第40話 この間
この間。
たった一つの言葉だが、それは時に幅広い意味を持つ。
俺は「この間」誕生日を迎えたばかりだし、なんなら高校二年生になったのも「この間」だ。今までの人生を振り返れば櫻井と出会ったのもつい「この間」の気がするし、両親から見れば俺が生まれてきたのも「この間」の出来事だろう。
俺は脳内日記のページを前にめくる。
俺にとっての「この間」の出来事。高級住宅街での迷子、親友とともに揺られる電車、ふわりと広がるさくらんぼの香り、ゴンドラと柔らかな感触、バターの匂いと山盛りのパン……。
「パン屋……」
日記をめくる手はここで止まった。何かひっかかりを覚えた気がしたのだ。
「パン屋……?」
なんだなんだ。あの時何が起こった? 印象に残っているのは、物理的に不可能なパンの早食いだが……。違う、そこじゃない。もっと大事な何かがあの日、あの空間にあったんだ。
えーっと、パンを食べ終わった後かな。確かあの時俺はコーヒーをすすって、虹はオレンジジュースを飲んでいて……そうだオレンジジュースだ。虹がそれを運んできた時、あいつは顔を曇らせていた。何故? 俺が虹を見向きもせず窓の外に目をやっていたからだ。どうして俺は外なんか見ていた? 何かが窓の外にあったからだ。じゃあ何が――――。
いた。
俺の心にくさびを打ち込むほどの憂いを帯びた瞳をした櫻井の姿が、そこにはあった。
「……思い出した……」
ししおどしのように、すとんと言葉がこぼれた。固まったままだった場の空気が一気に俺に流れ込む。
そうだ。そういえばあの日、櫻井は白椿の生徒といたはずだ。白い制服とあの街のミスマッチ感から、強烈な違和を感じた記憶があるから間違いない。
「なあ、櫻井……。お前らの言ってる〝この間〟ってさ……」
西園寺達が茜高校を訪れたとすれば、俺がパン屋で櫻井を目撃した日、つまり俺の誕生日であった可能性が高いだろう。
まず第一に、あの街に複数回出向くようなメリットが無い。一応都内だからそれなりに娯楽施設はあるものの、あの街は基本的にはしがない住宅街だ。お嬢様達がそう何度も訪れるような場所ではない。
第二に、あの日の櫻井の表情だ。あの時は旧友がなかなかやってこないことに対する不安の表情だと勝手に結論づけていたが、過去のいじめの事実を知った今、あの暗い顔は別な意味を持ってくる。きっとあれは、かつてのいじめっ子、つまり西園寺達に会わなければならないという恐怖を伴った感情だったのだろう。そう捉えれば、最後の一瞬に浮かんだ憂いにも説明がつく。
ではあの日、なぜ櫻井や白椿の奴らは俺たちの街に来ていたのか。俺がドブネズミなら、あの街はさながら排水溝のようなものだ。そんなところにお嬢様方がわけもなく足を運んでくるとは思えない。何か明確な目的があったはずだ。
だが、今のところ解っているのは西園寺達が茜高校を見たという小さな事実だけ。それがあの日の彼女たちの目的だったのか、それとも本当に偶然に目にしただけなのか。いずれの場合にせよ、西園寺が櫻井と行動を共にした理由ははっきりとはわからない。
もう直接訊くしかないだろう。西園寺の嘘に対する証拠を手にした今、俺は遠慮なく彼女の嘘を追及することが出来る。ここからは俺のターンだ。ドロー!
「西園寺さん。どうして嘘を吐いたんですか」
俺は静かに問う。櫻井と再会したのが今日のことだと言い切ったところも含め、俺は彼女の言動の理由が知りたかった。何が櫻井を苦しめ、何が西園寺達にそうさせたのか。全てが知りたかった。
「あの日、五月十日の土曜日、あなたは既に櫻井と再会していたはずだ。しかもあなたがオンボロ扱いするようなあの汚らわしい街で。現に俺はそれを目撃している。誤魔化しは効かない。今まで嘘をついていた理由も、櫻井と何をしていたのかも、全部話してくれ」
それは愛すべき親友のため――だけではなく、俺自身に対するためでもある。過去を遡れば遡るほど、いち早く気づいてあげられなかった自分の愚かさに苛立ちが募ってしまうから。
静かな視線が西園寺に吸い込まれていく。先ほどから不気味なほど微動だにしていなかった取り巻きの二人も、僅かに不安げな表情を彼女に向けていた。
だが、いつまでも西園寺は話し出そうとしない。彼女のスカートの裾だけがただゆらゆらと揺れる。
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