第8話 この世の全てのイベントは酒を飲む口実である

 玄関の扉をくぐると、祭りの用意は早くも成されていた。


「ただいまー……」


 普段よりかなり早い時間帯に帰宅しているのにも関わらず、既にリビングの方からは食欲を刺激する香りがこれでもかと漂ってきている。


「あら。おかえりー、龍羽。ちょうど準備が整ったところよ」

 見ると、母親が台所をちょこまかしながら楽しげに声をあげた。


 リビングの方に目を向けると、いつもならこの時間、まだ職場で闘っているはずの父親が缶ビールを片手に横になっていた。その赤くなった顔を見るに、どうやらだいぶ出来上がっているらしい。


「おう~、おかえり~りゅう~」

「た、ただいま……」

 まだ日も沈みきっていないというのに、いったい何杯飲んだのだろうか、このおっさんは。


 父親の堕落しきった姿に呆然としている息子に、母親は何も見ていないかのように声をかけてくる。

「龍羽、荷物置いてきなさい。ついでに着替えもね」

「あ、うん。わかった」


 ごろごろと床をのたうち回ってる奇妙な物体、あれ、あなたの旦那だぞ? 何、その見逃すスキル。レンジャーになると覚えられるの? 敵は満足して帰っていくの?

 なんて無駄な思考を垂れ流しつつも、俺は父親にくぎ付けになってしまった視線を何とかひっぺがし、言われるがままに、荷物を置きに自室へと向かうことにした。


 洋風二階建て一軒家の我が家は都内に立っている割には広めだ。おかげで俺にも、二階にきちんと自室を用意してもらえている。

 リビングを出た俺は、フローリング張りの階段をゆっくりと上っていく。


 ここで一つ種明かしをすることにしよう。

 何を隠そう、酔っ払いがぶっ倒れているあの惨状こそが、脱皮祭の正体である。

 脱皮祭などという大層な名前を付けられてはいるが、有り体に言えばただの飲み会だ。


 うちの家系は代々誕生日の前日に、これまでの一年間を無事に過ごしてくれた身体に感謝を込めて盛大な宴会を催すことになっている。

 誕生日を境にして古い身体から新しい身体に切り替わる。その様子をちょうど生物の脱皮に重ね合わせてこの名前が付いたのだ。

 だがぶっちゃけて言うと、これは対外的に見ても、参加している俺たちの目を通しても、正直わけのわからん家族行事である。


「この祭の事が他人に知られるの、めっちゃ恥ずかしいんだよなあ……」

 階段を上った先の、ごちゃごちゃとした自室でリュックをどさりと下ろし、俺は一人ため息を吐く。だから虹や櫻井に対してでさえ口にしたくなかったのだ、この祭の名を。


 一年間を無事に過ごせたことに対する感謝、というのはまあ理解できる。

 ただそれが、酔っ払いを製造するような酒飲み大会につながるというのがいまいち腑に落ちない。脱皮祭などという名が冠せられているから、あたかも崇高な、まるで宗教的行事かのような雰囲気を醸し出してはいるが、ただ酒を飲むための口実として始まったのではないかと俺はにらんでいる。


 きっと俺より前の世代の人にも、俺と同様の疑問を感じた人はいただろう。そう確信できるくらい、このイベントは異質と呼べるものだった。


 それでもこの行事が消滅しなかったのは、これが腐っても〝伝統〟ということなのだろうか。何世代前から受け継がれているのか正確なところは知る由もないが、結果として今日まで引き継がれることになっているのは、認めたくはないがたいしたものだ。


 このイベントによって何かしらのご利益があるのか、はたまた伝統を無思考のままに下流に流すことを重んじる日本人的性格の賜物なのか。

 明確な理由は分からないが、それでも長きにわたって続けられているこの宴が我が家にとって重要な儀式であることは、まあ間違いないのだろう、きっと。


 そんなことをぐだぐだと考えながらラフな部屋着へ着替えを終えると、俺は食欲を掻き立てる匂いが溢れるリビングへと再び下りていった。

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