アステカ王国と滅びの巫女 第一部
ホルマリン漬け子
プロローグ
第一部 王国への帰還
第1話 チチメカから来た少女
エナが峠から見下ろすと、はるか眼下に広大な湖があり、白亜に輝く湖上都市があった。
湖から乾いた冷気を含んだ風が吹き上がってきて、汗ばんだエナの前髪を揺らしていく。
「さっむ。マヤ公国の方から登ってくると、めっちゃさむぅ感じるわー」
マヤはアステカのずっと東、海岸線沿いにいくつもの国が寄り集まっている地域だった。
そこからニヶ月(四十日)かけて山道を登り続けて、ようやくここまで来た。
都市は碁盤の目のように整地され、中央にある大神殿から南北と西に伸びる三本の道は一直線に陸地につながっている。
無数の人々が行き交い、湖の上にも数えきれない
アステカ王国の首都、テノチティトラン。
人口は、三十万人を超える世界最大の都市だった。
湖は
東側の水には塩が混じるため、長大な堤防を築いて、水が混じらないようにしようとしていた。
首都テノチティトランは、この世の滅びから世界を守るために作られた最後の砦でもあって、千年の叡智を結集して作られた希望の象徴でもある。
アステカが滅ぶ時、それは世界の終末である。
「やっと、ちゅうか、いよいよっちゅうか結局、足かけ八年かー。うちも考えてみたら執念深いよなー。しつこいにも、ほどがあるわほんまに」
一人で自嘲気味につぶやくと、苦笑いしながらエナは素早く峠を駆け下りて行った。
†
「待て」
竜舌蘭の繊維を編んで作った履き物と、神殿を模した刺繍の入った貫頭着。
木の槍で武装した、一人の衛兵がエナの行く手を遮った。
衛兵には、どこかで止められるとは思っていた。
ただそれは都市の入り口の大門か大神殿の聖域門で、まさか堤道の途中にあるショロック要塞で気取られるとは、思ってもいなかった。
湖上都市であり、かつ軍事都市でもあるティノチティトランに歩いて入るには、北か西か南にある堤道を行き、それぞれ衛兵の詰所である石造りの要塞を抜ける必要がある。
堤道は石畳みで舗装されていて、その横に要塞があった。
今のところ、外に出て通行人を眺めている衛兵は一人で、要塞内には十人ほどの気配がある。
「なんや?」
ニコニコと笑顔を浮かべてエナは言った。エナ以外の通行人は素通りしていて、要塞自体も今は特に戦争中のようなピリピリした雰囲気もない。
「お前は何者だ?」
一瞬、核心を突かれた気がして驚きが顔に出そうになった。動揺を顔に出さない訓練はいつもしていて、心を瞬間的に切断させた。
「いや、急に、そないな、哲学的な質問されても、うちも困るわ。えへ」
村娘のように笑ってごまかした。
「峠から飛ぶような速さで下りてくるのが見えた。とても一般人とは思えない」
見られていた。
要塞に常駐する兵の練度と視力を見くびっていたことを、今さらながらにエナは後悔した。
「え、いや、あの、実は"
アステカでは、成人の通過儀礼として試練を乗り越えた者に精霊は姿を見せて、進むべき道を示すと言われている。
適当に口を動かしたが、嘘は言わないように注意した。
アステカ一族は、忠義を重んじる傾向が高く、嘘をつくことは重罪だと言われている。
加えて、精霊を心に宿す者は本能で嘘を見分けるのだ。
「"
要塞の奥にいた別の男が食いついてきた。ダマァゴメは、心の中の
「村娘であれば、求める精霊は"
男がかなりの使い手であることは、歩き方ですぐ分かった。
上半身裸の赤銅色の体は鍛え抜かれ、穏やかな口調の中に確固たる信念がある。
先にエナに声をかけてきた衛兵と比べても、頭一つ抜きん出ている。
男は鮮やかな緑の羽根飾りを頭につけ、手に持った槍には豹の毛皮が巻き付けられていた。
「ダマァゴメは、戦士と"
"
王国最強の戦士団は豹と鷹の二つあり、エナは目の前の戦士がオセロメーだろうと見当をつけた。
「せやな」
「それに、聞き慣れぬ方言だな。どこから来てどこへ行く?」
ただの職務上の質問で、特に深い意味はなさそうだったが、エナには深い意味があるように感じられる言葉だった。
「出身がチチメカ地方の山奥でな。多少の方言は勘弁したって。田舎もんやからね。うちが、その呪医術師のエナっちゅうんや。だから、うちはダマァゴメを求めとる」
嘘は言っていない。あとは、黙って豹戦士の黒い瞳を見つめた。
「お前が、呪医術師だと? "
豹戦士になるには"
この世に呪術師は多くいても、呪医術師はいないとされている。
そして、アステカからはるか北、チチメカ地方の山奥にあった呪医術師の隠れ里は、八年前にエナの目の前で壊滅した。
「呪術師長のヴィオシュトリさまに、チチメカからエナが来た。うちのことは、そう言うたら分かる」
八年前、"
ヴィオシュトリは、アステカの重鎮の一人で、王国内の呪術師を統べているという。
「ふむ」
豹戦士が腕を組んで考え込むような仕草をした。
質問を受けていても、格別嫌な気はしなかった。要塞の男たちは礼儀正しく、悪意や侮辱をぶつけてくるような気配もない。
インカでもマヤでも、アステカの豹戦士の評判は驚くほど高かった。
「お前が嘘をついてないのは分かる。何か事情はありそうだが、それはヴィオシュトリさまの仕事のようだ」
豹戦士が首や腕を動かして、軽く戦闘準備を始めた。
「伝承によると呪医術師の一族は、呪術と医術と武術を極めた一族だと聞く。今はもう滅んだ仙術気身闘法の使い手であると。その一族の名は」
「
一族の名をエナは先んじて口にした。
それを聞いて、豹戦士が楽しそうに闘気を練り上げていく。
「これは、"
豹戦士が仕える神こそ、アステカの二柱の主神の一人、テスカトリポカだった。
「最初、
理知的で礼儀正しいが、アステカ一族は好戦的な部族としても有名だ。
エナは、げんなりしながら、背負い袋を地面におろした。
「その人物が何者であるか、戦ってみるのが一番よく分かる」
「そーいうん、うちも嫌いでないけど、さすがにオセロメーに勝てる気ぃせんのやけどな」
肩をすくめた後、エナも臨戦態勢に入った。足場、間合い、相手の武器、気配と呼べるすべてを知覚し、張り巡らせ、練り上げる。
構えもせず、ただ突っ立ったまま錬気を攻撃的に高めるエナを見て、豹戦士はさらに喜んだ。
「素晴らしい練度である。貴殿は、今この時点で"石の心を持つ戦士"たることを俺に証明した」
戦闘民族たるアステカ一族は、女子供関係なく全員が石の心を持つ戦士であるように育てられる。
「それでは、一手お手合わせ願おう」
豹戦士が槍を構えた。
黒曜石を穂先にした、磨き抜かれた槍を向けられるだけで空気が重くなった。
ビリビリと肌を刺すかのような闘気が絶え間なく放たれ、重圧となってエナにのしかかってくる。
呼吸を整え、臍下三寸にある"生命の秘密の湧き出でる場所"という意味の丹田に意識を集中してからエナも拳を構えた。
「必要なら武器を貸すが?」
「呪医術師は、人に仇なす武器は手にせんのや」
口元だけで、声は出さずに豹戦士が笑った。やはり侮辱された気はしない。ただ、戦う事が好きな少年のような笑みだとエナは思った。
† 参考資料
『精霊を通して、ローリングサンダーは人々を癒し、大地を癒す』
ローリングサンダー 平河出版社
『砂漠に真ん中で、ローリングサンダーつまり「鳴雷」という名前の、ひとりのチェロキーインディアンのメディスンマンと運命的に出会った』
ネイティブマインドp72 地湧社
『堤道は、槍二本分の幅があり、とてもよくできておりますので、端から端まで八人の騎乗兵が並んで通ることができます』
大航海時代叢書第二期12巻コルテス第二報告書翰 p172
『ベルナール・ディアスは、湖岸と湖上に大きな町々の神殿や塔や多くの建物を見て、エスパニャ人たちは「それらの光景がアマディスの物語(十六世紀に流行した騎士道小説)に語られた夢幻の世界のもののよう」だと考え、「夢を見ているのではあるまいか、と言う者すらいた」と述べている』
大航海時代叢書第二期12巻コルテス第二報告書翰注釈 p172
『首都テノチティトランは、海抜二千二百四十メートルの盆地にある、テスココ湖上の島に築かれていた。一辺が三キロメートルのほぼ方形の都市を形成し、道路と水路による往来がみられ、対岸との陸地との間には広々とした堤道が築かれていた』
『盛時の人口は三十万とされるが、この数字は十六世紀の年代記に「コルテスが勝った当時、アステカの都には六万ないしそれ以上の家屋が存在した」と記されているからである』
『しかし、最近の見解としてテノチティトランの面積と王国の収税量からして、八万人程度だろうという説もある』
アステカ文明の謎 講談社現代新書
『この湖は、水の出口がないために、東の部分が塩水湖であり、増水時にその塩水があふれ出て(中略)、チナンパに侵入するのを防ぐため(中略)、堤防が作られていた』
大航海時代叢書第二期12巻コルテス第二報告書翰注釈 p172
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