第45話 ココア、あるいは潤滑油

 近くにあった自販機で温かいココアを二本買って戻ると、櫻井はだいぶいつもの調子を取り戻しているようだった。


「あ、ありがとうございます」


 ぐいと差し出したスチール缶に伸ばされる手には多少の遠慮が見えるものの、櫻井は素直にココアを受け取った。手渡す瞬間に指先が触れたが、その時に「うわっ」とか言いなが手を引っ込められたりしていたら、一生消えないトラウマになってましたね、はい。


 プルタブを起こし、プシュコンという心地良い音を響かせる。そのまま甘く熱い液体を喉に流し込み、それを呼び水にして俺はいくつかの質問を喉から汲みあげた。


「なあ、櫻井」

「はい?」

 こちらを向いた彼女は、ココアの缶を両手で大事そうに包みながら暖を取っている。


「教えてくれないか。この数週間に何があったのか。もちろん、言える範囲で構わないから」


 やはり聞かずにはいられない。電車では聞き切れなかった話を、携帯では受け止め切れなかった思いを。その断片を目にした今こそ、俺は知るべきなのだ。


 櫻井からの返事はない。相変わらず丸っこい缶を握りしめたままだ。

 風が何度か通り過ぎた。

 普段は日の出ているときしか外に出ていないから意識したことが無かったが、五月がまだ夏ではないことが身をもって感じられる。二人の間を滑っていく空気がなんとなく冷たいせいだろう。


 待つことしかできない。俺にはそれしか許されていない。

 だってそうだろう? 今まで知ろうともしなかったくせに、全てが終わってから知ろうとするなんて。

 そんなことを思っていると、櫻井の口は唐突に開かれた。


「……実を言うと、ここ数週間はいじめなんて全くなかったんです」


 そしてそれは、とても意外な一言だった。


「え?」

「最近は西園寺さん達に誘われて色々と遊びに行っていただけですよ」

「ちょっと待てちょっと待て‼」


 じゃああの悲痛な表情は何だったんだ⁉ 電車での話の意味は⁉

 そんな俺の言葉を先読みしながら、櫻井は続ける。


「あ、もちろん私も好きで一緒に過ごしていたわけではないですよ。私からすれば、かつてのいじめっ子たちと時間を共にしなければならないわけですから。いじめが無かったというのは、あくまで肉体的なダメージは与えられていなかったという事です」

 それなら良かった、とでも言うべきなのかどうなのか。相槌を打ちかね、俺は次の質問の引き金を引いた。


「遊びに行っていたってのは?」

「そのままの意味です。町に出たりこうやって公園で過ごしたり……。立食パーティーの時に連絡先を交換して以来、西園寺さんから頻繁にお誘いが来るようになったので」

「そこで何か嫌なことをされたりとかは?」

「特には無かったですよ。まあさすがにしつこいから最近は辟易していましたけど」


 いよいよわからなくなってきた。一体西園寺はなぜ櫻井としきりにコンタクトをとろうとしたのだろうか。今までの話を聞く限り、どうやら櫻井をいびることが目的ではなさそうだが……。


「そういえば、なんであいつは茜高校なんかに来たんだ? それも櫻井との遊びの一部だったのか?」

「あー、あれは『あなたの通っている庶民のみすぼらしい学校を見てみたい』って言われたから連れて行ったんです。平日に行くと放課後に残っている生徒から変に思われるかもしれないから、わざわざ休日に集まって」


 誕生日に俺が目撃したのは、やはりその光景だったらしい。

 だが、櫻井の答えを聞いても、西園寺達の行動原理がいまいちピンと来ない。庶民の学校を見てみたいという事だったが、さっき西園寺達と話した感触だと、それが純粋な好奇心によるものだとは思えなかった。

 かといって他に何か意図を汲み取れるような理由でもなく、本当に何がしたかったのかさっぱりだ。


「学校を見て西園寺達はなんて言っていたんだ?」

 そう問うと、櫻井は苦笑する。

「汚いとは言っていましたね。今にも崩れそうで見ていて恐ろしいとも。本当に大丈夫なのかってしきりに心配していましたよ」

「やっぱ、お嬢様にはあんな建築基準法すれすれの建物は珍しいのかな」

「ふふっ、そうかもですね」


 櫻井はようやく楽しげに笑ってくれた。どうやら先ほどまでの緊張も少しずつ融解しているらしい。


「それで? 結局そんなことをしながらここ数週間の放課後を過ごしていたのか?」

「まあ、虹と帰らなかった日は基本的にそうですね」

「かなり辛かったんじゃないか?」

「辛いというか……んー……なんていうか、どちらかというと恐怖とか不安に近い気持ちでしたね。西園寺さん達の意図がつかめなかったから。ただそれだけが少し不気味でした」


 そう言うと、櫻井はようやくココアに口をつけた。缶を握る手が微妙に震えているように見えるのは気のせいなのだろうか。


 俺も一口ココアを飲む。夏場の水道水のような中途半端な温さが喉を伝っていく。


 息を吐くついでに、俺は残しておいた疑問を取り出す。


「……なんで、西園寺の誘いを断らなかったんだ……?」

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