第一章 #2

 時刻は二〇時になろうとしている。


 僕の定時は二一時、後一時間あれば余裕で終わるだろう。


 戻ると、鮮魚のバイトから手伝うかどうか聞かれたが、僕はやんわりと断った。


 バイトはここ専属ではないため、一回一回教えなければならない。


 はっきり言って教えるのもめんどくさいし、向こうは向こうで自分たちの仕事プラスこちらの手伝いなどやりたくもないだろう。


 少なくとも僕だったらそう考えるので、滅多な事がない限りはお断りしている。


 それに、僕一人の方が、誰にも邪魔されずに仕事ができる今の環境を邪魔されたくはないのだ。


 人の気配がない作業場に入ると、何故だか目頭が熱くなった。どうやらゴミでも入ったようだ。


 目からゴミを追い出し作業を再開する。


 残していた洗い物を終わらせ、巻物マシーンに取り掛かる。


 これもまた中々めんどくさい。


 分解したパーツを洗う事自体は楽なのだが、問題は本体のほうにある。


 原因は分からないが、使うたびに中のシャリが下に落ち、マシーン内部にこびりつくのだ。


 しかも時間が経って固くなってしまっていて取るのに苦労する。


 一回爪を引っ掛けて割れた事がある。痛い思いはしたくないので注意しなければならない。


 濡らした布巾で固まった米粒を取っていく。


 マシーンの下に落ちていってしまうので、そこにはゴミ箱を置いておく。


 内部が綺麗になったら、機械のスイッチや周辺に付着している海苔の細かいかけらを拭き取る。


 ある程度綺麗になったので、部品を組み立てて完成だ。


 ここまで終わったら一番面積が広いところの掃除を始める。そう床だ。


 まずは長靴に履き替えモップを持ってくる。次にホースでお湯を出し、床の汚れを排水口に流し落としていく。


 次に流した生ゴミを溜めるネットを交換だ。


 一週間に一回しかできないので、溜まったゴミが灰色のヘドロに変わっていて原型を留めていない。


 逆に元が何かわからないので見た目ほどは気持ち悪くない。


 周りについた汚れを出来る限り綺麗にしてからネットを交換して終了だ。


 後はゴミが山積みになった台車を捨てに行く。


 燃えないゴミや生ゴミ、ダンボールに発砲スチロールがうず高く積み上がった台車をゴミ捨て場に持っていく。


 途中で商品搬入のためにシャッターが開いていて、そこから入ってきた風が水に濡れた手をより一層冷やしてきた。


 手の冷たさを我慢しながら手早くゴミを捨て戻ってくると、もう帰る時間の十分前だ。


 閉店まで一時間。残っていた商品を全て半額近くに下げてしまう。


 ここの店長は閉店まで商品を残せと指示を出しているらしいが、残っても廃棄になるだけだと思うので、全部売り切るつもりで値下げしている。


 値下げが終わって時計を見ると丁度二一時。忘れたところがないか確認してから値下げ機を片付けて自分のロッカールームへ。


 一人一枚ずつというルールがあっても、ほとんど守られない新しいエプロンと制服を運よく手に入れて交換し、出勤した時に着てきた服に着替える。


 汚れた制服とエプロンを汚れ物入れに入れ、退社のスキャンをして外に出た。


 空を見ると星はもちろん月も見えない。どうやらまだ曇っているようだ。


 早く帰りたいが明日は休み。家に引きこもるので、帰りに食料を買うと決めていた。


 その為に自分が働いているスーパーで買い物していく。


 けれど、この選択は間違いだった。両手で買い物袋を持った帰り路、突然土砂降りになったのだ。


 幸いカバンに入れてあった折り畳み傘があったのだが、小さな傘では身体はおろか買い物袋が濡れるのを防ぐ事は出来なかった。


 びしょ濡れになった傘を傘立てに置き、家に入って自分の状態を確かめる。


 上着や買い物袋に付いた沢山の水滴、ズボンや靴は水を吸って重くなり、一歩踏み出す事に靴下から水が滲み出てきた。


 上着やズボンをハンガーでその辺に掛け、靴下は洗濯カゴに放り込む。


 買ってきたものをしまってからシャワーを浴びる。


 風呂ではなくシャワーなのは、浴槽に先客がいるからだ。


 捨てきれないゴミ達が浴槽に詰め込まれている。更に浴槽全体は黒カビのデコレーション。


 汚いと分かっていても、めんどくさいから何年もこのままにしていた、


 シャワーが使えるから何の問題もない。


 少し気になるのは最近お湯の出が悪い。きっと寒いからだろう。


 風呂から出て何度も洗濯してヨレヨレのランニングシャツとパンツを履き、一着しかないスウェットを着た。


 夕飯を食べる。買ってきたバックのご飯とカップ麺。


 ご飯を三杯食べ大盛りのカップ麺を平らげた。


 毎日同じ量を食べるので、今年の健康診断で引っかかった。


 けれどやめるつもりはない。


 つまらない仕事によるストレス解消には大量に食べるのが一番。更にポテチやチョコを食べまくる。


 満足したところで深夜零時を過ぎていて、敷いたままの布団に潜り込んだ。


 今日は休みなので目覚ましをかけずに瞼を閉じる。


 隙間風の寒さをごまかす為にカビ臭い布団二枚をかぶって眠る。


 嫌なことしかない現実を忘れられるような、良い夢を見られますように……。


 僕は太陽も月も星もない暗黒の天井の下に裸足で立っている。


 着ている服は寝る時に着替えた寝巻きだが、ここはどこだ。


 夕飯を食べて隙間風にさらされながら寝たはずなのに、もしかして風邪引いて悪夢でも見ているのだろうか。


 突っ立っていてもしょうがない。熱くも寒くもない空間から出ていく為に黒い床を歩く事にした。


 何歩進んでも出口は見当たらず、代わり映えしない黒が続いていく。


 不意に小さな物音が聞こえてきた。


 何処からか耳を澄ますと後ろから聞こえてくる。


 振り向くと、真っ暗な空間が動いているように見えた。


 目を凝らすと、ソレはどんどん背が高くなり幅も広くなっていく。


 まるで津波だ。


 黒い津波がこちらに迫ってくる。飲み込まれたらとても無事に済みそうにない。


 僕は一目散に駆け出す。夢なのに日頃の運動不足のせいですぐに息が上がり胸のあたりが苦しくなってくる。


 逃げなきゃいけないのに、身体は動かなくなっていく。


 津波に呑まれたら死ぬのが分かっていても、身体は死を求めているかのように足が止まってしまった。


 口を開けたように迫った津波が空気を求めて喘ぐ僕を覆い尽くしたところで目が覚めた。


 金縛りが解けたように全身が一瞬震え、目蓋が痛いほど開く。


 視界に入るのは見慣れた自分の家の天井。どうやら夢から覚めたようだ。


 嫌な夢だった。仕事のストレスのせいだろうが、まるで実体験のようなリアルな夢。


 気づくと、冬なのにまるで津波に呑まれたかのように全身に汗をかいていた。


 スマホで確認すると時刻は八時。再び眠くなってきたのでそのまま二度寝する。


 二度目の目覚めは午後二時を回っていた。目が覚めた時には最初に見た夢のことは覚えていなかった。


 起きてトイレを済ませ朝ご飯ならぬ昼ごはんをレンジで温め、その場で立って済ませた。


 昼食を済ませたら自分の寝室兼自室に戻って、二つのテレビの電源をつける。


 二つある部屋のうち一つはゴミが山積みで人が入れる隙間もない。


 自分が使っている部屋も、脱ぎ散らかした服や季節外れの夏服が敷布団となり、周囲は大量の本に囲まれている。


 一人でゲームをしたり、多人数でゲームを遊ぶ様子を記録した動画を見る。その間もテレビはつけっぱなしにしておく。


 つけたままのテレビがニュースを放送する。


『今日未明、幼稚園児の列に車が突っ込みました。幸い死者は出ませんでしたが、運転手の供述は曖昧で……』


 楽しい話題は何もない。


『今入ったニュースです。商店街で刃物を振り回すという事件が起きました。未確認情報ですが死者も出ているようです』


 視聴者がスマホで撮ったと思われる動画が流れた。


『容疑者は取り押さえられましたが、意味不明な事を言っており動機は不明です。容疑者はここ最近仕事を退職しており……』


 本当に世の中に楽しい話題はなかった。僕もストレスが限界まで貯まったら、自殺するか街中で刃物持って暴れまわるんだろうか。


 そんな事を考えたら虚しくなってきたので、慌てて頭の中から追い払った。


 ゲームをやっているうちに眠くなってきたので、そのまま昼寝する。起きたら二〇時を過ぎていた。


 夕飯を食べ終えアニメを見る。今見ているのは異星人の主人公が地球を救うヒーロー物。


 大して内容は覚えていないが、主人公の母がとても優しそうに見えた。


 いつでも息子を想い、助けてくれる女性ひと


 僕にもこんな人に人生変わるのだろうか。


 なんて、そんな人が現れるはずなんてないのに。


 自分が住む汚い部屋、醜い容姿、自己中心的な性格。


 こんな僕を助けてくれる人間なんていない。僕は助けてもらう価値なんてないんだ。


 このまま老いていくか、それとも病気で死んで誰にも気づかないまま腐っていく。それが僕の人生なんだ。


 おもむろにテレビを消して電気をつけたまま布団に潜り込む。


 明日からはまた仕事。嫌だけど行かなければならない。


 もうしばらくしたら年末年始の行事などでもっと忙しくなってくる。


 ああ、行きたくない……。


 いくら僕が願っても時間は平等に過ぎていく。


 休みは終わり仕事が始まり、そして年が明けた。


 新年ゆっくりしているところもあるだろうが、僕は違う。


 元旦から働いている。


 他部門から来た応援の人達と共に寿司を握っていく。


 八人もいたら足の踏み場のない作業場には十人以上いてとても狭い。


 応援の人達は当たり前だが寿司の作業をした事ない人ばかり。その為慣れている僕たちが動かなければならない。


 包材がなければ取りに行き、解凍ネタが無くなったら冷たい流しの中から取り出し、シャリがなくなれば持ってきて補充する。


 これなら応援の人なんて、いない方がいいと感じてしまう。


「それは自分で確認して!」


 お昼に差し掛かる少し前、値付け機のほうから怒鳴り声が聞こえてきた。


 応援の人垣に隠れてよく見えないが、上司が誰かに向けて声を荒げているらしい。


「す、すいません。でもこの商品は確かに届けたんですけど……」


 今にも泣きそうな女性の声。怒られているのは去年入ったばかりの新入社員のようだ。


 彼女は確か背負セオイ癒求ユキュウさん。


 年末年始は予約を担当していた筈。どうやら用意した商品が行方不明になっているらしい。


 セオイさんは、自分ではどうすることもできずに上司に助けを求めていた。


 けれども上司は上司で品出しに追われて余裕がないようで、セオイさんが喋っている途中で商品を出しに売り場へ出て行ってしまった。


 セオイさんはまだ何か言おうとしたみたいだけど、行ってしまった上司を追わずにバックルームの方へ行ってしまう。


 どうやら自分で解決する事に決めたみたいだ。


 怒鳴り声に包まれて誰も喋らなかった作業場から、ヒソヒソ声が聞こえてくる。


 忙しいからしょうがないとか、一人で出来るようになるのが当たり前とか。


 僕を含めた誰もが彼女の味方をしようとはしない。


 自分の仕事だけをこなし愚痴をこぼしていく。これが普通。誰かに頼るなんていけない事なんだ。


 早番の人達が次々と休憩をとりに食堂に向かっていく。


 僕は一番最後で、残っている応援の人達のフォローに回っていた。


 誰かに言われたわけではなく、自然と僕のポジションに決まっていた。


 最後の応援の人が帰ってから暫くは、一人で商品を作り続ける。


 この間もセオイさんは忙しそうに作業場を行ったり来たりしていた。


「あっドクドクさん。おはようございます」


 通り過ぎ様に声を掛けられた。振り向くとセオイさんが挨拶してきたようだ。


「……おはようございます」


 僕は気怠く一言返して、すぐに作業を再開する。


 彼女は特に何も言わずに、忙しそうにその場を後にした。


 挨拶なんてする暇あるなら、自分の仕事を早く終わらせればいいのに。


 今度は複数の大声。早番の人が帰ってきたみたい。


 今日のご飯は美味しくなかったとか、欲しいものがなかったと言いながら自分の持ち場に戻っていく。


 そんな文句言いながらも、もうお腹いっぱいというのだから一体どっちなのと聞きたくなる。


 聞かないけど。


 戻ってきた人達に任せて、僕もお昼を食べる。


 定食のメニューは確かに美味しそうなのはなく仕方なく選んだ年越し蕎麦も、やっぱり美味しくなかった。


 更に困ったのが、僕の隣も前も後ろも従業員に囲まれている事だ。


 騒がしいし、ゆっくり休めない。今日は夜の片付けもあるのに少しは休ませてくれ。


 そんな事を言うこともできずに、僕は音楽プレーヤーの音量を大きくして、辺りの騒がしさを誤魔化しながら目を閉じた。


 せめていい夢でも見れたらいいのにと思いながら目を閉じるも、案の定何も見えず、周りの騒がしさのせいで眠りにつくこともできないまま休憩の時間は終わってしまった。

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