第37話 「あの馬鹿は自分の同類と間違ってしまうのよ」
「そうなのね?」
「逃げてきたって、僕は、あ……」
「……ああ、別に、ケンショーが嫌なことしてどうの、って言う気はないわよ。こう言っていいのかな? 『またか』」
「美咲さん」
「長く続いてほしい、ってあたしも思ったんだけど、やっぱりだめだったんだ」
彼女はTVのスイッチを切る。途端に、部屋の中がしいん、と静まり返った。部屋の空気の中に漂っていた、毒にも薬にもならない声が音が、すっ、とその時かき消えた。
「美咲さんは…… そうなる、って思ってたの?」
彼女は黙ってうなづいた。
「それでも、のよりちゃんよりは続くと思ってたし、今度は、メジャーに行くまで続くと思ったのよ」
「メジャーに行く、って話、出たんだ」
ああ、と美咲さんは声を上げた。
「とうとう、やったんだ…… あの馬鹿…… でも、どうして、なのに?」
彼女は首をかしげ、少し眉を寄せた。
「僕はメジャーで、通用しないから」
不思議に、言葉がすらすらと出た。
「でもあたしはめぐみちゃんの声も歌も、好きよ? 今までの歴代のヴォーカルの中では、一番よかったと思うわよ?」
「それでも」
僕は首を横に振る。
「うまく、説明できないんだけど、僕は、駄目なんだ」
「駄目って」
「駄目なんだ!」
だん、と僕はテーブルの上で、こぶしを握りしめ、叩きつけた。
「僕は、ケンショーが思うように、歌えないよ」
「それはそうよ。めぐみちゃんは、あいつじゃないもの」
「だけど、僕は、僕の言葉なんか、持ってない。ケンショーのように、伝えたいことなんて、ない。歌でなんて、絶対にない。そんなうた、誰が聞きたい? 少なくとも、僕は聞きたくはないよ。僕は僕が聞きたくもないような歌、人に聞かせるなんてやだ。そんなのは、何か違う。何か違うよ!」
一息に、僕は吐き出した。
「……あ…… ごめんなさい」
いきなり感情をぶつけてしまった。だが彼女は驚くこともなく、僕をじっと見ていた。
「……何で」
彼女の唇が開く。
「何で、あの馬鹿は、こうやって、いい子をどんどんつぶしてくんだろうね」
「つぶしてなんか」
「少なくとも、傷つけてるじゃない」
「違うんだ。僕が勝手に傷ついてるだけで」
「それでも、あいつに会わなかったら、あいつが手を出さなかったら、そんなことはなかったでしょ?」
「それは……」
それはそうだけど。
「あいつは、いつだってそうよ。自分が好きでやっているのはいいわ。だけどそれで、傷ついてく人がいるっての、絶対知らないのよ」
「美咲さん?」
そう言えば。ケンショーが時々思い出したようにつぶやく、彼女への負い目を僕は思い出す。
「美咲さんは、ケンショーが、嫌いなの?」
「嫌いか好きか、と言われても、困るわね。どんな馬鹿でも、嫌になっても、とにかく、兄貴なんだから」
そういうものなんだろうか。
「あたしはね、めぐみちゃん、あいつに関しては、ひどく自分がねじ曲がってるると思うわよ」
そんな困った顔をしないでほしい。綺麗な人が辛そうな顔をすると、僕は困ってしまう。
「でも、ケンショーは、あなたに申し訳ないと思ってるよ」
「そりゃあ思ってるでしょうよ。でも、思ってるからって、あいつは何をするというの? 思ったから、いわゆるまっとうな生活を、奴がすると思う? 髪を切って、色も黒にして、ううん茶髪だっていいわよ。とにかく、毎日あのくらいの歳の連中がするように、定職について、仕事にはげむ、なんて生活。あいつにできる訳がないじゃない」
彼女は首を横に振る。ふと僕の中で、故郷の兄貴の姿がよぎった。
「それは、僕だって……」
「めぐみちゃんは、違うわよ。あなたはもともと、そういう人だったじゃない。ケンショーに会うまでは、ちゃんと毎日学校へ行ってたでしょ? そういうのじゃないのよ。兄貴は、生まれつき、そういう男なのよ。ああいう男は、そんな『まっとうな』生活をさせたら、絶対おかしくなるわ」
「でもバイトは真面目で」
「それは、バンドがある上での、仕事でしょ? ねえめぐみちゃん、普通のひと、っていうのは、そういうのは、無いのよ」
「あ」
「そこまで賭けられるものがある、絶対捨てることができない、身体も心も支配されてる、何を捨てても、犠牲にしても仕方ない、どうしようもないものがあるひとなんて、ほんの少しなのよ?」
ぴぴぴ、と乾燥機が、終わりを告げる音を鳴らす。だけど僕たちは、どちらもそれに気付いた素振りを見せなかった。
「だから、あの馬鹿は、時々、そうでないひとまで、自分の同類と間違ってしまうのよ」
「僕が」
「めぐみちゃんは、そういうひとじゃない。皆知ってる。知らなかったのは、あの馬鹿くらいなものよ」
「知ってた?」
「誰だって気付くわよ。ノリアキ兄は、ああいう奴だから、ひとを好きになったらそれも本気で、見境がなくて、だけど、だから、皆それに巻き込まれるのよ。それが本気だから。冗談じゃなく、本気だから」
「のよりさんも?」
「会った? 彼女に」
うん、と僕はうなづいた。
「そうよ。彼女も。彼女も、とてもあいつのことが好きだと言った。けど、どうしようもない、って言った。繰り返しなのに、あの馬鹿は、それがどうしてなのか、どうしても判らないのよ」
「じゃあ美咲さんは?」
どうして僕は、そう聞いてしまったんだろう?
「え?」
「そんなケンショーを、ずっと、見てきたんでしょ? どうして? いくら兄貴だって、いつか、愛想つかしたり、放っておきたく、ならない?」
「……めぐみちゃん」
「ケンショーは言ってたよ。自分はそれでも長男だから、期待されちゃって、部屋なんかも、頼みもしないのに、妹より大きくて、とか、妹に、結局、自分ができないことを押しつけてしまったみたいだ、って」
「あの馬鹿が、そんなこと言った?」
「時々」
「そうね言うかもしれないわ。だってあいつは、実際そうだったもの。どんなにあたしが真面目にがんばったところで、何のもめごとも起こさないで、いい子で勉強もできて、ちゃんとしたとこに就職できたとこで、うちの連中は、あたしにいつか頼ろう、なんて絶対思わないわ。それがいいか悪いかはおいておいて、あいつに頼るか、そうでなきゃ、自分たちで何とかするか、なのよ。老後の心配とかもね」
吐き出すように、彼女は言った。
「あたしは、いつも期待なんかされなかったから。自由にさせてくれたわよ。自活の道を見つけてさっさと独立しろ、ってうちだから」
「美咲さん」
くくく、と彼女は顔を隠して笑う。
「いい気味、と思ったわよ。その時にはね。だってそうじゃない」
「……」
僕は困った。困ってしまった。だって、今まで見てきた、彼女の中に、こんな嵐があるとは、思わなかった。
僕は椅子から腰を浮かすと、テーブルの向こう側の彼女の手に触れた。
彼女はふっと顔を上げた。泣いてるか、と思ったんだけど、そうではなかった。そんな跡は、どこにもない。
「どうしたの?」
彼女は僕の手を掴んで、僕をまっすぐ見た。何を言ったらいいのだろう。
「……暖かい」
「お茶が温かかったからね。寒いの?」
どう答えたらいいのだろう、と考える間もなく、僕はうなづいていた。寒いのは、どっちなんだろう。僕だろうか。彼女だろうか。
彼女は手を握ったまま、そのまま僕の前に立った。そして目を閉じると、軽く上体を曲げた。握っていない方の手が、僕の頬をくるむ。温もりに、僕は目を伏せる。
奴とは違う。だけど、確かにそれも。
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