第3話 属都トラテロルコ
「これが、肉市場に出荷される
離れていくテノチティトランの中央大神殿を尻目に、エナは老婆と歩いていた。
「何ブツクサ言ってんだい。とっとと歩かないと、日が暮れちまうよ」
テノチティトランの北部三分の一は、トラテロルコ市と呼ばれる大市場になっている。
世界中のあらゆる物が集まり、日々数万人もの人々が出入りするのだという。
五十年前までは、自治権のある姉妹都市だったが反乱を起こし、平定されたおりに自治権を失った。
今では、旧テノチティトランとトラテロルコ市を併せた全域を首都テノチティトランと呼んでいる。
テオと名乗った老婆の店と家はトラテロルコ市にあり、エナへの礼として食事と寝ぐらを世話すると言ってきかず、押し問答のすえ激怒して、今エナは連行されている。
「なんか、こっから見ると地平線のあたりに街が見えるんやけど……遠くね?」
「黙って歩きな。日暮れ前にゃ着くよ」
結局、二人でテノチティトランの南門をくぐり、中央大神殿の脇を通りすぎ、トラテロルコ市へと向かって北へ北へと移動している。
「うちも荷物持つよ。ばぁちゃん」
「余計な気づかいは迷惑だね。それに、ばあちゃんじゃないよ。テオさんて、お言い」
「分かったよ、ばあちゃん」
にこりと笑いながら荷物の一部を勝手に、自分の袋に移し替えだした。
「余計なことすんじゃないよ。縛った紐が緩むだろう」
「ごめんごめん。縛り直したらいいじゃん」
「厚かましい娘だね、あんた」
「でしょう? みんな、かわいいかわいいってよく褒めてくれるんだ〜。いや、まいったね」
「褒めてないよ」
「うそん」
日が暮れはじめ、人通りもかなり少なくなってきた時、わざとじゃれあって遊んでいるフリをしていると、ようやく尾行していた男連中が近寄ってきた。
「よぉ、ばあさん。俺らも荷物運ぶの手伝ってやるよ」
ガラと目つきの悪い三人だった。
三人とも上半身は裸で、粗末な腰巻きだけを履いている。一人は包丁用の黒曜石の刃を、これ見よがしに突き出し、一人は石を握っている。
ちょうど人通りは途絶え、見える範囲に衛兵もいない。
「テノチティトランにも、あんたらみたいなのが出るようになっちまったんだね」
テオがつぶやいて、荷物を全部おろした。
「お、物分かりのいいばばぁじゃねぇか」
「追い剥ぎは、テノチティトランじゃ重罪ってこと知ってんのかい」
テオがため息をついた。
「もちろん、知ってるぜ。捕まればな」
さも素晴らしい冗談だったのか、男連中は喜び合って大笑いした。
「テオさん、重罪ってのはどんなの?」
小声でテオに問いかけた。
「うん? 住んでる家を叩き壊して、財産没収して追放だね」
「じゃあ、叩きのめして身ぐるみ剥いで、それだけで済ましてあげれば、きっと感謝されるよね、うち」
「うん?」
意味を理解するのに、テオは一瞬時間がかかった。
「いやー、これから他人さまに喜ばれることをすると思うと、うちも嬉しいね」
「ふん。言うじゃないか。面白いね。あんた、何人相手できる?」
「あんたじゃないよ。エナだよ。さっき、豹戦士と一試合やってきたとこ」
「は。大きく出たね。じゃあ、もし二人やったら、明日も飯を食わしてやるよ」
「じゃあ、それで」
頷き合った。
笑みを浮かべながら、連中に無造作に近づき、それぞれ一人目を同時にぶん殴った。
†
「あたしも歳だね。腰が痛いよ」
身ぐるみを剥いで、エナが三人を近くの湿地帯に捨てて帰ってくると、テオが首と腰を回しながら荷物を縛り直していた。
「ちょっと、ばぁちゃん。あいつら、ちょーしけてたよ。全員でカカオ豆十粒しかねーの。ありゃぁ、ダメだわ。カイショーないね」
アステカは基本、物々交換が多いが、市場ではカカオ豆を通貨として取引が行われる。
「あたしも、自分のこと我ながらロクデナシだと思ってたけど、あんたも大概だね」
「えへへー。なんか、よくそんな感じで褒められるんだーうちー」
「褒めてないよ」
「うそん!? 今の感じは褒めてたって。絶対。エナ知ってる」
「褒めてないね」
「まじか!? まぁいいけど。でも、二人やったの、うちだからね」
ニヤリと笑うと、テオが苦虫を噛み潰したような顔をした。
「ちっ。しょうがないね。腹が裂けるまで、食わしてやるから覚悟おし」
† 参考資料
『カカオは、メソアメリカ原産で飲料として用いられる他、一種の通貨の役割も果たした』
大航海時代叢書第一期第3巻アコスタ上 p386-387
『運搬人夫の日給がカカオ豆100個。
雌の七面鳥一羽が100個(しなびたカカオ豆120個)と交換できた。
同様に雄の七面鳥一羽が、カカオ豆200個と。
野うさぎなら、カカオ豆100個。
小さいうさぎ 30個
摘みたてアボカド 3個
熟しきったアボカド 1個
ウーパールーパー 4個
大トマト 1個と交換できた』
1545年トスカラ地方の記録より
『この乾燥された豆の一部は、チョコレート飲料として飲まれ、残りは給料その他の支払いにあてられた』
チョコレートの歴史 p114 河出文庫
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