第39話 夕闇の化かし合い
「まるで本物を見たことがあるような口ぶりでしたけど――?」
「そ、それは以前たまたま目にしたことがあるだけで……」
「なるほど……。あなたのような高貴なお方がたまたま、あんな汚い学校においでなさったと。奇妙な偶然もあるものですね」
そう。
俺がこの街に不釣り合いなら、西園寺もまた俺の住む街には似つかわしくないのだ。白椿以外の学校の存在を知らないやつさえいるようなこの天上界じみた世界で、下界のしがない公立高校のいでたちを知っている人間はそういないだろう。率直に言って違和感を抱かざるをえない。
その数少ない人間である櫻井を見やると、どうやら彼女はこの件に関してだんまりを決め込むつもりらしい。膝の上に握った拳を見つめたままだ。援護射撃は望めそうもない。
ならば俺自身の手で探るしかあるまい。西園寺が茜高校を見るに至った経緯を。
俺の最後の発言の後、夕暮れの公園には静謐な空間が漂っていた。ぐっと唇を噛んだような西園寺の姿が、街灯に照らされたままこちらを向いている。どうやらこちらも沈黙を貫くつもりのようだ。
まあいい。それならこちらから動こう。受動的に何かを得られないなら能動的に引っ張り出す。ここ最近の俺の行動原理を今回も当てはめればいいだけだ。なんら難しいことはない。
「ところで、西園寺さんがうちの学校を目にしたのってだいぶ前ですよね?」
「……? どういうことかしら?」
「だって茜高校は十年前に改修工事したばっかりですもん。今はめちゃくちゃ綺麗ですよ」
「……へ?」
西園寺は今までの会話で初めて気の抜けたような声を出した。
「へ? じゃないですよ。いやー、十年以上前のことまで覚えているなんて。やっぱり白椿みたいな優秀な学校に通っている人は記憶力もずば抜けてるんだなぁ」
俺はしみじみと頷く。俺なら十年も前のことなんて忘れちゃうね。なんなら今日受けてきた授業の内容だって忘れてしまうな。そのうち鶏レベルになってるはずだから楽しみにしとけよな。……で? 俺は何言おうとしたんだっけ?
俺が一人で記憶障害に陥っている間、西園寺は櫻井に何やら問い詰めていた。
「……ちょっと! 改修したってどういうことですの⁉ じゃあこの間のは……!」
「し、知らないです! でもこの前は確かに……」
この間? この間ってどういうことだ。西園寺が茜高校を訪れたのは、ごく最近の出来事なのか。しかも櫻井と一緒に? いったい何のために?
というかそもそも櫻井はいじめられているはずだ。だが、いじめっ子がいじめられっ子の学校にわざわざ足を運ぶ理由がまるで見当たらない。それもいじめの一環だとでも言うのだろうか。
俺は他人をいじめたことも無ければ、いじめられたことも無いからよくわからないのだが、「いじめ」というのは何かしら、こう、嫌がらせみたいなことをするもんじゃないのか? 肉体的・精神的にダメージを与えていくものだと思っていたが……。
学校に行くことが精神的ダメージだということは……もしや櫻井は自分の母校に行くのが辛いのか? もしそうなら原因は絶対チャイムマンだ。……次会ったらストーカー容疑で刑務所にぶち込んでやる。
いやしかし、櫻井が学校にストレスを感じているとは考えづらい。これでも数年間、時間を共に過ごしてきたんだ。彼女が教室で見せるあの無邪気な笑みを、楽しげな声を、俺は嘘だなんて言わせない。
まあいい。長い自問自答のせいで、もう目の前の櫻井が困り始めている。そろそろ種明かしをせねばなるまい。
「ま、全部嘘なんですけどね」
「……ふぇ?」
西園寺は本日二度目の間抜け声を発した。お前はそういう毒気が抜かれた表情の方が可愛いと思うぞ。
「改修されたって話は嘘。今もうちの高校はボロいままですよ。壁ははがれてるし、階段は軋むし、立て付けの悪い窓は風でガタガタ揺れるし。あ、でも隙間風は無いですね。もう隙間っていうレベルじゃないんで」
俺は軽口をたたく。ポカンと口を開けていた西園寺もようやく事態が飲み込めてきたらしい。
「ほら! やっぱりオンボロ学校じゃありませんの! だいたいその身なりを一目見ればそんなことは自明の理ですわよ!」
「いやーどうもすみませんね。ドブネズミのちょっとした戯れですよ」
場の緊張が一気に弛緩した。西園寺の追及を逃れた櫻井も、ホッと胸をなでおろしている。
「それで? 〝この間の〟って何ですか?」
再び空気が張り詰める。夕闇が一歩一歩進んでくる世界には、ぴりつくような冷たい風が吹き始めていた。
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