第9話 「妹と同じことを言う」

 少なくとも、それは路上で言うセリフではない、と僕は思った。だけど、では何処で言われればいいか、というと、それはそれで困る。


「痛」


 思わず左手の人差し指を口元にやる。ネーブルオレンジを切っていたので、その血にすらどこかオレンジの香りがするようだった。

 そういえば、ばんそうこうの一つも持っていないことに僕は気づく。仕方がないから、ティッシュを何枚か重ねて、その上に課題用のメンディングテープを巻いた。明日コンビニに寄って買わなくちゃ。

 四つ切りして、皮をむいたネーブルを口に運びながら僕は、動揺している自分を改めて感じた。

 ケンショーは否定しなかった。

 当然のことのようにあっさりと、僕のことも、声に惚れたから、人間にも惚れてしまったのだ、と断言した。

 どうしてそんなこと言い切れるんだろう、と思う。

 だって、声は声で、人は人じゃないか。外見とか趣味とか、話す内容とか、そういうのひっくるめて、それで好きな人は好きになるんじゃないんだろうか。

 少なくとも、僕はそうだった。

 中学や高校の時は、そうだった。可愛いと思った女の子も、可愛いだけでは好きにはなれなかった。

 僕は動揺しつつも、そういう意味のことを奴に言った。

 だが彼はこう答えた。


「だからさ、そういう色んなものが、全部俺には、声の中に聞こえる訳よ」


 よく判らない。その理屈。

 よく判らないから、僕はひどく動揺した。そしてその訳の判らない気分のまま、奴は僕を部屋の近くまで送ってきて、いつもの様にさっさと別れた。

 僕は余計に判らなくなる。


   *


「ケンショー、あんたって、ゲイ?」


 不意に僕は聞いてみた。

 駅前のファーストフード店の中でするにしては、かなりな質問だとは思う。周囲には、学校帰りの少年少女がいっぱい。特に注意したいのは、少女達。集団になると、恐怖すら感じるくらいのパワーがある。

 だいたい、さっきから、あの窓際のアイボリーのセーターの制服の集団が、僕等のテーブルにちらちらと視線をくれては、何かぼそぼそ言い合って笑ってることも知ってる。化粧けの無い、何かしゃべり方に特徴がある集団。「いまどきの女子高生」ではなく、どこか芝居かかった口調の。

 けどきっと、この近眼野郎には、そんな集団など見えないのだろう。

 駅前には何軒かファーストフード店があるのだけど、僕が入ったのは、その中でも一番安い店だった。と言うか、今日は安かったから入ったのだ。バーガーを二つとポテト、それにコーラのLを注文すると、適当な場所についた。


「唐突だな、あとりめぐみ」


 ケンショーもほとんど同じものを自分の前に置いていた。違うのは、彼の前に置かれているのはコーヒーだ、ということだけだった。

 長い、指輪を二つつけた指が、ポテトを無造作につまんでは、口に放り込む。安かろうが何だろうが、暖かいうちのポテトは美味い。


「唐突かなあ? だって、あんたがここ一ヶ月ほど、僕に言い続けてることって、結局、それじゃあないの?」


 翌日からゴールデンウイーク休暇、という日のことだった。

 彼が最初に僕を捜し当ててから、もう三週間がところ経っていた。

 僕はその間ずっと断り続けていた。とは言え、それが本当に断りの言葉に聞こえたのかは怪しい。だって、結局僕はこうやって、この男の前で食事なんかしてしまっている。

 だいたい、今から行こうとしているところなぞ、彼らの練習するスタジオなのだ。

 ケンショーはいつもこう頭に置いてから僕と歩いていた。


「別に嫌ならいいけど」


 別に嫌という訳ではないので、練習を見に行くのである。ヴォーカルを引き受ける引き受けないとは別の話なのだ。バンドの練習を見るというのは初めてだったし、そういう意味では興味はある。

 だいたい僕はまだ、この男が本当にギタリストなのか、頭の隅で信用できない部分があった。ギタリストと名乗って、誰かの演奏のテープを聞かせているだけなのかもしれない、という気もあった。

 テープに入っていた曲のギターについて言うなら…たぶん、結構あれは好きな音だ、と思う。

 僕はギターの音についてあれこれ言える程音楽を聴いている訳じゃあないから、「好き」か「嫌い」か「どーでもいい」としか答えられないけれど、その三つの中でどれか、と聞かれれば、その音は「好き」の部類だった。

 圧倒的に「どーでもいい」が多い僕としては、慣れてしまったとはいえ、珍しいことだ。

 でも「慣れる」こと自体、そうなるまで聞き込んでしまった、ということがすでに「好き」の部類に入っているのかもしれない。そう、あの演奏のギターは、僕は好きになっていた。

 ただ、そのギターと、この目の前の男がそのままつながるとは、まだ僕は信用していないのだ。

 あの歌は、とっくの昔に覚えてしまっている。歌おうと思えば、歌える。

 けどバンドのヴォーカルをする・しないとは別なのだ。

 少なくとも僕はそう思っていた。

 それに。

 それで最初の質問となる。


「ま、そりゃそうだけどさ」


 そう言いながら、奴はポケットからライターと煙草を出す。


「食ってる時に吸うなよ」

「嫌いか?」

「メシの時にはやだ」


 ふうん、と言いながら彼は一度出した煙草をポケットに戻した。


「妹と同じことを言う」

「妹さん、居るんだ?」

「ああ。あとりめぐみより、少し上だったかな? 頭いい奴でな」

「あんたには、似てないんだ」

「似てない似てない」


 目を細め、ひらひら、と彼は手を振った。


「俺なんかと違って、学校の時も優等生だったしなあ。最近OLになったけど、俺なんかじゃ絶対近寄れないような、ちゃーんとした企業にすんなり入ってる」


 へえ、と僕はうなづいた。


「あとりめぐみには、きょうだい居ねえ?」

「兄貴が居るけど」

「ふうん。それはいい」

「何が」

「あんた地元から離れてるだろ? 兄貴がまっとうだからそうやって自由なことできるんだろうな」

「そりゃ、そうだけど」

「妹はさ、俺がこうだから、羽目を外すってこと、しなかったね。全く」


 そう言って、彼はバーガーにかぶりついた。食わないの? とこっちにも訊ねたので、慌てて僕は手を出した。

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