第一章 『僕』の物語 #1

 耳障りな音で僕は目覚めた。


 左手で音を出し続けるスマホを止める。時計を見ると昼の一二時二八分。


 後三分は寝れる。


 まるで氷のように冷え切ったスマホを握ったまま目を閉じる。


 心臓が激しく脈打っている。恐らく夢のせいだ。でも何の夢か思い出せない。


 夢の内容なんて目が覚めると覚えていないものだけど、最近同じような夢を見ている気がする。


 分かっているのは、目が覚めるととても恐ろしい気分に浸っている事だけ。


 内容は分からないけど、原因は分かっている。


 今働いている仕事のせいだ。


 そう結論づけると同時に、二度目のアラームが鳴った。


 忌々しげに目覚ましを切ってから、僕はゆっくりと起き上がる。少しでもつまらない仕事をしたくないから。


 数日間着てきた服に着替える。


 暖房は壊れたままで更に窓も完全に閉まらないため、冬の隙間風が僕の身体を凍えさせていく。


 行きたくない。けれど行かないと何もできなくなってしまう。


 上着を着て何とか寒さを凌ぎ、今度は鏡を見る。


 死人のように白い肌、充血した目にタワシみたいな硬い髭。


 髭剃りで髭を剃る。剃るのはめんどくさいが、肌が白くて髭の濃さが目立つ。


 それを見られるのが恥ずかしいから剃っているのだ。別にお客様のためではない。


 痛っ! 下唇の下から赤い珠が膨らんできた。髭剃りで切ってしまったようだ。


 肌の弱さも自分の嫌いなところだ。


 ティッシュで抑えるも中々止まらず、白い紙が赤く染まっていく。


 止血しながら準備をする。時間もないし食欲もないので昼ご飯は食べない。


 支度を終えると同時に何とか出血が止まってくれた。


 真っ赤になったティッシュをゴミ袋に投げ捨てる。狙いが逸れて入っていないがそのままにしておく。


 だって不快を覚える人間なんて、この家にいないからだ。


 トイレを済ませ、財布などを入れたカバンを肩から提げ、靴を履いて外に出ようとドアノブに手をかけたところで手を止める。


 外から誰かの足音が聞こえてきた。


 ドアの覗き窓を見ていると人が横切った。階段を登って姿が消えるのを待ってから僕はドアを開け、鍵を閉めてから誰もいない家を後にした。


 マンションを出ると、家の時とは比較にならない寒さが襲ってきた。


 一年を通してカーテンを閉めているから分からなかったが、空は曇り日の光が地上まで届いていない。


 そのせいか余計に寒く感じる。


 上着のファスナーを首元まで締め直しながら坂を下る。


 滑り止めの溝と等間隔のマンホールの坂は結構な急角度だ。


 この坂も嫌いだ。小学生の頃降り積もった雪に足を取られて思いっきり滑った事がある。


 その時は口の中を切って、鉄臭い液体を嚥下しながら小学校に向かったのを、二〇年近く経った今も覚えている。


 タイヤを擦らせながら降りてくる車がいるけれど、よく事故らないよな。


 僕だったら絶対事故を起こしてしまうだろう。


 あれは十年前だっけ。免許を取りに合宿に行って初めて車を運転した時のことだ。


 ゲームと違ってすごく動かすのが難しかった。


 前から見る視界は見辛く、ゲームだと遅く感じる二、三〇キロがとてつもなく早く感じ、クラッチペダルの重さに足が震えた。


 そして信号無視で飛び出してくる他の教習生の車。


 あの時、隣の教官がブレーキを踏んでなければ衝突していたかもしれない。


 その時の自分がブレーキを踏んでいたかいまだに思い出せないからだ。


 結局合宿も途中でやめて帰ってきてしまった。


 そもそも人見知りの僕は相部屋というのがとても嫌だった。


 知らない人間との共同生活、自分が落ち着ける場所がなくてとても息苦しかったのを覚えている。


 坂を下りた突き当たりにはゴミ捨て場があり、そこに人影がない事に安堵した。


 ここは僕も利用するのだが、カラス除けのネットがあるにもかかわらず、中に入れないで周りに置かれている事が多い。


 それを目障りに感じて、近くに住む老婆がゴミの日に掃除をしているのだ。


 掃除してくれるのはありがたいのだが、老人とは思えない鋭い目つきと、通りすがりの人に罵声を浴びせる事から、僕を含めた近所から煙たがられている。


 僕も睨まれた事が何度かあって正直苦手だ。


 だから老婆が出没する早朝ではなく、深夜にゴミを出す事にしていた。


 坂を降りてT字路を左に曲がる。


 小学校を右手に歩いていくと、僕の職場の看板が曇り空の中でも一際目立っていた。


 周辺が住宅街の中にあるスーパーで僕はそこで働いている。


 真っ直ぐ歩いて十分もしないで到着するのだが、仕事のつまらなさを考えると、短い通勤時間も苦痛に感じるものだ。


 道路工事中の交差点を通り、従業員受付の扉を開ける。


 当たり前だが外よりは暖かい。


 上着を脱いで自分の名前と今にも不満を漏らしそうな顔写真が貼られたネームカードを首から下げて受付を通る。


 出勤のスキャンをし、出勤した時間と体温を自分の名前|独毒《ドクドク脱兎ダット》の欄を見つけて書き込んでいく。


 この体温を書き込むのも変な話だ。家で測って来るとして、異常な体温ならそもそも出勤などしないだろうに。


 階段の踊り場には、まだ十二月なのに恵方巻の予約を促す紙が貼られている。


 二階にあるロッカールームで着替える。掃除担当が決められているのに、ゴミが撒き散らかされた床を歩いて自分のロッカーへ。


 人一人分の幅より小さなロッカーの鍵を開け、作業靴や制服を引っ張り出す。


 ハンガーに掛けてなかったからシワクチャな上着とエプロン、ズボンを床に置き、かわりにカバンや私服を詰め込む。


 制服の黒いズボンを履き、白の上着を着て緑のエプロンを上から着ける。


 最後に長くてボサボサな髪をネットに押し込み、帽子をかぶれば仕事姿の完成。


 服装で気持ちが変わるって言う人がいるけれど、確かにその通りだ。


 余計に仕事がしたくなくなる。


 ロッカーの鍵が閉まっている事を確認して更衣室を出て廊下を通り、食堂を抜けて階段を下に降りていく。


 降りてすぐに制服に付着しているホコリを取り、マスクを着けて体調に異常がないかチェックする表にレ点を付けていく。


 さて、作業場へ向かうとしよう。


 僕が働いているのはスーパーの寿司売場で製造などを担当している。


 スイングドアを開けて挨拶。


「おはようございます」


 自分でも聞き取りにくいほどのボソボソした声。


 朝も午後も夜でも変わらない挨拶をする。何人かの人が見えるが反応はない。


 いつもの事なので気にせずに、手を洗って中を進む。


 人がまばらなところを見ると、早番の人は休憩に行っているようだ。


 品出しをしている上司と挨拶を交わし、何をするか尋ねる。


 今日の作業は巻物の製造を任された。


 中巻きや細巻きに適切な量のシャリは専用の機械が出してくれる。


 僕は出てきたシャリの上に海苔を被せ、ひっくり返して巻きすの上に乗せる。


 そのシャリの上に冷凍庫から持ってきた具材をのせ手で巻いていく。


 巻き終えたら形を整えて置いておく。すぐ切ると海苔がパリパリでひび割れてしまうからだ。


 今は余裕があるが、忙しい時は巻いてすぐに切ってしまうこともある。


 巻物を十五本巻いたところで、海苔がシャリに馴染んできたので次の作業に取り掛かる。


 今巻いている細巻きは三本巻くと二パック作れる。十五本巻いたから十パック分だ。


 下に置いてある包材を取り出し、まな板の上に六本の巻物を並べる。


 包丁を左手に持ち、六等分に切っていく。


 切ると包丁にご飯粒が付いた。水の張ったボウルにつけて布巾で拭かないと、巻物を着るたびにベトベトになってしまう。


 けど僕はそんな事はお構いなしに切っていく。これを続けていて今まで怒られたことはない。それに時間短縮にもつながる。


 そう時間は短縮しないといけない。やる事は沢山あるんだ。


 切った巻物を包材に詰め、醤油とわさびを一袋ずつ。何故かガリだけは手作業でカップに詰めて包材の中へ。


 最後に蓋を閉めて完成。


 今作ったのは売り場にないそうなので、そのまま品出しをする。


 売り場出入り口の近くにある値付け機があって、そこに番号を打ち込むと商品名とアレルギー、そして値段とバーコードが印字されたシールが出てくる。


 それを商品に貼り付けして売り場へ。


 最近値付け間違いが多く、誰かに見てもらって確認する事になっているが、そんな事をしても間違いは起きるのでやらない。


「いらっしゃいませ」


 小さな声を出しながら、売り場に商品を出し終え作業場に戻って来ると、早番の人達が休憩から戻ってきたようだ。


 戻ってきた人に巻物を任せ、僕は売り場を見ながら少ない商品を補充してもらうように指示を出していく。


 上司は発注等の仕事があるため、ここで抜けてしまう。


 僕が指示を出しながら値付けをしていくと、いつの間にか時刻は四時を過ぎていた。


「それじゃあ、上がります。後よろしく〜」


「お疲れ様でした」


 仕事を終えた早番の人達が帰っていく。


 上司が自分の仕事を終わらせて戻ってきたので、その場をまかせて僕は休憩に行く。


 二階の食堂で定食を頼み、空いているテーブルの端を確保する。


 通路側や真ん中では人の往来が激しくて嫌なので、出来る限り窓側の席に座るようにしている。


 持ってきた携帯音楽プレーヤーのスイッチをオンにして、周りの音を遮断した。


 数回噛んだだけですぐに飲み込んでいく。食事しているところをあまり人に見られたくないからだ。


 食べ終わったら残りの時間はネットを見たり、その場で眠ったりして時間を潰す。


 戻る時間になったので作業場に戻る。時間を少しオーバーしているが、特に注意はされない。


 上司も早番の為、僕と入れ違うように帰っていった。


 時刻は午後十七時。売り場にお客さんがいる気配はするが、商品を悪くしない為に作業場は冬でも冷房が効いていて薄ら寒い。


 寒いからといってエアコンの温度を上げると注意されるので、そんな事はできない。


 従業員の体調よりもルールを厳守することが最優先だからだ。


 特に今日は一層注意が必要だ。


 誰もいなくなった作業場でするのは、製造によって生まれたゴミの片付けや明日の用意だ。


 残りの商品の品出しと売れ残りを防ぐために値下げをしながら清掃を始める。


 作業場は主に三つの製造場所がある。


 握り寿司、ちらし寿司、そして、さっき僕がいた巻物の三つだ。


 まずは握り寿司のところから。見るとメモが置いてある。明日使う本マグロの解凍数量が書いてあった。


 そのメモを邪魔にならないかつ自分が忘れないところに置いて、片付けを始めていく。


 シャリが出て来るシャリマシーンが一台と、ネタを入れる冷ケース二台を洗う。


 ケースのガラス窓と中に敷いてある人工芝を取り出し、お湯を溜めた流しに浸けていく。


 シャリマシーンの方も歯車のような中身を取り出して同じように流しへ。


 冷ケースの内側、作業テーブル、シャリマシーンをアルコールをかけた布巾で拭いて汚れを取っていく。


 取り合えたら、流しの中に浸けて置いた物を洗っていく。


 注意しなければいけないのはシャリマシーンの部品で、スポンジ等で強く擦るとシャリがくっついて調子が悪くなってしまう。


 なのでスポンジではなく先ほど使っていた布巾で汚れを取っていく。


 洗い終えたら水気を切り、元通りに組み立ててから、テーブルにホコリがつかないようにシートを敷いた。


 そこまで終えて冷凍庫から本マグロを持ってくる。


 解凍は流水を使って汚れを落としていくのだが、これが中々辛い。


 お湯を使えばマグロが駄目になってしまうので、水しか使えないのだ。


 夏ならまだしも、冬場の水は冷たいを通り越して痛かった。


 解凍を終えて冷蔵庫にしまい、残りの洗い物をする前に売り場を確認。


 閉店までに売り切るように値下げをして行かなければならない。早すぎても遅すぎても駄目なのだ。


 今日はまだ大丈夫と判断し、清掃に戻ると……。


 後ろにお供を伴った店長がニコニコしながら入ってきた。


 僕は軽く頭を下げてからゴミを捨てにいく。


 今日は週に一度店長が作業場の様子を見にくる日だった。


 汚れているところや、きちんと整理整頓出来ているか見にくるのだが、僕としては迷惑もいいところだ。


 見ている間は、どうしてもこちらの作業が中断されるし、ちょっとした汚れを見つけると嬉しそうに指摘してくる。


 まるで人の欠点を見つけることに快感を覚えているみたい。


 何かしら不備があれば写真を撮って上司に改善を求めているが、滅多にやろうとしないので上司も言う事聞く気はないのかもしれない。


 取り敢えず話しかけられないために僕はその場から離れる。


 一度捕まって、余計な仕事をさせられた事がある。それだったら作業場の外で残っている仕事を済ませてしまおう。


 一度目のゴミ捨てから戻ってみると中には誰もいなかった。


 どうやら別の場所に行ったようだ。


 万が一戻ってこられては嫌なので、寿司作業場の掃除を終わらせる前に、他の場所を終わらせることにした。


 やってきたのは惣菜作業場だ。ここには炊いたご飯を酢と混ぜ合わせる酢合わせマシーンがある。


 何故惣菜作業場にあるかと言うと、昔寿司は惣菜の部門だったからだ。今は鮮魚部門である。


 何でも鮮魚の赤字を解消するために移動したのだが、鮮魚の業績は変わらず真っ赤だと聞いた。


 黒字にしようとする気持ちは誰も持っていない。少なくとも僕は持っていない。


 分解した酢合わせマシーンの部品と、寿司で使っている炊飯器二つを水につける。


 炊飯器もマシーンの部品も大きく重い。今は慣れてきて入るけれども中々一人でやるのは辛いところがあった。


 炊飯器を洗っている間に、明日のお米の洗米をしないといけない。


 黄色い桶を六つ冷蔵庫から持ってくる。一つの桶に四キロ分のお米がはいる。


 合計で二四キロ。


 全部手洗いしたら終わらないが、幸いな事に洗米機があるので四キロずつ入れて洗米していく。


 スイッチを入れると、水と米が一緒になってぐるぐると周りながら洗われていた。


 綺麗にした桶に洗米したお米を入れる。その作業を六回繰り返して終わりだ。


 水とお米で重くなった六つの桶を冷蔵庫にしまったら、残していた酢合わせマシーンを洗う。


 炊いたご飯が入る容器が大きくて流しに入らないので、ホースでくっついたお米を洗い流す。


 取りこぼしたお米がないか確認して、大丈夫だったら布巾で拭いて水気を切ってから組み立てる。


 炊飯器と酢合わせマシーンが終わったら床をホースで流し、最後に生ゴミを捨てる。


 流しの排水口には弁当が残したと思われる生ゴミがそのままだった。


 何故こちらが捨てねばならないのか。自分達で捨てればいいのに。


 そんなやり場の無い怒りを抱いたまま、惣菜作業場を後にした。

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