第41話 「あなたのこと、好きだったよ」

「お帰りなさい」


 美咲さんは扉を開けるなり、言った。


「ただいま帰りました。ごめんなさい。連絡しなくて。心配した?」

「まあね」


 彼女は苦笑する。そりゃあそうだろう。僕の荷物と言えばバッグ一つしかなくて、それを持ったままバイトに出かけていた訳だから、いつそのままふっと姿を消してもおかしくない、と彼女は思ったのだろう。


「休んだの?」

「まさか。でも定時で切り上げたのはホントよ」

「ごめんなさい」

「まあいいわ。それより、せっかくあたしも早いのだから、ごはん、つきあってちょうだいよ」

「美咲さん」

「ごはん食べてきた? じゃあ、お茶だけでもいいのよ。コーヒー入れるから」

「美咲さん!」


 彼女はゆっくりと振り向いた。


「いーい? とにかく、食事なのよ」


 彼女はそういうと、既に用意してあったのだろう、キッチンに入って、何度かレンジのチン、という音を鳴らした。

 テーブルに幾つかの皿を置く。同時にコーヒーメーカーからのいい香りが漂ってくる。

 僕はテーブルの脇に立って、彼女の様子を眺める。彼女は料理が上手い。どこで覚えたのか、と思えるほど、手際もいいし、味付けもいい。それに、味付けが、やはり近い故郷だけある。

 彼女は自分の側に、ご飯とおかずと、何品か並べて、そして僕の前にカフェオレを置いた。

 僕はそれをすすりながら、とりあえずは食事、という彼女の様子をしばらくじっと見ていた。彼女がひじきの煮物やら、魚の西京焼きとか食べている音と、僕が時々カフェオレをすする音だけが、部屋の中に響く。静かだった。そんな音しかしないと、余計に静かに感じられる。


「……出てくって言うんでしょ?」


 不意に彼女は言った。その手には相変わらず箸が握られたままだったし、手には茶碗もあった。だけど僕はうん、と即座に返していた。


「そんな気はしていたけど」

「そう?」

「そう。帰ってきた時、そう思った」

「何で?」

「何でだろ? 声が」

「声が?」

「声が、弾んでいたからかな」


 そうだったろうか。思い返す。そんな意識は僕には無かった。


「めぐみちゃんは、すごく声に出るから」

「出る?」

「あなたを拾った時、何かもう、何をしゃべっていても、どうなってもいい、って感じだったわよ」

「……そう…… だったの?」

「そう」


 彼女はきっぱりと言う。そして食事も終わったようで、さっと茶碗や皿をまとめると、キッチンに入って行った。少しして戻ってきた彼女の手には、ミルクを入れない紅茶のカップがあった。


「でも、もういいんでしょ? 何がどうあったのか、知らないけれど」


 そして彼女は目を伏せた。


「あなたのこと、好きだったよ」

「ありがと」

「本当。そして感謝してる。あなたが居たから、僕は休むことができたよ。何も考えずに、とにかく、動くことができた。……暖かくて、気持ちよかった」

「……気持ちよかったなら、ずっと居れば、いいのに」

「でもそれは駄目なんだ」


 僕はカフェオレのカップを置いた。


「それじゃあ、駄目なんだ」


 僕は繰り返す。ぬくぬくとした、暖かい寝床で夢を見ているのは気持ちがいいけれど、それでは。


「学校に、ちゃんと行き直すよ。……思い出したんだ」


 デザインが。ああいうことが好きだった自分を。人とどうこう比べてテンポがどうとか、ではなく、自分が熱中できるものとしての、「そういうこと」が。


「……これ、あなたが持ってて欲しいんだ」


 そして僕は、あのできあがったジャケットを取り出す。テーブルの上に乗せ、彼女の前に押し出す。

 あれから、何とか出来上がりをみて、結局三部刷った。一部はアハネとの約束通り彼に渡した。

 後の二部、僕はCD屋へ行って、取り替え用のケースを二つ買ってきた。そしてその両方に、そのジャケットを入れてみた。


「前に僕が作るつもりだったもの。もう用は無いだろうけど、僕は」


 言葉を探す。どういったらいいんだろう?


「ケンショーのように、ああいう風に、自分の中から、わき出てくる様なものは、僕には無いし、それは歌じゃなかったし…… でも、僕は、そこにこうやって『はじめからそこにあるもの』を、並び替えて、別の形に置き換えることはできる…… かもしれないから」

「めぐみちゃんが、作ったの?」

「うん。これが僕の、今の精一杯」


 全くの納得はできてない。だけどそんな僕にアハネはこう言った。


「納得をつけるための技術をつけるのが学校だろう?」


 もっともだ。


「学校にとらわれるんじゃなくて、学校を利用する気でさ」


 僕はその時、アハネらしい、と思って苦笑した。


「……別にCDジャケの専門になる訳じゃあないけれど…… どんなものをするつもりだか、判らないけど、こういうのが、好きだってことは思い出したんだ。誰に言われるでもなく、好きだったってこと。だから」

「もういいわ」


 ひらひら、と彼女は手を振った。


「だったら、そうよね。あなたもうここに居ることはないわ」

「美咲さん」

「あたしは、守ってやれる子が好きなのよ。あなたもう、そうじゃあないわ」


 そう言って、にっ、と口元を上げた。そしてCDケースを手に取ると、訊ねる。


「兄貴に、渡してもいいの?」

「どちらでも。美咲さんの思うように」

「考えておくわ。いつ出てくの? 行き先は?」

「とりあえずは、友人のアハネって奴のとこに転がり込んで……でも長くはいない。すぐに部屋見つけますよ。学費稼がなくちゃ。どこの単位の分からか忘れたけど、まずその欠けてる部分を探して……」


 実に現実的な問題が、僕の頭にさーっと渦巻く。ま、いいか、と僕は息をついた。今考える問題じゃない。明日。そう明日、学校へ出向いて、あの事務室で今度はちゃんと負けないように。

 とん、と考えにはまっていた僕の前に、今度はグラスが置かれた。その中には半分くらいの、綺麗な深い赤の液体。


「ワイン?」

「このくらいなら大丈夫でしょ? 呑みやすいイタリアワインだし」


 そうだね、と僕は笑った。もっとも彼女はそんなものでは絶対に酔わない。ケンショーと同じ血を引いてると思う。だけど少し酔ったようなフリをして、彼女は言った。


「せっかくだから、おねーさんにキスの一つでもちょうだいな」

「そうですね」


 僕はふっと笑った。


「僕は、美咲さん、好きだったよ」

「そういう言葉は、安売りしちゃだめよ」


 それ以上は言わなかった。言えなかった。

 だけど、このひとには、どれだけ言っても足りないような気がしていた。きっと、ケンショーより、そしてケンショーの元を去ったひとびとより、誰より、一番寂しいだろうこのひとには。

 このひとに、少しでも多くの、しあわせが来ますように。

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