第32話 これは、彼の声だ。彼のうただ。

 水曜日、僕はACID-JAMに居た。

 何故かその日、ケンショーにはそこに行くとは言えなかった。

 別に言ったところで何かある訳ではない。だけど、何故かあの高校生と話したことを、彼に言いたくなかったのは確かだ。

 ナナさんにも何も言わず、当日券を買って入った。素顔だし、地味な格好をしていたから、あの時のカナイというSSのヴォーカリスト同様、僕がRINGERのKということは気付かれはしない、と思った。

 何かすごく久しぶりだった。客としてそこに居るのは。

 この日は、三つくらいのバンドが一緒に出ていた。SSは二番目だった。まだ本当に出たばかりのバンドだというから、そういう位置なのだろう。最初と最後のバンドの名は僕も聞いたことがある。このライヴハウスの常連だ。

 だけどどうも、時間が経つにつれて、フロアを埋めだした客のかなりが、SS目当てで来ていることを、僕は次第に気付きだしていた。

 客層。若い女の子が多い。彼女達は一番新しくて尖ったものに敏感だ。

 聞き耳を立てる。その会話の中には、僕も名をよく知ったメジャーのバンド名に混じって、聞いたことがないインディーズのバンドの名が飛び交う。

 この間は――― のライヴに行って、そこの――― 君の服がどうの、ステージでこけたの、ヴォーカルとギターが接近しただの肩を組んだだの、それに対してベースシストが何か少し奇妙な視線を送っただの。

 僕にしてみれば、どこまでが本当でどこまでが妄想だか判らない会話だったが、彼女達はそんな話を延々としている。そのエネルギーがどこから来るのだろう。

 待ち時間は退屈だ。一人で居るとなおさらだ。ジーンズのポケットに手を突っ込んで、床の端の段差に座り込む。誰の選曲だろうか、一昔まえの洋楽が延々スピーカーからは流れている。

 やがて客電が消え、最初のバンドが出てきた。案の定、あの女の子達は、そのために前へ突っ込んだりはしない。あちこちに置かれている丸いテーブルに肘をついて、時々くすくすと笑い合っている。

 目障りだろうな、と僕はふと、ステージのヴォーカリストに目をやる。一生懸命歌ってるのに。

 でもそう考えてる僕自身、別にその音にも声にも惹かれるとこがないから、立ち上がることもせずに、ぼんやりと音が流れていくのをそのままにしている。

 つまりは、それが音の持つ力なんだろうとは思うんだけど。

 全部で八曲くらいやったのだろうか? 途中から曲数を数えることも忘れてしまった。眠くなりそうだった。

 退屈だ、と僕はそれでもまた次のバンドの準備の間に流れる音を聞きながら思った。今度は、何故かピアノ曲が流れていた。


「あ、この曲好き」


 丸テーブルで話していた女の子がそうつぶやく。そう大きな声ではなかったけれど、妙にその声が僕の耳についた。


「知ってんの?」


 連れの女の子は訊ねる。


「何かー、誰かは忘れたけど」


 そう言われてみたら、確かに何処かで耳にはしているクラシックのピアノ曲。タイトルも誰のものかも出てこないけど。

 さっきまでのバンドが、中途半端ににぎやかな音で、それを好きな客が踊っていたような状態だったから、客の入れ替えにはいい感じなのかもしれない。

 女の子達はそのままテーブルを離れると、羽織っていた長袖のシャツを取って、腰に巻き付けた。中からは派手な柄の、ぴったりした半袖のTシャツが現れる。ふわふわした髪を、後ろできゅ、と結ぶ。僕はその様子に目を見張る。戦闘準備OK、という感じだ。

 よく周りを見てみると、皆そんな感じだ。次第にそんな女の子達が、前へ前へと移動している。僕はふらりとその場に立ち上がった。

 やがてまた客電が消えた。ピアノ曲はまだ続いている。

 そしてステージが明るくなり、のっそりとメンバーが歩いてくる。四人編成のバンドのようだ。ドラマーがまずゆっくりと配置についた。そして次にベーシストが出てくる。小柄な、……これも、高校生? ベースが重そうに感じる程に、華奢な。でもベーシスト。とすると、この間ピアノを弾いていたのはこの子だろうか。マキノくん、と声が飛ぶ。呼ばれた本人は、そんな声は耳を通り過ぎていくように、何処かを向いている。

 次にギタリストが入ってきて、ベーシストと同じくらいに声が飛んでいる。このひとは高校生ではなさそうだ。もう少し…… そう、僕くらいの年齢に見える。

 そして不意に、そのギタリストが弾き出した。はっ、として僕は顔を上げる。かきむしる様な音が響き、そこへベースが絡み、リズムがそこへ叩き込まれた。女の子達の声が高くなる。


 と。


 いきなりステージの左から駆けだしてきた姿があった。ほとんど飛び跳ねる様な勢いで、彼は現れたのだ。

 カナイだ、と僕は気付いた。確かに、あの時の彼だった。

 別に特別目立った格好はしていない。そりゃあ無論普段着ではないだろうが、だけど別に衣装らしい衣装、という感じでもない。黒い皮のパンツに、ただの大きめの白シャツを、裾をひろげ、袖をまくり、ボタンを上から三つほど外した、そんなシンプルと言えばシンプルな格好で。

 マイクを両手で掴んだ彼は、声を飛ばした。

 僕はそして、立ちすくんだ。

 まっすぐ、その声が、響いてくる。思わず僕は、近くの鉄柵を掴んでいた。何か掴むものが、欲しかった。

 別に好きなタイプの曲じゃない。上手いかどうかなんかなんて、さっぱり判らない。

 でもこれだけは判る。声が、突き刺さる。

 言葉の一つ一つが、判る。聞き取りやすいとか、詞が上手いとか、そういうことではなく、ただもう、コトバが、そのまままっすぐ。

 かっと目を見開いて、彼はただひたすら、言葉を吐き出していた。その目は座っている。こんな位置から見ても判る。怖いくらいに。

 ふらふら、と僕は前の集団に近寄って行った。女の子達が押し合いへし合いしている。踊り狂っている。笑っている。

 彼女達は強いリズムの中で、ダンゴの様になっては、それでもその状態を延々続けている。すきまに入ろうとする僕など、押しつぶされそうな勢いで。

 そしてその女の子達を、(時には男も居たけれど)カナイはにらみつける。決まった動きなどない。カナイはもう、ひたすら、声を前に前に叩き込むことだけを考えてるに違いない。

 だけど歌が切れる時、彼はせわしなく動きだす。落ち着かない。あっちへ駆け出しこっちへ飛び跳ね、めまぐるしい。そしてその姿から、目が離せない。決して曲は好きなタイプじゃないというのに!

 そんなことをしているからすぐに汗びっしょりになって、それでも若いからだろうか、息も切らさずに、これでもかとばかりにどんどんテンションを上げて、声を張り上げ、口からやや離さないとマイクの音が割れる程のヴォリュームで。

 僕はその中で、どうすることもできず、ただ立ちすくんでいた。右に左に揺れる集団の中で、押されつぶされしながら、どうしようもなく、立ちすくんでいた。


 だって。


 僕は轟音の中で、奇妙に冷静になって内心叫んでいる自分に気付く。


 これは、彼の声だ。彼のうただ。


 誰かに歌わされてるのではなく、誰かの音を声にしているのではなく、ただひたすら、自分の中の何か、を外に引っぱり出して前に投げつけてる、彼自身の、うただ。


 それじゃあ僕は、何なんだろう。

 僕は僕は僕は僕は。

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