第3話 本当の価値・本当の幸

「おや、この車両には人が乗っておられる」と、声が聞こえてメロスが車両の奥に眼をやると、ボロボロの布切れを着た、痩せこけた男が立っていた。皮膚は干物のように縮れ、シワは男がまるで老人であるかのように顔いっぱいに刻まれていた。

「驚かせてしまってすみませんね、」そう言って男は断りもなくメロスの横に腰掛けた。男の態度に少しムッとして、文句の一つでも言おうかとしたとき、男のお腹が鳴る音がした。

「……これでも、どうだ。」メロスは手にしたままの林檎を男の方へ差し出した。先ほどまでの苛立ちが嘘のように、メロスの心は憐憫でいっぱいであった。男の身なりも、空腹も、何より他人を不快にさせる気なくそうしてしまう男の性格が不憫であった。

「いえ、結構」「なぜだ」男の意外な返答に驚き、間髪入れずに訪ねた。

「おれぁそういうもんだからよ、今更なんか食ったって意味がないんだよ」男は口を開けて微笑みながら言った。歯の一部が抜けている。

「そういうものなのか」メロスは不思議に思いながらも聞いた。「そういうものとは、なんだ。私は自分がどういうものかわからない。そもそも、自分が決められるものでもないだろう。」

「その通りさ。最終的に、それがどんなものだったかを決めるのはそれ自身以外。人は死ぬまで、モノは壊れるまで、それの価値は確定しやしない。死んだ後に何かを変えることはないから、何者であるか確定するのは他人でしかない」

ずっと窓の外を眺めていたセリヌンティウスも男の顔を見ながら真摯に話を聞いていた。

「しかし、それでは自分のなりたい自分には永遠にならないのではないか」しばらくしてセリヌンティウスが尋ねた。

「いいや、ひとつだけ。死ぬその瞬間まで、自分を貫けば良い。一瞬たりとも疑うことなく」

メロスは男の話を聞いて、何か思い出しそうな気がしたが、それが何かはわからなかった。しかし、男の意見はただの理想論のような気がした。

「それができたら苦労はしない」思わずメロスは言い返した。男はまた口を開けてへらへらと笑った。

「そりゃぁそうだ、おれだってあのバカな王さんがもうちょっと貧しい奴らにも気を配ってくれたらこうはならなかったさ。人生どんな不幸に襲われるかはわからない。いっぺんに一年分の不運が来るかもしれない。だからこそそれを乗り越えられるのが真の勇者ってやつよ」

それからしばらくは誰も口を開かなかった。メロスはきまりが悪くなって林檎をかじりながら窓の外を眺めた。銀河の丘にはラベンダーの花や鳥たちの群れ以外にも、金色の羊や踊る異国の人間など、不思議なモノが多くあった。

「それではおれぁここらで」そう言って男は次の車両へと移って行った。

「不思議な男だったな。」

男の姿が見えなくなってから、セリヌンティウスが言った。「ああ。彼が不思議であり続けたからだろう。」

「違いあるまい」そう言ってセリヌンティウスはまた窓の外を眺めた。幼かった頃の思い出にふけるような顔だった。メロスは少し、なんとも言えない不安に襲われた。

「なあ、メロス。私はどんな人間だった?」窓の外の、遥か彼方を眺めながらセリヌンティウスが尋ねた。

「先ほどの男を真似るなら、私たちの関係はまだ終わっていないから、まだわからない。しかしセリヌンティウス、君なら最後まで私の良き友であると断言できる」

「そうか。……そうだな。」セリヌンティウスは肩の荷が降りたかのように嘆息を漏らした。窓の外の美しい景色と鉄道のなす音が心地よい。鉄道は崖の淵を走っているようで、窓の外には深い深い谷が広がっていた。





鉄道が前傾し、メロスは少し踏ん張らなければならなくなった。

「私もそちら側に行ってもいいか」そう言ってメロスはセリヌンティウスの横へ座った。背もたれが支えてくれる。足で踏ん張る必要はなくなった。

「あら、傾き始めたわ」

声の方向を見ると、青年と、そのそれぞれの手を握る男の子と女の子が裸足で立っていた。男の子は少し震えている。

「坂を一気に下りはじめたね。そろそろ冥界の入り口です。私たちはエリューシオンには行けませんが、神様に召されていることには変わりありません」

それからまた傾斜がキツくなったのか、青年たちは立つのがしんどくなって席に座った。震えていた男の子がいつのまにか泣きはじめていた。

「大丈夫ですよ、向こうに行けばお母さんにも会えますよ」青年が慰める。

「うん、でも、僕船に乗らなければよかったなぁ」

「私たちはなにも悲しいことはないのです。ほら、ごらんなさい。外の景色は美しいでしょう。私たちはこんなにも素晴らしい場所を旅して、天に召される。私たちの代わりにあの船に乗った人は家に帰れたでしょうし、着くまで楽しくいきましょう」青年は男の子の濡れた顔をじっと見つめながら、言い聞かせるようにゆっくりとなだめた。

「どうなさったのですか」セリヌンティウスが尋ねた。青年は微かに笑った。

「乗っていた船が沈みましてね、たまたま近くに通りかかった船が助けに来てくれたのですけど、その船にはもともと人が乗っていますし、到底全員は乗り切らないのです。私は子供たちのためにこの子たちを助けてくださいと叫びました。周りの人たちは泳いで道を開けてくれたのですが、その道の先にはまだまだ子供や女性たちがいて、とても押し除ける勇気はなかったのです。それでもこの子たちを守るのがわたしの使命だと思いましたから目の前にいる別の家の子を押しのけようとしました。けれどもそんな罪を犯してまで助けるくらいなら、神の御心のままに天に召される方が幸なのかもしれないとも考えました。その神に背く罪は全てわたしが請け負うつもりで押しのけようとしても、出来ませんでした。子供ばかり船に押しやって母親が濡れた顔を涙でさらに濡らしたり父親が笑顔を取り繕って泳いでいる姿など腸が煮え繰り返るようでした。私は二人を抱えて出来る限り浮かんでいようとしました。その時にわかに大きな音がして私たちは水に落ち、渦に巻き込まれた、そう思っていたら、ここにいました」

その話を聞いてメロスは大変悲しい気分になり、首を垂れた。

「そのようなことがあったなんて、知らなかった。私は君たちの幸のためになにもすることができなかった」

「なにが幸かはわからない。ほんとうにどんなつらいことでも、それがただしいみちを進む中でのできごとならば、峠の上りも下りもみんなほんとうの幸福に近づく一あしずつなのだから」

メロスに続いて、セリヌンティウスが言った。慰めるような、尋ねるような、自分自身に言い聞かせるような言い方だった。

「ああそうです。ただいちばんの幸に至るためにいろいろの悲しみもみんな思し召しです」

 青年が祈るようにそう答えた

川の向う岸が俄に赤くなった。楊の木や何かもまっ黒にすかし出され見えない天の川の波もときどきちらちら針のように赤く光った。まったく向う岸の野原に大きなまっ赤な火が燃されその黒いけむりは高く桔梗いろのつめたそうな天をも焦がしそうであった。ルビーよりも赤くすきとおりリチウムよりもうつくしく酔よったようになってその火は燃えているのだった。

「あれは何の火だろうか。あんな赤く光る火は何を燃やせばできるんだろうか」メロスが言った。

「蝎の火だな」セリヌンティウスが又また地図と首っ引きして答えた。

「あら、蝎の火のことならあたし知ってるわ」女の子が口を開いた。

「蝎の火ってなんだ」メロスがききいた。

「蝎がやけて死んだのよ。その火がいまでも燃えてるってあたし何べんもお父さんから聴いたわ」

「蝎って、虫だろう」

「ええ、蝎は虫よ。だけどいい虫だわ」

「蝎はいい虫じゃないだろう。尾にこんなかぎがあってそれでさされると死ぬと教えられた」

「そうよ。だけどいい虫だわ、お父さんこう言ったのよ。むかしのバルドラの野原に一ぴきの蝎がいて小さな虫やなんか殺してたべて生きていたんですって。するとある日いたちに見附かって食べられそうになったんですって。さそりは一生けん命逃げて逃げたけどとうとういたちに押おさえられそうになったわ、そのときいきなり前に井戸があってその中に落ちてしまったわ、もうどうしてもあがられないでさそりは溺れはじめたのよ。そのときさそりはこう言ってお祈いのりしたというの、

 ああ、わたしはいままでいくつのものの命をとったかわからない、そしてその私がこんどいたちにとられようとしたときはあんなに一生けん命にげた。それでもとうとうこんなになってしまった。ああなんにもあてにならない。どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちにくれてやらなかったろう。そしたらいたちも一日生きのびたろうに。どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸のために私のからだをおつかい下さい。って言ったというの。そしたらいつか蝎はじぶんのからだがまっ赤なうつくしい火になって燃えてよるのやみを照らしているのを見たって。いまでも燃えてるってお父さん仰おっしゃったわ。ほんとうにあの火それだわ」

「そうだ。見たまえ。そこらの星はちょうどさそりの形にならんでいる」

 メロスはまったくその大きな火の向うに三つの三角標がちょうどさそりの腕のようにこっちに五つの三角標がさそりの尾やかぎのようにならんでいるのを見た。そしてほんとうにそのまっ赤なうつくしいさそりの火は音なくあかるくあかるく燃えたのであった。

 その火がだんだんうしろの方になるにつれてみんなは何ともいえずにぎやかなさまざまの楽の音や草花の匂いのようなもの口笛や人々のざわざわいう声やらを聞きました。それはもうじきちかくに町か何かがあってそこにお祭でもあるというような気がするのだった。

「もうじきサウザンクロスです。おりる支度をして下さい」青年がみんなに言った

「僕もう少し汽車へ乗ってるんだよ」男の子が行った。女の子はそわそわ立って支度をはじめたけれどもやっぱりメロスたちとわかれたくないようなようすだった。

「ここでおりなければいけないのです」青年はきちっと口を結んで男の子を見おろしながら言った。

「いやだい。僕もう少し汽車へ乗ってから行くんだい」

 メロスがこらえ兼ねて言った。

「私たちと一緒いっしょに乗って行こう。私たちはどこまでだって行ける切符を持っているのだ」

「だけどあたしたちもうここで降りなきゃいけないのよ。ここ天上へ行くとこなんだから」女の子がさびしそうに言った。

しばらくして鉄道はすっかり止まった。

「じゃさよなら」女の子が振り返って言った。

「さよなら」少し悲しく感じながらメロスは言った。周りを見回すと、もう誰もいなくなっていた。奥の車両にも、人影は見えなかった。

メロスはああと深く息した。

「また二人きりになったな、セリヌンティウス。ああ、二人でいい。どこまでも行こうじゃないか。私はあの蠍のように、本当の幸のためなら百回炎に身を包まれても良い」

「私だってそうだ」セリヌンティウスは答えた。その目には涙が溜まっていた。

「けれどその本当の幸とはなんだろうか」

「私にはわからない」セリヌンティウスが答えた。

「あ、あそこは石炭袋だ。そらの孔だ」セリヌンティウスが少しそっちを避さけるようにしながら天の川のひととこを指さした。メロスはそっちを見てまるでぎくっとしてしまった。天の川の一とこに大きなまっくらな孔がどほんとあいているのだ。その底がどれほど深いか、その奥に何があるかいくら眼をこすってのぞいてもなんにも見えず、ただ眼がしんしんと痛むのだった。メロスが言った。

「私はもうあんな大きな暗やみの中だってこわくない。きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く。どこまでもどこまでも二人で一緒に進んで行こう」

セリヌンティウスからの返事がなく、メロスは窓の外から目を背けてセリヌンティウスの方を見た。

「セリヌンティウス?」

「私はもう行かなくてはならない」セリヌンティウスが呟いた。立ち上がって、出口へ向かう。

「なにを言っているんだセリヌンティウス。…………ああ、すまない。確かに私は間に合わなかった。私を殴れ、セリヌンティウス。私は灼熱の太陽に負け、地面に倒れ、彼らと同じように死んだのだろう。けれどセリヌンティウス、こうしてまた逢えた。これからも一緒だ」

メロスが言うと、セリヌンティウスは首を振った。

「君はまだ死んでいない。その切符がどこまでもいけるということは、帰ることもできるということだ。なら、帰るべきだ」

「いや、君と行く。あの青年は船に乗ろうと思えば乗れた。けれど乗らなかった。同じことだ」

「違う。君は走らなければならない」セリヌンティウスが言う。メロスは悲しくなった。この友人だけは、メロスを否定しないと信じていた。価値を決めるのが他人だとしても、この友人だけはメロスをメロスのおもうメロスと同じように感じていると信じていた。

「私は間に合わなかった。走る理由はもうない」メロスはそう言って膝をついた。

「いや、違う。君の価値はまだ定まってはいない。君の幸はまだ見つけられていない。君は走りきった男になるために走るのだ」

「そんなことをしたってほんとうの幸が見つかるわけではない」

「かもしれない。でも、君がもし最後の最後まで、たとえ間に合わなかったとして、友のために走りきったのならば、君は友を裏切らなかった、その事実があるならば、少なくとも、私の人生は幸であったのだ。」

メロスはただセリヌンティウスの話を聞くことしかできなかった。涙を流しながら、しばらくして、よろよろと立ち上がった。

「走れ、メロス」

セリヌンティウスは去って行った。どこからともなく霧が溢れてきて、メロスはなにも見えなくなった。





気がつくと、メロスは地面に倒れ込んでいた。夜風が肌を撫でる。灼熱の太陽は去り、煌びやかな銀河が空を彩っていた。

ふと耳に、せんせん、水の流れる音が聞えた。そっと頭をもたげ、息を呑んで耳をすました。すぐ足もとで、水が流れているらしい。よろよろは 這っていって、見ると、岩の裂目からこんこんと、何か小さく囁やきながら清水が湧き出ているのである。その泉に吸い込まれるようにメロスは体を動かし、水を両手で掬って、一くち飲んだ。全身に力が戻る。メロスは立ち上がった。

「──走らなければ」

メロスは城の方へと、風のように走り出した。

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銀河を往く 有縺鶸 @arimotsu

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