第2話 南から来た新たな友人
翌日からもう授業が始まった。さすがに実戦向きの人材を作るのが目的の学校だけあって、テンポが早い。
それでもさすがに第一日は、それぞれの授業の指針を説明するのが半分だったのだけど。
一年次の専門教科は、ドローイング、構成、デザインベーシックと写真基礎。それにベーシックプランニングとCGベーシックがある。
正直言って、僕はそのどれにもほとんど初心者と言ってもいい。こりゃかなり気を入れて勉強しないとまずいぞ、という気分になった。
高校の最後の半年で、一応予備校でデッサンと構成くらいは習ったけれど、さすがに付け焼き刃。それで美大を目指すとかいう訳にはいかなかった。
決めたのが高校三年の初夏、では何か周囲をなめてる、らしい。僕にはそんな気は全くなかったのだが。
何っか、いつもテンポがずれてる、と言われる。
中学から高校に行くときも、どうしようかな、と迷っていたら、勝手に偏差値で学校を振り分けられた。
入った高校でも、何しようかな、と部活を迷っているうちに、何か帰りに用事のあった友人を捜しに行ったら、いつの間にか美術部に入っていた。
だけどその入った美術部でも、期限内に課題ができなくて、結局一度も展示できたためしが無い。
顧問の美術教師は、よく言ったものだった。
「キミ頼むから、も少してきぱきやってくれ」
いいものは持ってる。だけどそれじゃあ持ち腐れだ、と。
そうは言われても困ってしまう。
僕は僕で、自分の中にあるものをちゃんと探し出してからそれを形にしたいだけなのだけど。ただそれを見つけだすのに、時間がかかるのだ。
美大はよしたほうがいい、と言ったのもこの顧問だった。
「例えば、無期限に時間が与えられて、それでそこにある一つの石膏像をデッサンしろ、と言われたら、君は間違いなく合格できる。だけど、悲しいかな、受験のデッサンは、長くて八時間。しかもそれは二日分割。短い時にはたったの三時間が勝負だ」
そう言われた時、確かに僕はなるほど、と思った。僕にはそういうの無理だ。
あきらめも早かった。それで、試験の比較的簡単な専門学校を選んだ。
グラフィックデザインを選んだのも、正直言って、アハネの様に「写真!」とか決まったものがあるからではない。
無いから、ちょっと対象があいまいで、一応就職に役立ちそうなこの学科を選んだのだ。
何をしたいか、なんて二年間で決まるとは思えない。だけど、何もしないよりはましかな、と思った。その程度。
そしてそのアハネだが。
「おはよーっ! おいちょっと来いよアトリ」
授業が始まって数日後。登校するが早いが、いきなり僕の手を引っ張って、彼はエレベーターに飛び乗った。
この学校は八階建てのビルになっている。彼はその八階のボタンを押した。
「えーと…… おはよ」
エレベーターに乗り込んでから、ようやく息切れまじりに僕は朝のあいさつという奴を返すことができた。
「何だよそれ」
「や、さっきあんた言ったから」
するとアハネは唐突にげらげらと笑い出した。そんなにおかしいかなあ、と僕は思う。慣れてるけど。
「ああすまんすまん」
「うん、慣れてる。で、どうしたの?」
「や、屋上に行こうと思って」
「屋上?」
「昨日夕方に出てみて、いい夕暮れの空が見えたから、朝はどうかな、と思ってさ」
だからと言ってそこには僕を連れてく理由はないと思うのだが。
「いい景色を見るのはいいことだぜえ」
そんな僕の気持ちを見抜いたように、彼は言った。なるほど。
*
実際、屋上からの景色はかなり良かった。天気は良すぎず悪くなく、というところ。雲もあるけど、おおまかに言えば「晴れ」の部類。青空も見える。
「へえ…… 東京でもこんな空が広く見えるんだ……」
「ま、さすがに、俺んとこの田舎には負けるけどさー。空だって何かかすんでるしさ」
「田舎?」
「南。ずーっと南。空が真っ青で、海が、その空をうつしてもっと青いんだ」
そういえば、この名前は、確かにずっと南のほうの響きがある。
「お前は?」
「僕は」
そんなに南ではない。そんなに西でもない。でも北でもない。
「そう遠くはないよ」
「ふうん。じゃあ帰省する時には、列車で済むんだよな」
「違うの?」
「俺なんかが帰る時には、飛行機か船が要るもん。だからそうそう帰る訳にはいかないよ」
へえ、と僕はうなづいた。僕だったら、いちばん速い新幹線を使えば、一時間という程度だ。彼に比べれば、全然遠くない。
「ま、ちゃんとするまで帰らない、とは言ってきたしさ」
「……すごいな」
「せっかく遠くまで出してくれたんだしね」
それは正しい、と僕は思う。
「お、いい感じの雲」
そう言うと、彼はいつの間にか持っていたカメラのシャッターを押した。何ってことない、プラチナカラーのコンパクトカメラだ。
授業ではいずれ一眼レフを必要とするだろうけど、今のところ僕は持っていなかった。でも彼は持っていそうだ、と密かに思っていたのだけど。
「人物写真専門じゃなかったの?」
「俺は、綺麗なものが好きなの」
「綺麗なもの」
「ほら」
彼は空を指す。その指の向こうには、雲の間に間に見え隠れする太陽。光りが時々雲の間から漏れて、すーっとそこに線を作る。天使が飛んでても、おかしくないような。
「綺麗だと、思わない?」
僕はうなづいていた。
「うん…… そうだね。綺麗だったんだね」
「結構、こういうの、気付かない奴が多いんだよ。ちょっと見上げれば、毎日だって、見られるのに」
「そぉ?」
「例えばさ、空じゃなくたって、朝ここにやってくる時だけでも、俺、結構シャッター押したいようなもの、あるぜ?」
あったかなあ、と僕は首を傾げる。
「遠い?」
「いんや、俺は寮生。安いし」
「じゃ、すぐそこじゃない」
敷地内とまでは言わないけど、歩いて何十メートルもなかった気がする。
「だけど、途中に花壇があってさ」
あったっけ、と僕はまた首をひねる。あった様な気もしなくはない。
「あるの。あるんだってば。それとか反対方向、寮からスーパーに買いだしに出る時の、川べりとかさ」
「土手?」
「そう土手。あれは絶対夏になると、草がもしゃもしゃになってさ。ああいう雑草がさ、何か機械でがーっと刈られることあるじゃん。ああいう時の草の臭いって知ってるか?」
「知ってる、と思う」
「何かああいうのが漂ってくると、俺わくわくするの」
はあ、と僕はうなづくばかりだった。圧倒されていた。
そして何も言えない僕に気付くと、ようやく彼は自分ばかりが話していたことに気付いたのか、自分自身の頬をぺちぺちと軽く叩く。
「あーごめん。また何か俺、自分のことばっか話しちゃった」
「や、別に。僕は面白かったけど」
「そうか? そう言ってくれる?」
「うん」
僕はうなづいた。実際彼の話がどう、より、彼のその楽しそうな態度は見ていて気持ちいい。こんな風に、何でもないことを楽しそうに話す奴を、僕は初めて見た。
「だけど、お前が聞き上手だ、ってこともあるぜ?」
「聞き上手?」
「うん。何か俺、お前には何か言いたくなってしまうもの。ちゃんと聞いてくれるって感じがして」
「そうかな…… うーん」
単にテンポのいい返事ができないだけ、っていうのもあるけど。
「……んー、じゃあ、僕からもひとつ、聞いていい?」
「うん」
「その、綺麗なものが好きで、どうして『将来は人物』なの?」
「綺麗じゃ、ない?」
アハネは不思議そうに問い返した。
「綺麗なの? そりゃまあ、綺麗な人もいるだろうけど」
「あ、そういう意味じゃないって。俺は、にんげんって綺麗だなあ、って思うから」
「綺麗なの?」
「うん。綺麗じゃない?」
僕は首をかしげる。確かに綺麗なひとが居るってのは判る。だけど、にんげん全体が綺麗だ、というのは、いまいちよく理解できない。
「……うん、僕にはよく判らない」
「ま、いいさ。感じ方はそれぞれだし。でも、ま、お前に、それ判らせることができるような写真が撮れたら、いいな」
僕は何も言わすに、少しだけ笑った。
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