第34話 メジャーデビューに足がかり。

 それは唐突だった。


 RINGERに入ってから二つ目の冬を越えたある日。いつもの様に、ライヴを終えた…… つもりだった。

 少なくとも、僕は。


   *


「お疲れー」


 機材の片付けをしていた僕達のところへ、その日演奏したライヴハウスのマスターが声を掛けてきた。


「お疲れさまです」


 僕はケーブルを巻き戻しながら、顔を上げた。

 このライヴハウスに出た時には、メイクを落とす暇がない。

 と言うか、スペースが無い。演奏前に、通路の空いてるところを探したり、トイレの鏡に向かって、大急ぎで顔を作る。

 しかし男子トイレの鏡に向かって顔を作る、というのは妙な感じだ。後から入ってきた奴は、だいたい首をひねる。ここがライヴハウスだからまだいいが、これが他の場所だったら…… よそう。想像するのは。


「Kちゃん、ケンショーは?」

「あ、あっち」


 しゃがみ込み、両手がふさがっていたので、失礼かな、と思いつつ、首を振って奴の居る方向を示した。


「どうしたんですか?」

「ん? いや、奴に会いたいって人がいるからさ」

「ケンショーに?」

「つーか、君らの代表、ってことだけど」


 何だろう。僕はくるくると巻き取ったケーブルを束ねながら思う。立ち上がって、奴が呼び止められる様子を僕は眺める。あと頼む、とケンショーはオズさんに言うと、マスターの後について行った。


「オズさんオズさん」


 僕は奴の姿が消えてから駆け寄った。


「ねえどうしたの?」

「……んー…… 何だろな」


 オズさんにも何のことやら、合点がいかないようだった。


「でも、ケンショー、何か笑ってなかった?」

「めぐみちゃんは目がいいなあ。そう言われればそうだった様な気もするし」

「あ、それ俺も見たよ。確かに奴、何か嬉しそうだったぜ」


 ナカヤマさんまでがそんなことを言う。一体何があったというのだろう。

 だけどその疑問には、すぐに答えが出た。

 予想に反して、奴は実に仏頂面で戻ってきた。どうしたのかな、とちょっと心配になってその様子を眺めていると、奴はいきなりにやりと笑った。


「どどどどどうしたの」


 面食らった僕は、久しぶりに驚いてみせた。ふっふっふ、と奴はそのまま顔に笑みを浮かべる。何となく、不気味だ。

 そしてそのまま、僕の首を抱え込んで、人目もはばからずに頬にキスした。


「ななななななんなんだよっ!! いきなり!」


 僕はばたばた、と奴の腕の中で暴れる。ケンショーのこういう行動には慣れているオズさんも、こんな、ステージでもプライベートでもない場所で人目もはばからない行動に、目をむく。


「おいオズ、ナカヤマ、今日、呑みに行こうぜ」

「呑みに?」


 珍しいことだ。僕は腕の中からようやく逃れて、息をつく。


「うん。呑み」

「俺ら大して飲めないぜ?」

「じゃメシ。何でもいい。とにかく行こうや」


 明らかに、上機嫌だった。こんな上機嫌な奴、見たことが、ない。



「メジャーぁぁぁぁあ?」


 声を上げたのはオズさんだった。

 結局、いつも「表で」打ち上げをするところに僕等は落ち着いていた。いや定食屋ではない。もうこの時間じゃ閉まっている。だから、単品が安い、チェーン店の飲み屋だ。ケンショーが普段、バイトに出てるような、そういうところだ。

 僕はお腹が空いていたので、とにかく腹にたまるものを頼んで、呑みもせず、ただ食っていた。

 そこでいきなり、奴が切り出した。


「さっきの客、PHONOフォノの人だぜ」


 ぶ、と僕は口にしていたウーロン茶を吹き出しそうになった。


「PHONOって、ケンショー、冗談と違う?」

「馬鹿やろ、俺はコンノじゃねーんだ。冗談は上手くねえ」

「確かにそうだな」


 うるせえ、と自分で振っておきながら、突っ込むオズさんにケンショーは切り返した。


「で、そのPHONOの人が、どうしたんだよ」


 ナカヤマさんは冷静に訊ねる。そうだ確かにこれは、冷静にならなくてはならないところだ。


「お誘い」


 短くケンショーは言った。


「お誘い、って」

「だから、ウチの音が面白いから、メジャーに出てみる気があるなら、事務所を紹介する、ってそういう話」

「って……」


 ぱん、とオズさんは手を叩いた。


「やったじゃんかよ!」


 ふふーん、とケンショーはその様子を見て、ビールのジョッキを掲げた。


「それでお前、今日呑もうって言ったんだ」

「珍しいと思ったら」


 うん確かに。でも僕としては、少し意外だった。だって、彼がこんなに喜ぶとは思っていなかった。

 そんなに、メジャーに行きたかったなんて。

 ―――いや、違う。僕は知ってる。

 改めて皆でそれぞれ好きな酒やらジュースやら何やら注文して、乾杯の音頭をとった。


「もちろんそれで安心していいってことじゃないんだぜ?」


 ケンショーは言う。


「だけど、とっかかりだ。それが、とにかくあっちからこっちへやってきたんだ。それは確かなんだ」

「ふふん。後は俺達次第って訳ね」


 オズさんも嬉しそうだ。この人も確か、メジャー指向だった。そう聞いたことがある。そしてナカヤマさんは。


「どうしたの、お前嬉しくないの?」


 オズさんはさすがに気がついて、そう彼に訊ねた。


「や、嬉しいよ、でも」

「でも?」

「ちょっと、不安になって」

「何でえ、気弱でやんの」


 げらげらげら、とケンショーは笑う。

 珍しく財布の中身を気にせずにどんどん料理を注文する。僕はどんどん運ばれてくるそれに少しづつ手をつけながら、それでもこの浮かれた雰囲気に自分にはまっていくのに気付いた。


「……あ、すいません、ファジイネーブルお願いします」

「お前大丈夫なの?」


 ケンショーは訊ねる。そりゃあそうだ。最初に会った時に、これを呑んだおかげて、彼と出会ってしまったのだから。


「いいよ、ぶっ倒れたら、あんたが連れて帰ってくれるんでしょ?」

「言うねー、めぐみちゃん」


 オズさんもげたげたと笑った。

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