第2話 メロスの切符・林檎の子

「私の母は、私をゆるして下さるだろうか。」

 いきなり、セリヌンティウスが、思い切ったというように、少しどもりながら、急こんで言った。

 メロスは、

(ああ、そうだ、私の母や妹たちは、あの遠い一つのちりのように見える橙いろの三角標のあたりにいて、いま私のことを考えているんだった。)と思いながら、ぼんやりしてだまっていた。

「私は母が、ほんとうに幸になるなら、どんなことでもする。けれども、いったいどんなことが、母のいちばんの幸なんだろうか」セリヌンティウスは、なんだか泣きだしたいのを、一生けん命こらえているようであるとメロスは感じた。

「君の母は、なにもひどいことないじゃないか」メロスは疑問に思いながら訪ねた。

「私にはわからない。けれども、誰たれだって、ほんとうにいいことをしたら、いちばん幸なのだ。だから、母は、わたしをゆるして下さると思う」セリヌンティウスは、なにかほんとうに決心しているように見えた。





「もうここらは白鳥区のおしまいだ」地図と窓の外を交互に眺めながらセリヌンティウスが言った。途中に鷺の群れとそれを順に捕まえていく人の姿が見え、セリヌンティウスの纏う雰囲気は元に戻っていた。

「あの鳥を捕まえていた人は鷺をぺたんこに押しつぶしていたが、あれは一体……」メロスが言いかけたとき、

「切符を拝見いたします」三人の席の横に、赤い帽子をかぶったせいの高い車掌が、いつかまっすぐに立っていて言った。車掌は指をうごかしながら、手をメロスたちの方へ出しました。

「さあ、」メロスは困って、もじもじしていたが、セリヌンティウスは、わけもないという風で、小さな鼠いろの切符を出した。メロスは、すっかりあわててしまって、もしか上着のポケットにでも、入っていたかとおもいながら手を入れて見たところ、何か大きな畳んだ紙きれにあたった。こんなもの入っていたろうかと思って、急いで出してみたら、それは四つに折ったはがきぐらいの大きさの緑いろの紙であった。車掌が手を出しているものだから、このさい何でも構わない、やってしまえと思って渡すと、車掌はまっすぐに立ち直って叮寧にそれを開いて見ていた。そして読みながら上着のぼたんやなんかしきりに直したりしていたので、メロスはたしかにあれは証明書か何かだったと考えて少し胸が熱くなるような気がした。

「これは三次空間の方からお持ちになったのですか」車掌がメロスに訪ねた。

「何だかわからないのです」もう大丈夫だいじょうぶだと安心しながらメロスはそっちを見あげてくつくつ笑った。

「これは驚きました。これはもう本当の天上にさえいける切符です。いえ、天上どころじゃない、どこへでも勝手にあるける通行券です。南十字サウザンクロスへ着きますのは、次の第三時ころになります」車掌は紙をメロスに渡して向うへ行った。

 セリヌンティウスは、その紙切れが何だったか待ち兼ねたというように急いでのぞきこんだ。メロスも全く早く見たかったのである。ところがそれはいちめん黒い唐草のような模様の中に、おかしな十ばかりの字を印刷したものでだまって見ていると何だかその中へ吸い込こまれてしまうような気がするのだった。





「林檎の匂いがする。私がリンゴのことを考えたからだろうか」セリヌンティウスが不思議そうにあたりを見回した。

「いや、たしかに林檎の匂いだ」メロスはそう答えると、林檎がいっぱいに入った籠を抱える少年が立っていることに気づいた。

「良かったら、ひとついかがでしょうか」

少年はメロスたちの方へと籠を差し出した。

「これはありがたい」セリヌンティウスが林檎を籠から取ろうとすると、少年は「ああ、少しお待ちください」と言った。一番上の林檎を取り上げ、手の中で回しながらじっくりと林檎を見つめてからセリヌンティウスにわたした。同じようにしてメロスの方に一つ差し出すので、メロスは欲しいとは思っていなかったが礼を述べて受け取った。

「王様に献上した林檎の中に、虫食いが一つありまして。どうしても慎重になってしまうのです。僕の農園は山に近いので」少年は恥ずかしそうに説明した。

「その年で働いているのか」

メロスは驚いて言った。少年はまだ学校に通っているような見た目だった。メロスの家も裕福ではなかったが、幼い頃はせいぜい両親の手伝いをする程度であった。自身の農園を持つ子供など周りにもいなかった。

「父を幼い頃に亡くしたもので、病気の母を助けるためにはひたすら働くしかなかったのです」

「ああ、そんな」セリヌンティウスは林檎をかじりながら嘆きの声を上げた。「お父様は、その、どうして」

「父は漁師で、海に落ちた仲間を助けて、代わりに亡くなりました。その助けられた仲間も、海水が肺に入ったようで、すぐに亡くなりました」

メロスは眼を見開いた。「それでは犬死ではないか」

「それでも父のことは別に恨んではいないのです。それはたしかに、良いことなので」

メロスは何とも言えない気持ちになって、セリヌンティウスの方を見ると、セリヌンティウスはかじりかけの林檎を両手で抱えて窓の外を見ていた。つられて外を見ると、鉄道が少し曲がっていたのか、橙いろのあの三角標が真正面にあった。しばらくして振り返ると、少年はどこにもいなかった。

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