第46話 燕雀安んぞ鴻鵠の悩みを知らんや
「……なんで、西園寺の誘いを断らなかったんだ……?」
もしかしたら。
もしかしたらこの質問は彼女にとって非常に残酷なものかもしれない。彼女が西園寺と付き合いを続けていた理由が幼少期のトラウマによるものならば、この質問は徒に彼女に過去を思い出させることにしかならないのだから。
だが、俺にはそれが理由だとは思えなかった。
それはつい先ほど櫻井が西園寺に向けていた視線に、恐怖の色よりも決意の色の方が濃く表れていたように感じられたからだ。西園寺に対して恐れを抱いていたのなら、あんな表情はできないだろう。
それに普段の様子を見ていても、彼女は何かにびくびく怯えるようなタイプには思えない。相手が女性でありさえすれば、言いたいことをきちんと言える人間であったはずだ。それすらももちろん、中学に入ってから彼女が積み上げた努力によるものではあるのだけど。
だからこそ、そんな彼女が西園寺の誘いを断っていないことが不思議で仕方が無かった。状況的にノーを宣言することはそれほど難しいことではないはず。何か他の理由があるとしか思えない。
それでも俺はこの質問を躊躇った。
それは俺が、先ほどココアを渡した時に触れた指先の冷たさを、か細さを、忘れたわけではなかったからだ。この質問は何か踏んではいけないものを踏んでしまいそうな予感がして、なかなか踏ん切りをつけられなかった。
だが俺の心配をよそに、櫻井の返答は意外にもケロリとしたものだった。
「別に二度目のいじめを怖がっていたとか、そういうことではないですよ? 私が誘いを受け続けたのは、断らなかったからじゃなくて断れなかったからです」
「断れなかった?」
「ええ」
小さく息を吐き、櫻井はココアの缶をベンチにコトリと置いた。
「社長なんですよね、私のお父さん」
「それは知ってるけど……それが?」
いまいち繋がりが見えない。
「西園寺さんの所の会社は、うちの会社の重要な取引先なんです」
その言葉で俺は全てを察した。なるほど。そりゃ断れんわ。
「しかも困ったことに、西園寺家の会社のほうがよっぽど規模が大きいんですよ。うちなんてそれに比べれば零細ですよ、零細」
空を見上げながら困ったように笑う櫻井。
相手が大企業の社長令嬢で、しかもその大企業は父親の会社の取引先。自分の振る舞い次第では父親や社員に迷惑がかかるかもしれない状況だ。
あー、お互い様、の意味がようやくわかった。西園寺の会社へのダメージは櫻井の会社にもそのまま波及するのだ。
賢い彼女は、何事にも自分自身が耐えることが最適解であることをすぐに理解したのだろう。櫻井は社長令嬢であるがために自分に求められるものの大きさを知っていたのだ。
だからこそ、さっき俺が西園寺を脅した時、彼女は俺の事を止めたのだろう。西園寺の背負っているものが自分と同じようで、それでいて自分より重いものであると分かっていたから。
うわー。そう考えると西園寺にもなんだか申し訳ないことしちゃったな。いくら怒髪が天に向かって逆バンジーしていたからといって、言っちゃいけない言葉だったかもしれない。ドブネズミ呼ばわりしたこと許すからそれでおあいこってことでよろしく、西園寺。
まあしょうがない。世の中には似た境遇にいないと気がつけない思いというものが往々にしてあるのだ。そういう意味では、櫻井と西園寺は似た者同士なのかもしれないな。性格は真逆だけど。
「社長令嬢ってのも大変なんだな」
そう呟くと、櫻井はこちらを向いて微笑む。
「そりゃもう大変ですよ。言動には気を払わなきゃいけないし、年末年始とか挨拶回りで全然ゆっくりできないし」
でも、と彼女は続ける。
「今私がこうして何の不自由も無く暮らせているのは、社員の皆さんのおかげですから。大変だけど苦しくはないですよ」
そう言ってニッコリと笑う櫻井。その笑顔は、この言葉が嘘でも強がりでもなく、彼女の心からの本音なのだと俺に確信させた。
「じゃあ西園寺の家のパーティーに行ったのも、会社どうしの付き合いの一環としてだったのか?」
「そういうことになりますね。中学生の頃は、いじめの件もまだほとぼりが冷めていない頃でしたし、行かなくても良いって両親が言ってくれていたんですけど……。なんだか申し訳ない気がして、今年は行くことにしたんです」
「申し訳ない?」
櫻井はこくりと頷く。
「お金持ちのパーティーなんて基本大人の男性しか来ていませんからね。やっぱり現役JKがいると場が華やぐんですよ」
そう言われて、俺はその場を想像してみる。なるほど確かに、櫻井がいるとそれだけで光の粒が会場に舞いそうな気がする。まあそれは櫻井が女子高生だからだというよりも、彼女が美少女だからこそのような気はするけど。
「ということは裏を返せば、私が出席しないことで空気が寂しくなるんですよ。少し自惚れかもしれませんけれど」
「全然自惚れなんかじゃないと思うぞ。櫻井のいないパーティーなんて電気が通ってないゲーセンみたいなもんだから。行く意味なくなるレベルだから」
美少女を拝めるわけでもないのに、なぜわざわざ男どもと顔を突き合せにゃならんのだ。俺なら絶対欠席するね。
「そう言ってもらえるとなんだか嬉しいです。けれどそうなると、私が参加しないことでお父さんに迷惑が掛かってしまうんですよ。娘はどうしたんだ、って」
確かにそういうこともあるかもしれない。俺が招待客の立場だったら、絶対櫻井のお父さんに詰め寄っていくだろうし。
「実際、私が中学生の頃は、父も周りに何か言われていたんじゃないですかね。訊いても教えてくれないだろうから敢えて訊いたことはないですけど、恐らく何かしらの面倒には巻き込まれていると思います」
「たぶんその通りだろうな」
だってここに一人、そのトラブルを起こすことを宣言しちゃってる人間がいるんだもん。世の男の代弁者と称されるこの俺がそうなってしまうのだから、男性諸君が皆同じことを考えていても不思議はない。
というのはもちろん冗談だが、櫻井のお父さんがトラブルに巻き込まれていたという予想は的を外れたものではないだろう。セレブのパーティーには出会いの場という側面もあるようだし、若い男が自分の嫁候補を探しに来ていても不思議はない。櫻井の存在が既に知られたものになっているなら、櫻井の不在がその男達をどのような行動に導くかは容易に想像できる。
「だから今年は行くだけ行ってみようと思って。参加さえすればとりあえずはお父さんに迷惑をかけることもなくなるでしょうし。……まあでも、結果的にあんなことになるなら行かない方が良かったのかもしれませんけどね」
そう言って苦笑しながら、櫻井は再びココアに手を伸ばした。
本当に、つくづく優しい家族だと思う。
両親は娘の幸せを心から願い、娘もまた家族のためときに自分の気持ちをも殺す。家族として互いの幸福を望むのならば、それはただの〝あるべき姿〟なのかもしれない。けれどこれは決して〝あたりまえ〟じゃない。そんなに簡単にたどり着ける境地ではない。……どこかの社長令嬢に爪の垢でも煎じて飲ませたいもんだな、まったく。
ベンチの脇に咲くタンポポの綿毛が、夜風でふわりと空へ舞う。
だいぶ謎も解けてきた。櫻井のここ数日の動向について知れたことで、俺としても胸を撫で下ろす気分だ。とりあえず怪我とかしていないからな。本当、大事じゃなくて良かった。
櫻井の悩みの種であった西園寺も一応吹き飛ばすことはできたし。これからどうなるかはわからないが、今の櫻井ならきっともう大丈夫だろう。ヒーローの手を借りずとも自分で前に進めるはずだ。
そんなどこか根拠に乏しい安心感に肩までどっぷりと浸かりながらも、俺には一つだけすっきりしていないことがあった。
「なあ、櫻井」
「はい?」
もうだいぶ冷めているはずのココアの缶を萌え袖で握る櫻井に問いかける。
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