第5話 チマルマとの出会い

 深夜。


 気配で目が覚めた。風の音、虫の声、獣の遠吠え。そういう雑多なもの以外の、自分に向けられた気配。


 夜の暗闇は、特になにかを肌に直接伝えてくる。


 エナは、音もなく寝床から起き上がり、素早く出入り口の脇に立った。

 テオから、離れの小屋を借り、火鉢と綿を詰めた布団で寝床を作って休んでいたのだ。

 乾季の終わりの時期とはいえ、標高の高いアステカの夜はかなり冷え込む。


 出入り口には、すだれがあり三日月の薄い光が漏れている。

 もう一度、仙術の“聞”で外の様子を確認した。

 自分を起点に、目に見えない波紋のようなものが広がり、勘にさわるすべての情報を集めてくる。


 周囲の地形、隣りの民家で寝ている人のイビキ、小動物の音なき足音。気配と呼べるもののすべて。

 やはり、エナに向けられた意識が二つある。それはどうやら、今のところ殺気ではない。殺気でない分、なんらかの専門家の気配が濃厚だった。


 一瞬だけ、考えた。


 まだ、つけ狙われるようなことはしていない。

 しかも、アステカに来た当日の夜だ。

 したことは、要塞で衛兵と手合わせしたことと、チンピラ三人を殴り倒したぐらいしか思い当たらない。


 もしかすると、衛兵からヴィオシュトリに報告がいった可能性はある。

 だが、深夜に人を向かわせるということは、一般常識として明確な殺人予告を意味する。

 加えて、無音は最大限の無礼で、殺されても文句を言えないことになっているほどだった。

 なにより、別にヴィオシュトリと敵対しているわけでもない。


 可能性があるとすれば、エナの祖父のように捕らえて拷問して、情報を引き出そうとすることだが、それならばずっと追いかけ続けた相手がようやく現れたことになる。


 考えて分からない時は、体をさらして動いてみる。それで見えてくるものがある。

 おとりにできるのは、いつも自らの体一つだ。

 

 簾をあげて、外に出た。


 月光。


 三日月の冷気をまとった空気と、冴えた光。

 街中に張り巡らされた水路を流れる水の音。すぐさま、全身が冷気に包まれた。


 音もなく歩いて、近くの公園に行った。


 服の衣れ音や、草履ぞうりの擦れる音を出さずに歩くということは、殺し合いの同意を意味する。


 二つの気配は、音もなく付いてきた。

 やはり、専門家のようで気配はあっても未だに姿は目に見えない。


 公園の真ん中で立ち止まった。


 水路と木陰、公衆便所と戦闘訓練用の広い砂場。小さな神殿があるだけの普通の公園だ。


「まだ若い小娘みたいなのに、大した度胸だ。怖い怖い」


 黒い貫頭着の痩せた人間が二人、正面から歩いてきた。頭まで覆いをしていて、顔も口元しか見えない。


「ここは、あんたが来るようなとこじゃないよ。今すぐ、出て行ってはくれないかね?」


 喋っているのは、一人の中年の男だ。もう一人は、無言で今にも飛びかかってきそうな気配を見せ始めている。


「うちが、どこに行こうがうちの勝手やろ。邪魔するんやったら、力ずく。そう教えられてきたし」


 体を無言の方の正面に向けると、エナと間の空気がすぐに張り詰めた。


「穏やかじゃないね。俺は、楽に、幸せに暮らしちゃどうだって、あんたのためを思って提案してるつもりなんだがね。これでも」

「生き方も、死に方も自分で決める。アステカでは、戦士養成学校テルポチカリでそう教えるんやろ?」

「表向きはな」


 アステカ一族は嘘も吐かず、誠実で勤勉。

 評判上は、確かにそうだ。そして、何にでも、表と裏はある。


「うちは、いつでも戦えるええで」


 練気は、済ませてある。普段から気を全身に巡らせ、螺旋の渦を描いて奥に秘めてある。

 あとは、術として爆発的に放つだけだ。


 無言の方が前に出てきた。相変わらず、言葉を発しようとしないが、動作は機敏で歳も若そうだった。


「まぁ、待ちな。提案って言っただろう。できることなら穏便に済ませたいんだよ」

「無音で近づいてきて、今さら?」

「仙術気身闘法にゃ、聞って技があるんだろう?」

「だから?」

「俺たちの、お願いを、あんたが聞き入れ、今晩中にテノチティトランを出る。これが、みんなが幸せになる方法だって言ってるのさ」


 初めて、男の声に憂鬱げな感情が見えた。


「うちは、そうは思わない」


 男の提案を切って捨てた。


「そうかい。まぁ、そう言うだろうと思ってたよ」

 

 中年の男の方が一歩下り、若い方が前に出て来ながら貫頭着を脱ぎ捨てた。


 若い女だった。

 歳のころは、エナより少し上で黒豹の毛皮を胸と腰に巻き、手には短い槍を持っている。


 全身に塗られた戦闘用の油が、月の光を受けてぬらりと照り返し、炎を模したような紋様は刺青のようだった。

 長い黒髪はまとめて結い上げ、褐色の肌はしなやかで、向かい合うと震えがくるほどの闘気をまとっている。


 黒い瞳が真っ直ぐにエナを見つめ、その視線のなかには一欠片のやましさもない。


「うち、これでもあんたのような人に狙われる生き方こと、してないつもりなんやけどな」


 エナは、女の視線を正面から受け止め、静かに見つめ返した。


「雷一族の災いは、世に出してはならない」


 澄んだ声だった。豹戦士。声を聞いて確信した。身につけている黒豹の毛皮は、おそらく自分で倒したもので、得た精霊の力とも相まって滲み出る闘気は半端ない。


「災い?」


 初めて聞くことだった。もっとも、雷一族について、具体的な何かを知っている人間に合うのも初めてだ。


「まぁ、ほんなら、うちが負けたら追い出すなり、殺すなりご自由にどうぞ。で、勝ったら色々聞かしてもらうっちゅうことでええかな」


 エナも貫頭着を脱ぎ捨てた。拳を軽く握り、呼吸によって天と地の気を練り上げ、身にまとい、体内を巡る十二本のみちに沿って循環させていく。

 天と地と人が一つになって“仙”となるのだ。


「私は、豹戦士のチマルマ」


 チマルマが短槍を構えた。それは見事な構えで、隙がまったくない。


「うちは、雷一族最後の生き残りのエナ。仙術気身闘法の伝承者にして、呪医術師のエナや」


 本気の豹戦士とは、一度本気で戦ってみたいと、昼間の手合わせのあとで密かに思っていたことでもあった。


「オモロなってきたわ」


 三日月の光が照らしあげる深夜の公園に、エナとチマルマの気が満ち沈黙がおりる。

 二人の間で張り詰める闘気は、堅く強く、押し合いせめぎあって臨界へと向かっていった。

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