第59話 主役は見た目も大事

「最後の計画って何なの?」


 帰りの急行列車の中で、グリフィアが訊ねる。あの時初めて語った話なので知らないのは当然だ。


「特急列車を走らせようと思ってな」

「とっきゅう?」

「今乗ってる急行列車より、さらに豪華で速い列車だよ」


 特急列車、正確に言えば特別急行列車。今でこそ全国津々浦々走っており、特別という名も廃れるのではというほど大衆化している。日本におけるその前身は、1906年に誕生した急行より上位の列車、最急行というものだった。

 新橋~神戸間に設定されたこの列車は運賃以外に初めて速達サービスとしての料金を収受する列車として、現在の特急の元祖と言われている。


 それから6年後の1912年、最急行は特別急行と名を改め、運転区間も新橋から下関へと延長した。

 この時の特急は下関~釜山間の鉄道連絡船、そしてその先の南満州鉄道やシベリア鉄道と連絡してヨーロッパへと至る国際連絡運輸の一翼を担っていたという。


 当然客車も特別仕様のものが用いられ国威の誇示も兼ねたこの列車は、1914年の第一次世界大戦や1917年のロシア革命と共に連絡運輸が終了する短い間だったが、国際連絡に大活躍したのだという。


 その後も特急は高嶺の花として運行され、準急や急行よりさらに豪華な列車として長い間運行され続けていく。ビジネス特急や短距離特急が隆盛になってくるのは、急行がほぼ完全に無くなった現代からだ。


「でもこれ以上豪華ってどうするの? 今の急行列車だって食堂車もあって展望車もあって、私からすればこれ以上ないぐらい豪華だと思うけどな」

「まぁな。俺のいた世界の急行列車でも、展望車は無かったけど食堂車はあったし。という訳で、まずは見た目から変えようと思うんだ」

「見た目?」


 今の鉄道は、まさに古き良き国鉄幹線と言った趣だ。黒い蒸気機関車が雑多に連結された茶色の客車を牽引して走っている。現代日本ではとっくにノスタルジーの域で各地のイベント列車ぐらいでしか見れない風景だが、ここでは日常風景となりつつあるのだ。


 昔の国鉄の列車に色は無かった。正確に言えば、黒と茶色ばかりだった。

 長距離客車列車は言わずもがな、東京や大阪の国電区間でも走っている電車は、ジュラ電などのごく一部を除いて茶色ばかりだったのだ。なんなら私鉄の列車の方がはるかにカラフルだったと言える。


 そこに革命を起こしたのが、1957年に登場したモハ90系電車、101系電車である。

 東京の中央線に導入されたその車両は国鉄として力を入れた新性能電車であり、車体は鮮やかなオレンジに塗られたのだ。


 そしてその翌年に登場したのが、初の固定編成を前提とした特急型客車、20系客車である。

 外観はこれまでの無骨な箱型ではなく、屋根や両端に丸みを持たせたデザイン。編成を通しても統一感のある外観だ。色は青地にクリーム色の帯を3本。これはその後の客車にも受け継がれ、現在の「ブルートレイン」の言葉の元ともなった。


 ちなみに日本が関わっているという点では、戦前の中国大陸を走った南満州鉄道の特急あじあ号も似たような思想である。


「一体感って言うのかな。こういう雑多な感じじゃなくて、もっと洗練された見た目にしたいわけさ」

「うーんわかるようなわからないような…」


 口で言ってもこんな感じだ。という訳で帰ったら早速草案を練ろうじゃないか。


 *


「機関車までいじるのはナシでお願いします」

「なんでさ、その方がカッコいいだろ?」


 アグロに草案を出して実現可能か相談したところ、お返しに来たのが既存の機関車に一体感を出すカバーを取り付けようという案だった。


 確かに編成全体の見た目から言えば、機関車も同じように統一した方が見た目はいい。だがそれに伴って生じる影響というものもある。


「こういうものを付けると、機関室が蒸されちゃうんですよ。ボイラーの熱気の逃げる場所が無くて」

「あぁ…確かにな。それは盲点だった」


 日本では戦前に、流線形ブームというものがあった。そのブームの中で誕生した機関車の中に、C53形蒸気機関車43号機というものがある。既存の蒸気機関車に流線形の覆いを付け、流行りの最先端を行った機関車だ。


 これがお客様から大変好評だったらしく、その後に作られたC55形のうち21両も流線形で作られた。これらは各地の急行列車や当時の花形特急である「燕」などを牽引し人気を博したという。


 そう、お客様に人気だったのだ。

 まず整備、これが非常に大変だ。まず覆いを外さなければならず、それだけで時間がかかり点検に通常の1.8倍の時間を要したという。

 更に悲惨なのは現場で、熱がこもり夏ともなれば走るサウナ状態。石炭のかき寄せもうまく行かず、交換駅での通票の取扱いにも難儀したそうだ。


 もっと言えば当時の国鉄特急の運転速度はせいぜい100km/hで、流線形にしたところで空気抵抗低減の効果は薄い。


 要は見た目だけ良くて、性能は特筆するものは無い。なんなら現場ウケが非常に悪い、とんだ嫌われものだったようだ。


 結局整備が面倒すぎるのと時局が戦争へと進むに従って流線型のカバーは無くなり、全ての車両が通常の形へと戻ったのだという。


「なので機関車はいじらなくても大丈夫です。とにかく、客車で勝負しましょう」

「わかった。しかしこの客車デザインも斬新だな、丸みを帯びてて作るのは大変そうだが…」

「すみません、いつもいつも無茶を聞いてもらって」

「なに、今更なんて事ないわい」


 ガハハと笑うアグロにホッとしつつ、確かに作るのは難しいだろうなぁと自分で描いた青写真を見てみる。


 参考にしたのは20系客車と、南満州鉄道の特急あじあ号だ。どちらも丸みを帯びた車体で、編成全体で統一感がある。


 車内も大分こだわった。10両編成で当然冷暖房完備、窓は開閉不可とする代わりに広めに取った。

 展望車を無くし、代わりに座席部分を一段上げて普通の座席からの眺望にも配慮する。特急ワイドビューひだやワイドビュー南紀で使われるJR東海のキハ85系で採用された方法だ。


 食堂車を除いて、客室になるのは8.5両分。リフテラート方の先頭の半室は荷物・郵便スペースである。当然ここで運ぶ荷物には速達料金を取る。

 その食堂車も、グリフィアとミアナ、そして専門の料理人が腕をかけて開発した新メニューで臨むつもりだ。


 客車は普通車3.5両と特別車が5両。編成で特別車の方が多いのは、名門特急たる証だ。多分。

 実際国鉄初の特急である「燕」や、20系客車のデビュー列車である「あさかぜ」などは、編成の半分が今で言うグリーン車だったというのだからきっとそうだ。


 座席は転換クロスシートから普通のクロスシートへ、そして簡易型ながら全ての車両でリクライニングシートも導入した。実はリクライニングシート自体、日本で初めて導入されたのは戦後にGHQの指示により作ったのが最初である。


 他にも急行列車との差を付けるという意味で、各車両に専属のアテンダントを付けたり、特別車には書庫を設けたりもした。


 今でこそ東北・北陸新幹線などに連結されるグランクラスには専属のアテンダントが乗ったりしているが、その走りとなったのが昭和35年まで運行されていた国鉄の2大特急「つばめ」「はと」に乗務したアテンダントだ。

 それぞれ「つばめガール」「はとガール」と呼ばれ、列車専属の給仕として親しまれた他、あこがれの職業にもなったという。


 また列車の書庫も、これらの特急の最後尾に連結された展望車に用意されていたそうだ。とは言っても国鉄のそれは難しい本ばかりで、乗客は皆が駅で買った大衆雑誌などを読んでいたそうだが。


「これまでの急行列車とは一線を画すと、そういうわけだな?」

「はい。なので特急用客車は、高級志向でお願いします」

「あいわかった。王宮にも引けを取らないぐらい、美しいものにしてやろうじゃないの!」


 アグロに直接仕事を頼むのも、恐らくこれが最後だろう。手をひらひらさせて帰路につく職人ドワーフの背中を、ラエルスはずっと追っていた。


 ――――――――――


 ジュラ電とは"ジュラルミン電車"の略で、飛行機の素材として使われていたジュラルミンが戦後になって大量に余り、それを鉄道に転用した試験車の事です。


 銀色に緑のライン、そして蛍光灯が試験導入され注目を集めましたが、現在の京浜東北線の赤羽~蒲田間を1日2往復するのみで、やがて腐食が進み数年で普通鋼外板の車体に改造されたようです。

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