第35話 扉の向こうで、かちん、と小さな音が聞こえた。
「だからそんな、慣れないのに呑むな、って言うのに」
「あんたが言っても説得力ないよー……」
へろへろになりながら、僕はそれでも奴に支えられて、部屋まで戻ってきた。
だけど頭は、嫌になるほどしらふのままだった。逆効果のように。
「ほら、ちゃんと座って」
「んー……」
甘えてみせる。だけど頭はひどく冷ややかに、今の自分を感じている。
「ケンショー……」
「何?」
台所に立つ奴の背中に、僕は言葉を投げかける。
「メジャーに行って、あんたどうするつもり?」
「そりゃあ決まってるだろ」
「どう決まってるのさ」
何だよずいぶん絡むなあ、と言いながら、彼は僕にコップに水を一杯入れると、渡す。
「お前とっとと寝た方がいいよ」
「聞いてるんだよ僕は」
受け取った水に口もつけずに、僕は彼に問いかけた。しょうがないな、という顔で、奴は僕の斜め前に座りこんだ。
「何って。やることは一つしかないだろ。いい曲作って、ライヴやって」
「それだけ?」
「それだけだろう? 結局は」
結局は。奴の頭の中では、その他のことは、些細なことなのだろう。
考えても仕方ないことだと、はっきりしないものごと、近眼のこいつには、見逃されてしまう物事なのかもしれない。
だけど僕にしてみたら。
「CDを出して? もっと大きなところでライヴをやって?」
「結果だろ?」
そういうことを、聞いてるんじゃないんだ。僕は水を一口飲み干す。
こいつには、僕の不安は判らない。絶対に。
絶対に。
コップが手からすべり落ちた。
「おいめぐみ、水……」
拾おうとした奴の顔を、僕はいきなり引き寄せた。唇を押し当てた。どうしたんだよ、と言おうとする奴の声を、せき止めた。
でもその近眼の目が、どうしたんだよ、と訴えてる。だから僕が目をつぶる。
どうしようもない、何かが自分の中で、沸き立っていた。酔っていたせいもある。確実にある。
飲み屋で、皆でいい気分になって、僕等は話していた。
上手く行くとは限らないけど、なんていちいち枕詞をつけたりして、夢みたいなことを次々と口にした。
もっと大きなライヴハウス、TV局の持ってる、ホール並の客が入るライヴハウスで絶対やりたいよな、**公会堂を埋めたいよな、CDを出すんだったら、今度はちゃんとスタジオでジャケ写真を撮ろう。
そういえば僕はずっと、あの写真をカバンの底に沈めたままだった。
ケンショーもオズさんも、結構な量呑んでいた。
普段僕やナカヤマさんのために抑えていたのが、弾けたかの様に。楽しそうで、楽しそうで。
楽しそうすぎて。
飲み干したファジイネーブルの甘味が、妙に冷たくて。
頭の後ろがすうっと寒くなってきた様な気がして。
ぽつん、と。
そんなところに出て僕は。
あのカナイの言ってた言葉が、今更の様に、頭の中にぐるぐるとよみがえった。
俺には伝わってこないの。
それはそうだ、と僕は思った。それはずっと、自分自身にも隠していた感情。僕にそんな歌が、歌えるはずが無い。
カナイの歌は、声は、何かを伝えたがっていた。
声に、歌に、音に、コトバに、それはあふれていた。
受け取る、この身体に、感じられた。
声は正直だ。音は正直だ。ケンショーのギターは、奴が伝えたいことを、そのまま、聞くひとの身体へ届ける。
受け取る用意のある人もそうでない人も、その首を掴まれて、ぐい、とこっちを向け、この音に耳を向けろ、俺の言うことを聞け、とばかりに。
だけどそれは僕には無い。そうだ当然だ。
だって、僕に、歌いたいことなんて、無いじゃないか。
歌うのは好きだ。だけど、僕はただ歌ってるだけだ。伝えたい何かがある訳じゃない。ケンショーの音から、言葉を張りめぐらせて、それらしく、さえずってるだけだ。
歌ってるフリだ。
そうだずっと、僕は知ってた。知ってたけど、ずっと、知らないフリをしていた。
何だろうな、と思ってることは、判る。
触れている唇から、伝わってくる。それでも奴は、僕がそうしたがってるのなら、その大きな手で、迷わずに僕に触れてくるだろう。そして僕はその温みに、眠くなりそうな程の心地よさを感じる。
心地よい。どうしようもなく、心地よい。
それがあれば、どうだっていい程に、気持ちいい。
それが、僕ではなく、僕の声に捧げられたものであったとしても、僕はそれを手放すのが、嫌だったのだ。
ぎゅ、と僕はケンショーをまっすぐ抱きしめる。すると奴も同じ様に、抱きしめ返してくる。
今まで何人の、こんな声の奴に、そうしてきたというのだろう。きっとそれは、いつも同じ様な声で。
そして、やっぱり、気付くんだ。
奴が必要なのは、声であって、僕じゃあない。
メジャーへ行って。ケンショーは、僕が、それについていけると思ってるのだろうか。
ああそうだ、奴はきっと信じている。自分が見込んだ声だから、そうできると思っている。
だけど奴は、気付いていない。僕は人間だ。声の入れ物じゃあない。
僕がどんな気持ちで歌ってるか、なんて、彼は考えてないんだ。
でも奴が気付かなくても、聞いている誰かは、絶対気付く。カナイの様に、誰かしら、絶対。
だけど、それ以上のことなんて、僕には。
声を上げながら、僕の頭の半分は、バンドに入ってからのことを色々思い出していた。
どうしてそんな風に、浮かぶのか、よく判らなかった。
でも確かに、それは楽しいことだった。
楽しいことの方が多かった。
歌うことは楽しかった。
メイクをして、派手な服を着て、それまでの自分とは違う自分で、人前に立つのも楽しかった。絶対できないって。そんな、人前で、自分の男に、キスしたりするなんてことは。
夏の暑い日の、冷房の壊れたスタジオ、どうしようも無く暑くて、だらだらと汗を流しながら、それでも時々廊下に避難したりして、それでも割引にしてくれた時にはケンショーは喜んだ。この男は本当におかしい。どうしてそんなところに妙に細かいんだろ。
オズさんの友達の紗里さんにはやっぱり結局顔を合わせることもなかったけど、料理は上手い人のようだ。だって、時々オズさんが集まった時に作ってくれるつまみは、結構紗里さんから教わったものだっていうもの。
結局ナカヤマさんとは平行線のままだった。もっとちゃんと話してみたかったな。
……話してみたかった。
過去形に、なってる。
思わず、目を開ける。最初に彼を誘った時の様に、窓からは月の光が入り込んでいる。天井の板の目が見える程に。
ああああああ、と自分の喉が発する声が他人事のようだった。
ぐらぐらと頭を振って、慣れた、鋭い、どきどきする、そんな快感に落ちていきそうな感じを覚えながら、もう一人の僕は、その月の光と同じくらいに冷えていた。
*
ゆっくりと、毛布の中から、這い出す。掛けられている腕をそっと外す。目を覚まさせてはいけない。
明け方の弱い光が、窓から射し込んでいる。この部屋は、南東だから、日が昇ると一気に光が差し込んでくるだろう。そうすると、奴も目を覚ますかもしれない。ほら何だかんだ言って、こいつの何処かが真面目だから。
でも、それまでは、起こしてはいけない。
ぽろん、と頭の中で、ピアノの音が鳴っている。
どうしてなのか、判らない。
カナイのことを思い出してたせいだろうか。あの時のピアノの音が、耳について離れない。
あの時のベーシストは、亡くなったというひととどういう関係だったのかは判らない。だけど、その音は、確かに、そのひとを思っているというのが判って。
カナイの歌には、ケンショーのギターには、きっとコンノさんの声もそうなんだろう。
そして僕の中には、何も無いから。
僕は、ケンショーが、メジャーに行くというなら、もう、このバンドで歌うことは、できない。
だって、ケンショーが必要なのは、声だから。
きっと彼は、僕がその場所に合わないと思ったら、容赦なく、次の声を探すだろうから。
彼は、そういうひとだから。
のよりさんの声が頭に響く。
仕方がないくらいに、彼は、そういう人だから。
弱い光を頼りに、僕は流しで濡らしたタオルで軽く身体を拭くと、それを洗濯のかごに畳んで入れた。
服を身につけると、カバンを取り出した。財布はある。スケッチブックはどうしよう。カードとか、通帳とか、そんな細々したものは、全部この中にいつも放り込んでいた。
何か他に、大切なものなんてあっただろうか。
大げさな荷物なんて、作れない。
そして僕は、スケッチブックの一枚をそっと引き裂くと、その上に4Bの鉛筆で、書いた。
「さよなら」
そう書いて、その上に付け足した。
「今まで・ありがとう」
その紙の上に封の切ってない煙草を置く。僕は髪をかきあげる。よく眠っている奴の姿を眺める。
楽しかったんだよ。僕は。確かに。
あの毛布の中に戻れば、まだ暖かいのは確かなんだけど。今外に出れば、明け方は、とても寒いのは確かなんだけど。
それでも。
少しでも、あんたに、僕が相談できれば良かったのかもね。
でも僕は、知っていたんだよ、ケンショー。あんたには相談したって、どうしても判らないことが、あるんだって。
あんたには、どうしても理解できないことがあるんだって。
だから。
音を立てないように、ゆっくりと僕はカバンだけを持って、扉を開けた。そしてカギを、新聞受けから中に入れた。
扉の向こうで、かちん、と小さな音が聞こえた。
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