第36話 「逃げてきたの?」

 本当に、肌寒かった。

 風が冷たかった。

 どうしよう、と思った。

 もう一枚上着を持ってくれば、良かったかもしれない。

 でも、一度出たのに、戻るのは、嫌だった。

 ここで戻ったら、僕は出ることができなくなる。そして次に出るのは、きっと、彼に捨てられる時なんだ。

 それだけは、嫌なんだ。

 でも、本当に寒い。

 こんな時間じゃ、何処の店も開いてないだろう。コンビニは…… でも近所のコンビニに行っても仕方ない。

 ……って、一体、僕はどこに行こうというんだろう。

 出たはいい。だけどどこへ行こう。行くあては無かった。

 肩にかけたバッグをぐっと掴むと、僕はとにかく歩き出した。

 歩いていれば、そのうち身体が暖まるだろう、と思った。思わない訳にはいかなかった。

 考えるな。今考えたら、凍える。

 今が春であっても、今何かを考えたら、僕は凍えてしまうだろう、と思った。

 やがて上った朝日が、次第に熱を持ち始める。そしてまぶしい。

 どのくらい歩いたろう? 

 そこにあった公園にふらふらと僕は入って行った。座れるところというのが、都会ではどうしてこうも少ないのだろう。だから皆、地べたにそのまま座り込むんだ。きっと。

 自販機の濃いミルクティを買って、両手で持ちながら、それを僕はゆっくりとすすった。

 考えるな、と自分に命じた頭は、何となくぼうっとしている。順序だった考え方ができない。

 今は何時だろう。公園の外の道を、学校へ行く子供達の集団の声が聞こえてくる。僕はそれでも身動きもできずにずっとそこに座り込んでいた。お腹も空いてるのかもしれない。

 昨日は確かに一生懸命食べたけれど。それでも朝が来れば目は覚めるしお腹は空くんだ。僕は妙におかしくなる。

 凍り付いていたような目のあたりが、ゆっくりと解けだしてくるような気がした。苦笑いをする。せずにはいられない。

 さあどうしよう。とりあえずは、何か食べなくちゃ。

 そう思って僕は立ち上がり、公園を出ようとした。

 と。

 出ようとした僕の足は、その場に釘付けになった。


「美咲さん……」

「やっぱりめぐみちゃん? なのよね? どうしたの? こんな時間に」


 通勤用の服に、サンダルをひっかけている。ずいぶんと急いでいるような、姿。今の今まで、会社に行くしたくをしていたのだろう。


「どうしたの、って…… 美咲さん、今から会社でしょ。急がなくていいの?」

「ちょっと…… 何、言ってるの?」


 どうしたというのだろう。どうして、そんな風に、兄貴と何処か似た綺麗な顔を、歪ませてるんだろう。


「こっち、いらっしゃい!」


 彼女は僕の手を思い切り引っ張った。何って力だ。それとも、今の僕には、女性の、そんな力に抵抗する程にも、力は無いというのだろうか?

 ぐいぐい、と引っ張られるようにして、僕は彼女のマンションにと連れて行かれた。兄貴のものとは違い、割と新しく、小ぎれいな、白いクリームの様な壁の。

 扉を開けたら、女の人の部屋のにおいがした。化粧品や、シャンプーや、それに彼女自身の、何か。


「美咲さん」

「ほらこれ持って!」


 彼女はクローゼットからバスタオルと大きめのTシャツを取り出すと、僕に押しつけた。


「……どうしたのいったい」

「いいから。とにかく、シャワー浴びて」


 何だろう。とにかく、僕は言われるままに、手渡されたそれを持って、バスルームへ入っていった。


「使い方、判る? ……ああ、シャワー出せばいいだけだからね。そうしてあるから、適当に、使って」


 適当に、って。


「脱いだらそこに入れておくのよっ」


 有無を言わせぬ口調で、彼女は僕に命じる。

 とにかく今逆らったところで、僕には何も反論ができないのは確かだ。だったら、仕方がない。

 ごそごそ、とケンショーのところよりはずっと広い風呂場の脱衣場で、僕は服を脱ぎだし…… 彼女が何を言いたかったか、理解した。

 思わず手で口を塞ぐ。そんなことも、気付かないほど、僕は呆けてたのか。

 

「乾燥機、もう少しで仕上がるから、もう少し、そのままで居てよね」


 風呂から出ると、美咲さんはいつの間にか、通勤用の服から、部屋着に着替えていた。


「仕事は?」

「あたしは今日は、いきなり風邪を引いたのよ」


 そう言いながら、彼女は長いTシャツ一枚の僕をタオルや毛布でくるむと、テーブルの前につかせ、次々に見事な朝食を用意した。

 ミルクを半分入れたコーヒーが湯気を立てている。チーズを乗せたトーストをオーブントースターから出し、フライパンからは、半熟のスクランブルエッグ。電子レンジがチン、と音を立てると、ブロッコリが湯気を立てる。そこにマヨネーズをくるり、と彼女は乗せた。


「ほら食べて。食べるの」


 食欲は。風呂から上がったばかりだし、あまりない、と思っていた。

 だけど、ふわふわと金色に輝くスクランブルエッグを口に入れた時、僕は自分がひどくお腹が空いていたことを思い出した。

 チーズトーストを二枚と、コーヒーのお代わりをし、デザートのフルーツヨーグルトをたいらげてしまうまで、僕はものも言わずに、ただひたすら食べていた。ひどくそれが美味しかった。身体の隅々まで行き渡るように、美味しかった。


「もうコーヒーはいい?」


 何も言わずに、時々音を小さくしたTVの画面を眺めながら、ミルクティを口にしていた彼女は訊ねた。僕はもういい、と答えた。


「そう。ならよかった」

「……ごちそうさま、でした」


 ぺこん、と僕は頭を下げる。


「服…… もう乾いたかな……」

「逃げてきたの?」


 不意に彼女は問いかけた。はっとして僕は彼女を見た。


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