見たのは今までと違う夢だった。
津波に落ち着かれて飲み込まれることはあっても、足を拘束してきたことなんて一度もなかった。それに身体の中に入り込んできたことも……。
思い出すと、胃がせり上がってきそうになる。
おかげで食欲が湧かず、休憩は食べ物の匂いが充満する食堂ではなく汚らしいロッカーで済ませた。
結局、作業場で作っているのは食品なので、今日一日は吐き気と戦わなくてはならなかった。
今日の製造も終わったので少しはマシになったが、まだ油断はできない。
今も強い匂いと格闘している。
その出所は目の前にあるまな板の上にのっている長ネギだ。
明日のトッピングのために細かく刻んでいるのだが、切るたびにネギの匂いがマスクを通して鼻にダイレクトに伝わる。
今までは特に気にしなかったが、ちょっと気を抜くと限界が訪れそうだ。
別の事を考えるとしよう。
思い出すのは僕を助けてくれたあの光。アレも今までに出てくることはなかった。
それと女性の声。鼓膜を通してではなくまるで頭の中に直接語りかけてくるような声。
思い出すだけで、頭がくすぐったくなる。
そして、抱き締められたときの柔らかさと甘く優しい匂いは未だに身体が覚えていた。
夢なのに死の恐怖を感じ、暖かくて柔らかな希望を感じた。
夢なのに、あの女性の一言が忘れられない。
『ちかく私は貴方に会いに行きます』
本当なのだろうか。本当だったら会ってみたいと夢の中の出来事なのに、そう期待している自分がいた。
指を駆け抜けた冷たい異物の感触によって現実に引き戻される。
見るとネギを抑えていた人差し指に裂け目ができていた。
どうやら包丁で切ってしまったようだ。痛みは感じないが、身体の芯が冷えて何も考えられなくなる。
傷口を見ていると、裂け目からジワジワと血が溢れ出してくる。
「ドクドクさん?」
声をかけられて我に帰る。声の主はセオイさんだった。
「どうかしたんですか……大変! 指から血が出てますよ」
僕の人差し指を見て、状況を理解したようだ。
「大丈夫ですよ。ちょっと切っただけですから。血もすぐ止まると思います」
そう言ってる間も血の珠はどんどんと大きくなって今にも垂れそうだ。
「傷口早く洗ってください」
セオイさんは僕に指示しながら何かを探している。
「あった。これ使ってください」
それは一枚の絆創膏だ。
「すぐ止まるから大丈夫ですけど」
「駄目です。つけてください。そのままにしたら傷口にバイ菌が入ります」
いつもと違う彼女の強い口調を聞いて、僕は素直に従うことにした。
「ありがとうございます。じゃあもらいます」
「はい。よく洗って拭いてからつけてください」
セオイさんに言われた通り、よく洗って水気を切ってから絆創膏を巻いた。
巻いてから気づく。絆創膏の柄は可愛らしい猫のキャラクターで少し恥ずかしい。
けれども、そのあとの作業に支障をきたす事はなかった。
彼女にお礼を言おうか迷っているうちに、自分の帰る時間が迫る。
セオイさんは相変わらずの仕事量の多さで忙しいらしく、僕が仕事を終えた時に声をかけようとした。
けれど、目の前のパソコンの液晶を見つめる彼女の表情はどこか鬼気迫っていて、キーボードを壊しそうな勢いで激しく叩いていたので言い出せなかった。
まあ、また今度でいいや。
僕は特に何も告げずに帰ることにした。
この時一言でも声をかけていれば彼女が
家に向かう間、今さっきコンビニで買った夕飯を見つめる。
食欲も戻ったので、今日はレンジで温める肉じゃがにカップの味噌汁。それと常備しているパックご飯で済ませることにした。
いつもならもっと味の濃いものを買うのだが、今日は何故だかこんなシンプルなものを選んでしまった。
気分が優れなかったというのもあるが、夢の中の女性の優しい声を思い出すと、料理を作って欲しいなと考えてしまう。
独り身が寂しいのだろうか。いやそんな事はない。僕も今年で三十三歳。もう十年以上も一人で暮らしてきたのに何を今更。
ふと顔を上げると、親子とすれ違う。
今日の夕飯の話をしていたようで、とても仲良さそうに見えた。
いいなぁ。
本当に何を考えてるんだか、今心の中を読まれたら完全に変質者じゃないか。
早く帰ってご飯食べて寝よう。
坂を上ってマンションに入り、ポストに何も入ってない事を確認して階段を登っていく。
一段昇るごとに美味しそうな匂いがしてきた。
どこかで料理を作っているようで、その匂いが外に漏れているらしい。
階段を上り切ると、ある異変に気付いた。
あとは廊下をまっすぐ進み、右側にある二番目の扉が僕の家のドアなのだが、ドアの隣にある台所の窓から灯りが漏れている。
消し忘れたのかと思ったが、台所でほとんど料理はせず、もちろん昨日もそうだったので、電気を付けた覚えはない。
空き巣か何かかと思ったが、美味しそうな匂いは僕の台所の窓の隙間から漏れ出ているようだ。
料理を作る空き巣。そんなの前代未聞だ。
そもそも家に料理が作れるほどの食材なんてない。
自分の家のドアの前で棒立ちのまま、どうしたらいいか考える。
警察に通報する。でも周りの注目を集めるのは嫌だ。でも中に入って本当に空き巣と鉢合わせたら、自分の命まで奪われるかもしれない。
仕事行っている間に別の人間が引っ越してきたなんて事はありえない。
もしかして部屋を間違えたかと思って表札を見ると『独毒』と書かれている。
正真正銘僕の家だ。
こうしている間に通りかかってくれた人が『どうしたんですか?』と声を掛けてくれたどれだけ心強いか。
美味しそうな匂いのする窓から、匂いだけでなく小さな音が漏れているようだ。
耳を澄ますと、鼻歌なのか誰か歌っている。
近づいてみると、窓に細い縦線の隙間が空いていた。もしかしたら中が見えるかもしれないと思い、足音を立てないように近づいた。
隙間から見えたのは、食器を洗おうとしているのか蛇口から水を出す
「は?」
「あら」
思わず出た声が聞こえたのだろう。流しを見ていた女性が顔を上げて目が合う。
訝しむ僕とは対象的に、女性は花開いたような笑顔を見せると流しから玄関の方へ向かった。
少ししてドアの鍵が解錠された音が中から聞こえてきた。
扉は開かない。入ってこいという事か。
僕はドアノブを掴み、ゆっくりとドアを開けていく。
中で待っていたのは一矢纏わぬ美しい女性だった。
「お帰りなさい。ダット」
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