第3話 ごはんをおごってくれる先輩
帰りがけに、玄関前の掲示板を見て行こうとしたら、知った顔があった。
いや、その人を見た途端、僕はそれが知った顔だと思い出した、というほうが正しい。
そしてそのひとも、僕に気付いた時、立ち止まり、少しだけ考え込むような顔になった。
チェックのシャツの袖をまくりあげ、長い髪を後ろでゆるく編み込みにしている、……たぶん先輩。先輩のはずだ。だってその人を見たのは。
彼女は眉間に指を当て、真剣に記憶をたどっている。呼び止められた訳でもないのに、何となく僕は足を動かすことができない。正直言って、僕の中でも、それが誰だったのか、気に掛かっていたのだ。
そしてその答えは、向こうから見せてくれた。
「……えーと…… もしかして君、こないだ、手続きに来た時に、あたしが絵の具こぼした子じゃない?」
「え?」
ばしゃ、と赤い絵の具が入ったプラスチックの椀が記憶の中でひっくり返る。
「あ、そーだ!」
知った顔が、記憶と結びついた。
「あの時はごめんね。あれからちゃんと染み、取れた?」
そう言いながら、彼女はかたかたと音をさせて僕の前まで歩み寄る。サンダルの音がむやみに大きい。思わず僕は勢いに後ずさりする。
「まあ、何とか……」
「それならよかった。何せあの時、君、生成にアラン模様のセーターだったじゃない。ほら、ウチの連中にありがちな派手ーっな服着てりゃともかく、何処の地味な子が、と…… おっとごめん」
彼女は失言、とばかりに口を手でふさぐ。そしてへへへ、と目を細めた。もともとが決して大きくはない目が、眠り猫の様に細くなる。
「でもさすがにトマトジュースをこぼした、って言い訳は通らなかったけれど」
「何、君、おかーさんにそんな言い訳したの?」
「……何となく」
そうあれは、入学手続きに来た時だった。
まだ三月に入ったばかりで、残りのような寒い日が続いていた。僕は気に入りの、生成地に所々ダークブラウンやブラウンの色でざっくりと模様の入ったセーターを着込み、その上にダッフルコートを着て手続きに来ていたのだ。
しかし中は暖房がちゃんと効いているビルだから、コートは手に持って。
その時彼女は、立て看板を書いていたのだ。白地のでかいボードに、赤と黒と青の字。何だろな、という好奇心が僕をその近くまで寄らせ……
彼女がよっこらしょ、と立ち上がった時、ちょうど腕が、僕の腕を直撃したのだ。
そしてその時彼女が持っていた赤い絵の具入りの椀が見事に僕のセーターを直撃した。ばしゃ。
驚いたのは、それを見たこの学校の生徒がいきなり「刺されたのかっ!」と叫んだことだった。何ですぐにそういう発想になるんだ、と僕が驚くより先に呆れたことは言うまでもない。
いや問題はそっちじゃなかったっけ。
「やー、それでもちゃんとこの学校入ってくれたのね」
そう言いながら彼女は両手でぽんぽん、と僕の肩を叩く。そう言えばこのひと、結構大きい。僕は小柄と言われるけれど、それでももうちょっとで170センチ近いというのに、それより何か少し大きそうだ。
ってことは170センチ越えてる?
「入らないと思ってたんですか?」
「や、あんなことあったし」
そういう問題ではないと思う。
「でもね、もしも入ってくれたんなら、一度ちゃんとおわびをしたいと思ってたんだよ」
「おわび? だってあの時も、先輩、ちゃんと何度も謝ってくれたじゃない。すぐに水飲み場まで連れてってくれて」
「あはは、それでセーターはぎ取ったのは確かにあたしだ。ドライヤーで乾かしたのもね。でも染み取れなかったし。いやあ、でね、後で言われたんだよ。またノゾエの美少年趣味が始まった、とかとうとう欲求不満でいたいけな青少年を路上でむいてしまったのか、とか」
「び、びしょうねん?」
それにいたいけな青少年ってのは何なんだいったい。
「君可愛いし」
「可愛くないですよっ」
「可愛いってば」
「……そんなこと言うなら、僕帰ります、さよなら」
あいにく可愛いと言われるのは好きではない。言われて良かったことがあった試しがない。
「あああああちょっと待って待って」
先輩は…… ノゾエ先輩というのだろうか。くるりと背中を向けて立ち去ろうとする僕の腕をすかさず掴むと、ずいぶんと強い力で引きとめた。
「まあまあまあまあまあまあ。そうさっさと逃げずに。だからお詫びに、ちゃんとまた出会うことができたら、ごはんの一食、お茶の一杯くらいはおごろうと思っていたのよ」
ね? と念を押す様に言う彼女に、僕が逆らえる訳がなかった。
*
ちなみに「ごはんの一食・お茶の一杯」は学校の食堂だった。
時間は夕方。そういえば帰りに何かごはん作る買い物をしなくちゃならないなあ、なんて考えていた時だったからちょうどよかったかも。
「……何か、人、多いですね」
昼でもないのに。
「ああ、ウチの学校は、課題で夜中まで残ってく奴が多いからねー」
「そうなんですか?」
「そうなのよ。よっと」
空いている席がちょうど二つあるところへ、彼女はバッグを投げた。
「ちょっとそこで待っててよ。A定食B定食どっちがいい? ああ、どっちも美味しいからどっちも取ってこよう!!」
彼女は一人でそう言い放つと、僕にその取った席を任せた、とばかりに食事を取る列へと突進して行った。何ってパワフルなひとなんだ。感動してしまうくらいに。
そして待ちながら、ぼうっと辺りを見渡す。実際ここで食事をしている人たちは皆、作業服みたいな姿だった。エプロンとか、上着とか。
「はいお待ち」
どん、と僕の前にトレイが置かれる。
「ん? こっちのほうがいい? ハンバーグのB」
「あ、コロッケは好きです」
コロッケがそうするとAなのか。付け合わせはサラダ。千切りキャベツではない。みそ汁がついてごはんがついて。僕は近くにあった業務用のソースに手をのばした。
「で、あらためて。君名前と専攻は?」
「あ、亜鳥恵です。グラフィックデザインに入ったんですけど」
「あとり・めぐみ」
彼女は僕の名前を噛んで含めるように繰り返す。
「やっぱり可愛いじゃない」
「だからあ」
「……わかったわかった、言われるの、嫌いなんだね。判った判った言わない。じゃあどっちで呼ばれたい? アトリ君? めぐみ君?」
「クラスの奴は、名字で呼びますけど」
「じゃあアトリ君。そーいえば、『ハイジ』にそんな名前の山羊がいなかったっけ」
僕は黙ってコロッケを一口食べた。
「あ、結構美味しい」
「でしょ。ちょっとでかいスーパーで売ってるちょっと高めのコロッケくらいには美味しいよね」
「先輩は?」
「え?」
「名前。ノゾエ先輩、でいいの?」
「あれ、あたし言ったっけ」
「さっき自分で言ったけど」
「ならいい。ノゾエ。ノゾエさんがいいな。先輩じゃないから」
「え?」
「あたし、学年は一年だよ」
「えええええ?」
「去年一年で、今年も一年。そう驚くほどのことはないと思うけど……」
そう言われれば、そうだ。
「インテリアデザイン専攻に居るんだ。ただ時々趣味が暴走しちゃってね。単位が足りなくて留年しちゃったの」
ははは、と彼女は笑う。
「趣味って?」
「ん? 旅行」
「っていうと何、あの、海外とか」
「ちがーう。そんなあたし、金持ちじゃないよ。あー…… そうだな、民芸品巡りとでも申しましょうか」
「民芸品」
「うん。元々インテリアデザイン、ってわりと簡単に考えていたんだけど、いやあ、家具とか、食器とか、台所とか、色々、調べてみると面白くて。ついついあちこちの古民具の展示館とか出かけるのが趣味になってしまって。で、旅行資金のためにバイトとかしていたら課題の提出が遅れたとか、本末転倒もいいよねー」
そしてまた、あはははは、と彼女は笑った。その間もちゃんと箸はごはんとハンバーグと口の間を行き来していた。
「で、アトリ君はグラフィックで何したいの?」
「僕?」
痛いところをつかれた、と思った。
「今のところは、何も」
「ふーん。そっか」
しかしその後に返ってきたのは、想像より優しい答えだった。
「ま、ゆっくり探せばいいよ。ここは居心地いいから」
そうですね、と僕は答えた。
ここの食事はけっこういけるし。
そして「お茶」も、そのまま食堂でコーヒーをおごってもらってしまった。
コーヒーを呑みながら、科は違っても、この一年をどう送ってきたのか、とことを聞くのは楽しかった。その間には、彼女が飛び回ってきたというあちこちの出来事がちりばめられている。アハネ同様、このひとも、話が好きななんだろう。
僕は大半聞き手に回りながらも、それでいてそう悪い気はしなかった。
「……あれ、アトリくん、まだいたのー?」
聞き覚えのある声がした。だけど顔の記憶はない。クラスの子だとは思う。だけど数が多い女子だ。男子のようにはすぐには覚えられない。
うん、と僕は適当にあいづちを打つ。するとそこに居たもう一人もにやりと笑いながら言う。
「何か、さっきから、アトリ君を捜してるひとが、玄関に居る、って言ってたよ」
「僕を?」
「あんまりセンスよくない人みたい」
くすくす、と彼女達は意地の悪い笑いをこぼしながら立ち去って行った。
「捜してるって」
「捜される覚え、あるの?」
僕は黙って首を横に振った。だいたいまだ入学したばかりで、知ってるも知らないもないと思う。
「でもあたしだって、君を捜してたけど?」
「ノゾエさんはああいうことがあったから」
それもそうだよね、と彼女はうなづく。僕にはさっぱり心当たりがなかった。
「……じゃ、僕そろそろ帰ります」
「あ、じゃあそこまで送るね」
「帰るんじゃないですか?」
「あたしはまだ課題がね!」
彼女は苦笑する。なるほど、そういう生活なんだよな。
廊下を歩きながらも、彼女は延々喋り通し、僕は聞いていた。そして彼女と出会った掲示板前に来た時…… あれ、と僕は目を大きく広げた。
長い金髪。
足元に吸い殻がずいぶん沢山転がっている。まさか。
そしてその男は振り向いた。
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