第一章 #3
うるさかった食堂から戻ってくると、早番の人しか見えない。
どうやら午後から来る筈だった応援の人が誰も来れなくなったらしい。
上司は応援が来ない事を嘆いているが、手を止めている間にも売り場の商品は無くなっていく。
取り敢えず今いる人間で作っていくしかない。
今日も帰るの遅くなるな。
予約作業をしていたセオイさんが作業場に入って上司の手伝いを始める。
自分の作業は終わってないようで、予約の確認をしながらも作業場の手伝いをするように言われたようだ。
それを見ていると、社員になんてなるもんじゃないな。と常々思う。
まあ世間からしたら、三〇越えの男がパートしてるなんて方がおかしいと思うだろうけど。
段々と製造が間に合わなくなり、みんな苛立ち始めてくる。
いくら作っても間に合わず、ネタも足りなくなり、売り場から作業場に戻ってきた上司の顔は、梅干しを丸ごと口に含んだように険しい。
怒りの捌け口にされたのか、何かするごとにセオイさんは怒られていた。
その度に彼女は折れるほど腰を深く曲げて謝っている。
上司が売り場に行くたびに早番の人達が作業しながら愚痴という名の担を吐き出していく。
もし愚痴が目に見えたのならば、床を埋め尽くすほどの量である事は間違いない。
最初は人手の少なさや作業の大変さに文句を言っていたが、段々と一人の標的に狙いをつけていった。
上司が休憩に行っている間、僕は品出しをしていた。
誰も商品の確認なんていう時間がかかる事はしなくなっていた。
補助にセオイさんが入ってくれているが、まだ慣れてないのか、どうしても手際が悪い。
文句を言いたくなるのを我慢していたけれど、我慢できなくなった人達がいた。
「セオイさん。テープ貼れてないよ」
「す、すいません!」
「そこに商品置かれると邪魔なんだけど、セオイさん」
「すいません」
「セオイさん。通れない、どいて!」
「……すいません」
何故だか一緒に作業している僕まで怒られているような気がしてきた。
謝るたびに段々と小さくなっていく彼女と対象的に、僕の中では怒りの火力がじわじわと上がっていく。
「セオイさん。社員なんだからもっとしっかりしてよ。
売り場と聞いた途端、体内で燃え上がっていた炎を思わず口から吐き出してしまう。
「だったらあんた達がやればいいだろ!」
口から出た炎に焼き尽くされたように、作業場は沈黙に包まれた。
聞こえてくるのは売り場の喧騒と迷子のアナウンス。
休憩から戻ってきた上司が、お通夜みたいな作業場を見て怪訝な顔をしていたが誰も何も言わなかった。
ほぼ一日製造を続けていたが、結局商品は品切れしてしまった。
もう在庫もないので作る事は出来ず、残った片付けをしていく。
僕がキレてからずっとお通夜のような雰囲気のまま、早番の人達は帰っていった。
一人で片付けをして炊飯器を洗っていると、
「ドクドクさん」
目だけ動かして相手を見るとセオイさんだった。
黒縁のメガネの奥から伏し目がちに話しかけてくる。
「今日は片付けする人一人だよね。何か手伝うよ」
炊飯器についた洗剤を水で洗い流しながら答える。
「いえ、大丈夫ですよ」
いつも一人で片付けていますので。
「でも、量も多いし時間もギリギリだし、二人でやった方が早く終わると思うの。私も今手が空いているから――」
蛇口から流れる冷水よりも冷たい声音で遮る。
「セオイさん。僕は大丈夫です。それよりも早く来てるんだし、自分の仕事を終わらせた方がいいんじゃないですか?」
見えない壁にぶつかったように、セオイさんが後ろに身を引いた。
「じゃあ私は自分の仕事するから、片付けお願いします」
そう言ってセオイさんはその場を離れていった。
蛇口から流れる水はいつも以上に冷たく、暖房が効いているはずなのに作業場は寒く感じるのだった。
三が日が終わって忙しさは解消されたかといえばそんな事はなく、むしろ去年より確実に忙しい。
去年までは派遣社員の人が二人いた。どちらも仕事ができる人であったのだが、会社が契約を打ち切ってしまったのだ。
その為二人が抜けた穴を残った僕たちで賄う事になったのだが、それは仕事量が増えたという事。
僕も今まではやらなかった遅番をやる事になったのだが、当たり前な話、仕事量増加という苦労が増しても、時給が増えるといった見返りは一切ない。
わかっていた事だが、やはり不満が体内に蓄積するのは止められそうになかった。
それでも、僕を含めた他の人達は働き続ける。
他の人達は五〇代から六〇代。今更他の仕事を探すくらいなら、このまま働いた方が楽なのかもしれない。
僕? 僕の場合はめんどくさいんだ。
何かにチャレンジするなんて、考えただけで心が締め付けられるし、失敗した事を想像しただけで全身が切り裂かれそうな感覚に襲われる。
だったら今の状況を受け入れて我慢していればいい。そうしたら段々と靴が足に馴染むように、身体が慣れていくのだから。
相変わらず早番の人達は愚痴をこぼしながら仕事をしている。
そういえばひとつ変わった事がある。
僕と早番の人達との会話がなくなった事だ。去年までなら他愛無い世間話や挨拶したり、多少片付けをしてもらっていたのだが今は片付けは僕に一任されている。
原因は元旦に怒鳴ってしまった事だろう。
誰にも邪魔されないから、気楽といえば気楽だ。だからこれでいいんだ。
『本当に、そう思ってるの?』
「思ってるに決まってるだろ……えっ?」
今話しかけられた? 作業場には誰もいないのに。
空耳だと結論づけたが、何故か怖い話などを聞いた時のような悪寒は感じなかった。
セオイさんがいるので売り場を任せ、僕は包材の発注をすることにした。
包材の在庫を確認しながら、持っているタブレットのような専用の機械に足りない数を打ち込んでいく。
一週間の計画数は出てはいるが、その日の売れ行きによって計画通りに上手く行った試しはない。
なので、広告の商品に使うのは多めに取ったり、いつも売れない商品は少なめに取り、余っている包材で代用することもある。
発注を終えて、今日来た包材が入っているダンボールを片付けることにする。
まず鮮魚と寿司のダンボールが混ざってないか確認。見つけたら鮮魚の方に持っていく。
自分のところで使うの包材を隙間を見つけ、つまらないパズルを完成させていく。
空になったダンボールをゴミ台車にしまい終えてから、手の異変に気付く。
手の甲に白い斑点のようなものが出来ていたのだ。
ダンボールで水分が奪われたせいで起こる乾燥肌だ。赤くなった指の付け根も痒く不快な事この上ない。
手を掻いていると、セオイさんが声をかけてきた。
「品出しは終わったよ」
「ありがとうございます」
僕は相手を見ずに頭を下げる。
「後は何か手伝える事はない。何かあるなら手伝う――」
「いいえ。大丈夫です。発注も終わりましたから」
彼女が言い終える前に視線で片づけ終えた棚を指し示しながら断る。
そこで、手を擦って痒みをごまかしていた僕の耳が不気味な音を捉えた。
文字にすると『べちゃり』と、まるで泥か何かが壁にぶつかったような音だった。
店内に泥なんてあるはずもなく、ましてや聞こえてきたのは話しかけてきた彼女の方からだった。
気になって見ると、セオイさんには不気味な音は聞こえていないようで、俯いて目線を下にしている。
頭が下がっている事で帽子をかぶった頭頂部が見えた。
そこに真っ黒な泥が付着していたのだ。
信じられないことが起きて心臓が跳ね、見間違いかと考えた僕の脳が何度か瞼を上下に動かす。
その間に黒い泥は跡形もなく消えていた。まるでセオイさんの中に入ったかのように。
「じゃあ、私も上がります。後お願いします」
「あの! 大丈夫ですか?」
帰ろうとする彼女の背中に、思わず声をかけてしまった。
「えっ、何が?」
やはり黒い泥の事に気付いてはいないようだ。
「いえ、えっと、そう。売り場の方はもう大丈夫なんですね?」
異変はないようなので、とっさに言い訳をついて誤魔化すと、セオイさんも特に不審に思わなかったようだ。
売り場の方に問題はないと言い残して彼女は帰っていった。
一人で片付けしている間も、終わらせて家に向かっている間も、家に帰ってからも、ずっとあの泥のようなものが気になってしょうがない。
どこかで見たような気がする。けれど何処で?
答えは出ないまま睡魔の誘惑に負けて、僕は布団に潜り込む事にした。
いつも寝付けないのに、その日はまるで夢の中に引き摺り込まれるように眠ってしまった。
気づくとまた例の真っ暗な空間にいて、今回は仰向けに寝かされていた。
最近は見た記憶はなかったが、また同じ夢を見ているようだ。
恐らくアレが迫ってくるのだろう。
起き上がると、後ろから音がしてきたので振り向く。
津波がやってきて僕を飲み込もうとする夢なんだろう?
そう楽観視して津波の方を見た途端、僕の心臓が破裂するほど大きく跳ねた。
その津波は真っ黒で粘性を持っている。今日セオイさんの頭上に付着したあの泥とよく似ていたのだ。
僕は勢いよく立ち上がると、津波が来る方と反対側に駆け出した。
夢なのに恐怖を感じる。
僕の細胞が警報を鳴らし、息苦しさも忘れて股が裂けそうなほど両足を動かして逃げる。
けれど人間の足より津波の方が速く、真っ黒な泥の波は意志を持つかのように僕を執拗に追いかけてきた。
息が上がり、何度も転びそうになりながらも走り続け、酸素を求めて涎が垂れるのも構わずに口を開けたまま走り続けた。
裸足の裏が何か冷たくて柔らかいものを踏んだと感じた途端、両足の時が止められたように動かなくなってしまう。
下半身を置いて上半身が前に進もうとしたせいで、身体が前のめりに倒れていく。
腿の後ろと背中の筋肉を総動員して上半身を支える。運動不足の僕だが幸いにも反射的に伸びた指が床につく事はなかった。
けど喜べる状況ではない。
床一面が吸盤になってしまったかのようで、吸いつかれた足の裏を少しでも動かせば、皮膚が千切れそうなほど痛みに襲われる。
床を震わせる振動と音が、背中に触れるか触れないかのところで止まった。
津波がおさまったのか?
僕は自分の目で確認する為に頭をゆっくりと動かしていく。
きっともう襲ってくる存在はいないという希望にすがりながら、首を動かした。
後ろを見た途端涙が溢れてくる。
ソレはいた。まるで僕の希望を打ち砕く為にワザとそこで待っていたかのように、僕の真後ろで聳え立っていたのだ。
助けを求めようと口を開けて、声を出そうと息を吸い込む。
「助け――」
そのタイミングを見計らったように津波が大きく口を開けて迫り、僕は頭から飲み込まれてしまった。
飲み込まれる直前口を閉じることはできたが、泥は唇の隙間を通り歯列の間を抜けて入り込んできた。
足を固定されたまま、視界は光の一切ささない暗闇に覆われ、口と鼻に泥流が流れ込み息ができない。
自由な両手を動かして泥をかき分けようとするが、何度動かしても泥は元の位置に戻ってくる。
呼吸ができない事にパニックに陥っていると、更に驚くべきことが起きた。
何か音が耳に入り込んでくる。津波が動いているノイズのような音かと思ったが、どうやら違う。
『オオオオ……誰モ僕ヲ見テクレナイ』
これは……声だ。
意識が朦朧としてくる中、脳が冷静に音の正体を捉える。
『僕ヲ褒メロ。甘ヤカセ。何デ頑張ッテイルノニ誰モ褒メナイ』
耳の中に声が押し込まれる。
『周リヨリ仕事シテ他人ニ気ヲ遣ッテルノニ、何故僕ノ頑張リヲ褒メ称エナインダ!』
津波の叫びは獣の咆哮のように煩かったが、何故か共感できる。
そうだ。僕は他の人より頑張ってるのに、頑張ってない人たちより扱いが不遇なんておかしい。
心の中で津波の主張と同意した途端、息苦しさが解消されていくような気がした。
いや気のせいじゃない。息継ぎをしないで潜っている時に感じるあの辛さが消えていく。
まるで津波と一体化していくみたい。そう思うと口と鼻に入り込んだ泥に対する不快感も薄れていく。
口から入ったところ天のような泥は気道を通り肺の方に、鼻から入った水飴のような泥は上に上がってくる。まさか脳みそに向かっているのだろうか。
一見すると気持ち悪い光景だろうけど、僕は次第に心地よくなっていた。
どうせこれは夢の中。誰にも見られないんだから、こんな事で快感を覚えてもいいよね。
いつの間にか床の吸盤から解放され、全身が泥の海の中を漂うような状態になっていた。
そんな中、僕は一体化してくる泥に身を任せようと抵抗することをやめていた。
ゆっくりと瞼が落ちてくる。
『本当にそれでいいの?』
泥による快感に身をまかせようとしたその時、聞いたことのない女性の声が頭の中に響いてきた。
僕は目を見開く。
相変わらず視界は泥の中であったが、確かに女性の声。しかも、その声は作業場で聞こえた
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