第14話 「似合う?」
何でこんなに自信が無いのは判らない。何とかしたいとは思う。ただ、足がすくむのだ。
何か、確かなものが欲しかった。それがその時の、僕の正直な気持ちだった。
だから、その時その服を買ってしまったのかもしれない。
買ってきて、夕方、さっそく僕の、相変わらず何も無い部屋で、衣装合わせをしてみた。
予算の問題もあったから、そう高いものは買えない。
印象の強いデザインのものは、あの店で買って、あとは、周りのも少し普通な店で、似たデザインのものを安く探し回った。探せばそれなりに結構あるものだ。
でも、さすがに網あみの袖無しのシャツとか、靴下を試着した時には、自分でも参った。
その上に艶のあるエナメルの、やっぱり袖無しのベストや、短パンをはいたとは言え、風呂場の鏡に遠く映る自分が、いったい誰なんだ、という気になったのは間違いない。
落ち着かないままに、じっと僕は鏡の中の自分をのぞき込んだ。
その表情に何となくアクセントが足りない様な気がして、この間美咲さんがくれた茶色の紙袋を開けてみた。
中には化粧品が入っている。彼女がOLとして自分にはまるものを「研究」したおりの残りだ、と言っていたが、僕はその中で、一番濃い茶色の口紅を取り出すと、くっ、と自分の唇に乗せた。
それを薬指で撫でる。下唇が急に厚くなったような気がした。
「どお?」
僕は不意に彼の方を振り向いた。
「似合う?」
その時僕は、自分がどんな顔をしていたのか、判らない。
ただ判っていたのは、それがスイッチだった、ということだけだった。
それは、僕が入れたのだ。他の誰でもない。
正直言って、ためらいはあった。ありすぎるほどあった。
一応僕は高校時代、いいなあと思っていた女の子は居たし、先輩の女生徒から、キスされたこともあった。
だけど男は無い。考えたことも無い。
周りの連中だってそうだった。口をついて出るのは女の子の話だし、したいと思う話はしても、されたいという話は聞いたことがない。
いや、口に出さないだけかもしれない。だけど、口に出さない、ということが、僕等の間では、何となく決まっていたような気がする。わざとじゃあないにしても。
僕は、と言えば。
最初にケンショーに抱きつかれた時に、びっくりはした。変だとは思った。だけど嫌だとは思っていなかった。
本当に嫌だったら、何か、身体は反応するはずだ。鳥肌が立つとか、逃げようとするとか。だけど奴に関しては、不思議なほど、それが無かった。
それが何故なのか、僕には判らなかった。
*
目が覚めると、辺りは暗かった。窓の外の常夜灯の光のせいで、部屋の中に何があるかくらいは判るけれど、何があるかくらいしか判らない。
蒸し暑い。夜だからまだましかもしれないけれど、夏は夏なのだ。窓を閉めてあるから、風が通らない。僕は窓を開けようと、身体を起こそうとする。……と、起きない。
腕が背にかかったままだった。暑いのはそのせいもあったんだ。
自分と相手の、体温と汗のにおいが、むん、と感じられる。こいつは暑くないんだろうか。
それでもゆっくりと、相手の腕を背中からはずすと、僕は起きあがり、立てひざで、窓を少し開けた。網戸になっている窓からは、ほんの少し、なま暖かい風が入ってくる。
それでも汗をかいた身体には、その風が心地よかった。
汗を……かいたんだ、とその時僕は思い出す。下唇に手を当てる。もう口紅がついている様子はない。
だけどその時、何がどうなったのか思い出して、僕は目を瞬かせる。
誘ったのは、僕だ。
似合う? と訊ねた僕に、ケンショーは似合う、と答えた。それだけだった。
だけどその僕の問いの中には、明らかに誘いの色があった。
具体的にこうなる、というのまでは感じていた訳じゃあない。さすがに何をどう「される」というのは、僕の想像外だった。
だけど「されたい」という気持ちが、その時、鏡の中の自分を見た時生まれたのも確かだ。ぎゅっと抱きしめられて、あちこちに触れられたい、という「されたい」願望。
奴はその誘いに乗ってきた。
驚く様子は無かった。僕を引き寄せて、ライヴの前の時の様に、いきなりキスをした。だけど違うのは、その時より、ずっと長いものだったということだ。
長いキスを、何度か繰り返した後、僕は奴の背中に手を回した。初めてだ。僕がそうするのは。
奴はせっかく着たばかりの僕の新しい衣装を、破らないように脱がせると、畳の上に広げた腕の届かないところへと投げた。
それから、のことはあまりよく覚えていない。目を伏せてしまったせいだろうか。
耳の後ろから首すじにそって、ゆっくりと、髪をかきあげる感じに何度も何度も撫でられた時に、じんわりとした、しびれにも似た感覚が肩から胸や腕に走ったとか、胸に当たった塗れた感触が動くたびに、腰の辺りにぴりぴりとした感覚が走ったとか、そんな断片的なことしか、僕は覚えていない。
だけどこれは覚えている。強くつかまれて、どうしようもなくて、はじけてしまった自分と、その後にあったことは。
想像してなかった。
いや理屈ではわかる。だって、それしかない。
だけど、じゃあどうやって、というと、僕の想像の外にあった。
だって。自分のもので考えても、そんな、無理だ、と考えるしかないじゃないか。女じゃあないんだから。女の、そのために作られた場所じゃあないんだから。
だからたぶんその時、僕は身体を堅くしていたんだと思う。
足の内側がまだ濡れていて、少しひやり、としていた。それが何でなのか、ぼんやりしていて僕には判らなかった。
後で冷静になって考えれば判るような、現実のひとつひとつのものごとが、僕の中で、その時にはつながって来なかったのだ。
濡れた何かが、そこに触れているというのは判る。でもそれが何なのか、僕には判らなかった。ただその濡れた何かは、はじめは周りをゆっくりと撫でていた。そうされているうちに、それは何だかひどく当たり前のような気がしてきた。
だから、それが中に入ってきた時も、それが当然なのじゃないか、と僕は感じてしまっていたのだ。
でも変な、感じだった。
自分の中で、何かが動いている。それは、すごく、変な感じだった。
痛くはなかった。少なくともその時には痛くはなかった。ただ、うろうろと僕の中でゆっくり、ゆっくり、でもかき回すように動くそれに、何かずっと気持ちが集まっていた。
と。その中の、何かの拍子に、僕は肩を反射的にすくめた。
動きが止まった。そして何かするっ、と抜き出される様な感触があって……その後に、少し押し広げられるような感覚とともに、入ってくるものがあった。だけど別に、痛い訳じゃあなかった。
痛かったのは、その少し後だった。
その前までの、何かとは、当たった感触が違っていた。
びっくりして、思わず身体に力が入る。すると奴は軽く目を細め、ふう、と軽く息をつくと、またキスをした。
繰り返されるそれに、ああこいつ巧いや、と僕は何となく考えを反らされた。そんなこと考えているうちに、身体の中に何かがめりこんできたのが判った。
そのめりこんできたものが、立ち止まっているのに、動いている。腰を抱え上げられ、合わせた胸の、そこから伝わる何かと、同じリズムだ。
僕は奴の首に腕を回し、ぎゅっと抱え込む。
落ちてしまわないように。
そんな言葉が頭に浮かんだ。何処へ? それは僕にも判らない。だけど、そうしていないと、何処かへ落ちてしまうような気がした。お願いだ、僕を捕まえておいてくれ。
そうして僕は、こう聞いたんだと、思う。
「……僕のこと、好き?」
そして奴はこう答えたと、思う。
「好きだよ」
ひどくあっさりと。当然のことの様に。
それでいいんだろうか、と頭の端で僕は思う。だけど頭の真ん中ではそれでいいんだと言う声が聞こえる。
ほら任せてしまえ。
それは心地よくないか?
自分のことを好きだと、はっきり言ってくれる相手の手は?
自分というものを求める、それの熱さは?
僕はその答えに対し、絡めた腕の力を強くすることで応えた。
その後のことはまたよく覚えていない。
ただもう、何度も、何度も、漏れてくる自分の声を持て余していたことだけが、記憶に残っている。そしてそのたびに、ケンショーは何かひどく楽しそうに感じられたのだ。
そしていつ終わったのだろう? 僕は気を失ったのか、それとも単に疲れて眠ってしまったのか、そのあたりもはっきりしない。
ただ一つ言えるのは、今は夜だ、ということで、隣で眠っているのは、僕を最初に抱いた男だ、ということだけだった。
少なくとも、僕のことを確実に好きな男、だった。
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