第38話 そのくらいは判るだろう。判ってほしいものだ。
それからしばらくの間、僕は彼女の部屋で過ごした。
僕はそこからバイトに通っていた。そして僕はバイトの量を少し増やしていた。
それまで出る気はなかったフロアに出て、時給が100円上がった。そして時間を伸ばした。それまでは定期的に休んでいた分をカットした。
どうしたの、とマネージャーは言ったけれど、僕は今、何も考えたくなかった。
こういう仕事はいい。何も考えずに、とにかく、仕事と割り切ってやっていられる。朝から晩まで。身体を動かして。愛想笑いをして。
作りでも何でも、笑顔を作っていられるうちは大丈夫だ、と僕は思った。思おうとした。
そうでもしないと、すぐに、今までのこととか、自分の才能とかやりたいこととか、とにかく今考えるには許容量オーバー、と言いたい程の考えが押し寄せてきて、僕はそのあふれかえる思考の中でおぼれてしまうと思ったのだ。
朝出向いて、フロアに出て、昼食をとって、またフロアに出て、人が少ない時間になったら、細々とした作業をして、また混んできたら、他のフロア仲間と調子を合わせながら、なるべきてきぱきと動き回る。
同僚の一人は、ずいぶん変わったね、と驚く。変わった訳じゃあないんだけど。
そして夜、疲れ果てて、食事をしてから彼女の部屋へ戻る。
彼女は居たいだけ居てもいい、と言った。だけどそれはまずい、と思う。
彼女がいいと言っても、僕自身が許せない。いつかは出ていかなくてはならない。近いうちに。
だからそのためにも、僕はてっとり早く収入は欲しかった。
だけどそれほど器用ではないのは判っているから、とにかく今居るところで、少しでも仕事を増やしている。そういう意味もあったし、職種のえり好みなどしている余裕は無かった。
僕は僕に言い聞かせる。
あんなことまでステージの上ではできたんだから、フロアで愛想笑いくらい飛ばすのは簡単だろ?
美咲さんがケンショーに、僕が居ることを言ったのかどうかは判らない。
どっちだっていい。言ったところで、逃げ出した僕を奴は追わないだろう。それは確信だった。逃げ出した時点で、僕は奴の声でいることは辞めているのだ。そのくらいは判るだろう。判ってほしいものだ。
*
そんなこんなで、一ヶ月があっと言う間に過ぎた。朝のTV番組にある日何気なく耳を傾けた時のことだ。美咲さんは毎朝ミルクティを呑み、僕はカフェオレを彼女の手からもらっていた。優しい手だ。
だけど一ヶ月も一緒に暮らしていると、そこに身体の関係があるなしでなくとも、判ってくることがあるものだ。彼女は彼女で、僕が居ることで楽しんでいる。
それはそれで悪くはない。少なくとも、居候している罪悪感からは、逃れられるというものだ。
彼女はどうも、自分が守ってやれる存在というものが好きらしい。のよりさんも、最初は彼女に泣きついたらしい。彼女はそのあたりは兄と似ているのだろうか、男も女も関係ないのだ、という意味のことを言っていた。
僕はその時には黙って聞いていた。だけど。
*
そんなある日、僕に客だ、とマネージャーが言った。
午後二時半は、ランチの客が終わり、お茶の時間にはやや間がある、というエアポケットのような時間帯だ。その時には客が少ない分、店員も少ない。フロアには僕とマネージャーともう一人、女の子しかいなかった。
「客?」
「友達じゃないの? 二人連れだけど」
三十分くらいだったらいいよ、とマネージャーはあっさりと許してくれたのだが、僕には心当たりがない。実際のところ、ケンショーが来る、という可能性だってあった訳だ。
だけど二人連れ、という時点でその考えは消えていた。あの男は来るだったら一人で来るだろう。
そしてその考えは当たった。店員の通用口に回ってみると、そこには意外な顔が居た。
「ナカヤマさん…… それにアハネ?」
僕はもう少しで驚きの声を上げてしまうところだった。
「久しぶり、アトリ」
そう言ってアハネは手を挙げた。
「どうしてここが…… いや、どうして今?」
「んー? 俺、お前が学校来なくなってから、それでも時々ライヴ見に行ってたんよ? 知らなかっただろ」
知らなかった。来てるなら来てると言ってくれれば……
だけどそれはできなかったのだろう。僕とあんな形で疎遠になったのだから。
「だけどいきなりお前出なくなった、と思ったらさ、何かメンバーチェンジがどうとか、ライヴハウスで噂になってるし。気にはなったからさあ、前に携帯の番号聞いてたこのひとに連絡してみたの」
そう言って彼は、ナカヤマさんの肩をぽん、と叩いた。
「でもさ、このひともバンド辞めたとか言ってるし」
「ええっ!」
僕は今度こそ、声を上げてしまった。
「ナカヤマさん、RINGER辞めたの……?」
「まあね」
さらりと彼は答えた。何か僕が知らない間に、色々なことが向こうではあったらしい。
「じゃ、バンド、今はケンショーとオズさんだけなの?」
「や、メンバーチェンジ、って言っただろ? チェンジだよ。後任が入って、メジャーデビューに向けて、割と着々と進めてるらしいよ。俺も詳しいことは知らないけど」
「メジャーデビューに向けて…… じゃあ話、まとまったんだ」
「まあね。でも俺はメジャーに行ってまで音楽する気はなかったから、辞めさせてもらった」
「……どうして」
自分だったら聞かれたくない質問なのに、その時の僕は彼に聞いていた。だがいつも冷静だったこの人は、この時も冷静だった。
「あのね、めぐみちゃん。俺は音楽が好きなの。ベースが好きなんだよ。だから仕事ににしたくはない。それだけ」
「それだけ?」
「それで十分じゃないのかい?」
彼は苦笑した。バンドに居た頃には、僕には見せたことの無い表情だ。
「大切であればあるだけ、人にどうしてもいじられたくないものってあるだろ?
それが正しい方向であったとしても」
ああ、と僕はうなづいた。そういう人だったんだな、と改めて僕は思う。本当に、もっと話しておけばよかった。
「……じゃあ、今のヴォーカルとベースは」
「何でも、SSってバンドの子達を引き抜いたってことだけど」
SS。
「……って確か、カナイって子……」
「知ってるのか?」
「ちょっと……」
一瞬、胸が締め付けられた。そうか、あの時のガキは、自分の欲しいものをちゃんと自分で手に入れたんだ。ケンショーの隣、という位置を。
考えないようにしていたことが、急に自分の中になだれ落ちてくる様な気がした。
「奴は、元気?」
「らしいよ」
ナカヤマさんは短く言った。僕はうなづいた。そしてこう付け足した。
「そうだろうね」
そして僕のその答えを聞くと、肩をすくめて、タッチ交代、とばかりにアハネを軽く押し出した。
「ありがとうございました。本当」
「いやいやいいの。俺も気がかりだったのは確かだから…… じゃあ、後は二人で話して」
ナカヤマさんはそう言うと、ひらひらと手を振った。
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