第13話 春のパン祭(ソロ)
途端、甘く柔らかなバターの薫りが身体中を包み込んだ。きっと誰もが一度はその幸福を味わったことがあるであろう、あのパン屋さん特有の幸せの匂いがこの店ではひと際強く感じられた。
お客さんで活気のある店内に色とりどりのパンの数々。焼けた小麦の香ばしさと目にも美しいその姿に、食欲がそそられてやまない。
「わ~、いい匂~い!」
虹のこの店に対する第一印象もどうやら俺と似たようなものらしい。すうっと息を吸ったかと思うと、その香しさに満足したのか、ご満悦の表情を浮かべた。
すると虹は早速トングとトレイに手を伸ばす。その動きの疾きことはまさに風の如し。……朝起きるときもこのぐらい機敏に動いてくれたらなあ。
「龍羽もクロワッサンでいい?」
「ん? ああ、この店のイチオシはクロワッサンらしいしな。うん、俺もそれでいいよ」
「らじゃー。他には?」
そう俺に問いかけつつも、虹の持つトングは次々とパンを捕まえていく。
「あ、いや、俺は朝ご飯食べてるし、一個で十分だよ……」
というより正直に言うと、山盛りになったそのパンを奢らされることが恐ろしい。ここのパン一個あたりいくらすると思ってんだよ……。
そんな不安を抱きつつ、虹の後ろを黙ってついていくと、丁度トレイが一つ埋まった辺りで、レジにたどり着いた。
「いらっしゃいませー。……お持ち帰りでよろしかったでしょうか」
「いえ、ここで食べまーす」
エプロンの似合う可愛らしい店員さんが、驚きのあまりぎょっと目を見開いた。……そらそうなるわな。誰もこの量を二人で食べ切るなんて思わんて。
「か、かしこまりました。お飲み物のほうはいかがですか?」
「ん~……龍羽、何か飲む?」
「あ、じゃあアイスコーヒーを一つ」
「わたしはオレンジジュースで」
「かしこまりました。えーと、では合計で――」
ああ聞きたくない聞きたくない! その値段を聞いてしまったら俺はきっと財布を開けなくなってしまう!
そう思って俺が金額を聞く前に財布から札を取り出してしまおうとすると、しかしその手は先ほどまで俺と繋がっていた優しい左手に遮られた。
「いいよ、ここはわたしが払うから」
「いや、でもお前……」
「そもそも、これほとんどわたしが食べる分だし。それをデートだからって龍羽に払わせるのは何か違くない?」
店員さんが再びぎょっとする。この量を食べるのが女の方だとは思っていなかったからだろう。そのお気持ち、ん~お察しします。
ただ虹がほぼ食べるとはいえ、全額奢られるのもきまりが悪い。
「じゃあ、せめて俺が食べる分だけでも――」
「良いの良いの! この間アイス奢ってくれたでしょ? それのお返し」
それに、といって虹は恥ずかしそうに小さく俯く。
「今日、龍羽の誕生日でせっかくのデートなのに遅れちゃったから……そのお詫びも……だから……」
「お、おう。そうか……」
そこまで言われてしまっては、ここで意地を張るのも無粋だろう。頑固な虹のことだ。何を言っても聞かないだろうしな。……ちょっと恩着せがましい気がするところには目をつむっておこう。
仕方がないので、俺は虹が財布からお金を取り出すのをただただ眺め、トレイいっぱいに盛られたパンを窓際の二人掛けの席まで運んだ。
きっとこの席はカップル向けにしつらえられているのだろう。店のロゴが刻まれた窓ガラスの向こう側には、現代的な街の様子が色鮮やかに広がっている。正午前の空はカラリと冴えわたり、駅前は相変わらず活気にあふれている。
そんな景色を眺めていると、ふと、見知った顔を見つけた。
「櫻井……?」
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