差し出される台本と社交辞令。

@blanetnoir



昔は絶望していた 「所詮は他人」 という


心の置きどころがない息苦しい世界を、


今は 「そうだよな、」 と思うようになれた。




慣れてはいないし、


諦めた訳でもない、けれど




私自身が、誰かに 「他人」 の顔して


すれ違って立ち去る行いを経験したから。




人と人の繋がりは、


やもすると『世界の中心は私物語』になりがちな未成年期に、物語を演じようとして台本を周りに配り歩いても


受け取られない拒絶を目の当たりにして

はじめて、

世界の中心ではないらしいことに気づく。




そしてふいに人から台本を差し出された時、



「は?」 と



乾いた音を漏らした瞬間に、


こんな要求を私も無意識に周りへしていたのかと、ひとり立ち尽くして赤面する。




つまり世界の構造は物語のような『中央集中』でなく『ブロックチェーン』型だと気づき、



人の繋がりは持ちつ持たれつ、



出会う人と社交辞令の挨拶を繰り返しながら、

その中でキラリと光る眼差しを私に向ける人を見つけ出すスキルが大切なんだと感じた。




そうして、丁寧なコミュニケーションを繰り返すことで

コミュニケーションを通して仲を深められる

愛すべき人そして愛してくれる人と

そうでない社交辞令しか持たない人を見抜くセンサーが働くようになった。




それでも基本( 愛されたい、優しい人を信じたい )私は、ふいに投げられる気遣いや調子を心配する言葉がうれしくて、胸の内を明かしたくなる緩みができる。




それでも当たり障りのない言葉を返したあと、ふいに手元に届く誤爆LINEの破壊力は小一時間笑いが止まらないレベルで、




私の掌に握られたiPhoneの画面に映し出される、誰かへ送るつもりだった私のさぐり報告の冷ややかさに、

( あー、 )

と、ため息をついた。



そして( まぁ、そうだよな )という気持ちが

どこかにあったことにも気付く。





このセンサーは、気をつけなければならない感情は相手よりも自分にあることに気付かされる。



結局、

愛されはしたいけど

愛してない人だったということを、

痛みを与えられないと気づけないという

己の鈍感さ。




私だってお互い様なのだ、

その人を愛していなかった。





それでもその痛みを飲み込めるのは、

今の私は大切な人のあたたかさが傍にあるから。




その温もりを知らなければ、どうしても社会は残酷なまでにつめたい。






無愛に気づかず愛を求める浅はかさを、

喉の奥にのみこんで

「そういう人もいるさ。」

そう言う許しも必要だと思うことにした。

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