サンキュー、そしてグッバイ~僕は彼の声ではいられなかった。
江戸川ばた散歩
第1話 つい歌って、つい掴まれてしまった。
まだかなあ。
気がつくと、僕は何度も何度も壁の時計に目を走らせていた。
もう九時だ。九時だというのに、なかなか新入生歓迎のコンパは終わる気配を見ない。
何かあっちのボックス席では、一発芸を披露して爆笑を巻き起こしてるひとがいる。こっちでは、カラオケの曲を選ぼうとマスク片手で必死でページをめくってる女の子達。画面では何かのバンドのプロモーションビデオが流れている。誰だったかなあ。いまいち思い出せない。聞いたことはあるんだけど。
クラスのオリエンテーションの終わった後、何か流される様に、ここまで連れて来られてしまった。
最初に僕に声をかけたのは誰だっただろう? 確か小柄な男子だったような気はするんだけど。記憶力って奴が僕は良くない。
この場に居るのは、入学したばかりの専門学校の、クラスの総勢二十五人。それに幹事を引き受けてくれた上級生有志。
何にしろ、合わせるとかなりな人数だ。だから店もこの日は貸し切り。僕の通っていた高校のあった田舎にもあった、全国チェーンのものだった。
ああそうそう、もしかしたら、女の子目当ての先輩もこの中には居るかもしれない。ウチのクラスは、男子と女子の割合が1:2だったから。わがTデザインスクールのグラフィックデザイン科は。
だけど、何かすごい勢いで、皆仲良くなってる。出会ったのは、つい数時間前? だというのに。
今日は午前中に入学式があって、午後が授業の説明のオリエンテーション。GD科は二年制で、じゃあ今年は何の授業をするのか、時間割は、その時に必要なものは、来年は広告と編集のコースに別れて、とか色々説明を受けて、僕の頭は結構パンク状態。
そんな状態でクラスの連中と顔を合わせたんで、覚える余裕なんてまるでない。
それにしても。
七時から始まったんだから、そろそろ一次会という奴はここで終わってもいいはずなのに。そうしたらさっさと帰るつもりだった。
だって新入生歓迎って言ったって、明日にはもう授業が始まるんだよ? そんな、二次会三次会、なんて出てて、起きていられる自信は僕にはない。何時なんだろ。貸し切りってことは、もしかして閉店までなんだろうか。そうすると十時? 何となく嫌だなあ。
そんなことをつらつらと考えていたら、ちょっとかすれた声が、耳に飛びこんできた。
「あ、お前コップ空っぽじゃねーの。すいませーん」
斜め前に座った小柄な奴が、めざとく見つけて、店員を呼ぶ。あ、そういえば、こいつだ。名前は。えーと。
「オーダー追加お願いしまーす。えーと」
「あ、僕は……」
手を振って、次のオーダーなんか止めさせようとする。酒は強くないのだ。いや殆ど初めてと言ってもいい。高校時代だって、そういう友達はほとんどいなかったのだ。いても僕に無理強いすることはなかった。
「またお前、そんなこと言って。だめだめ。あ、これ美味そう。ほら」
そう言って、斜め前の奴は、金髪の店員が持ってきた写真入りのメニューを僕に向ける。オレンジジュース? だったらいいかも。軽くうなづいてみせる。
「じゃ、店員さんこれね」
金髪の店員は、何故か首を傾げながら、黙って伝票に何やら書き付けると、メニューを持ってだるそうにその場から去った。でかい人だなあ、と僕は思った。金髪かあ。茶髪は今は珍しくはないけど、ああいう色思いっきり抜いて、おまけに背中の半分まである金髪。バンドマンかなあ。
「ああまたぼーっとしてる!」
「あ、ごめん……」
「いいけどな。何っかお前楽しそうじゃないよ、アトリ」
「え?」
びっくりして僕はそいつを見る。
「僕の名前、知ってるんだあ」
ああーっ、とそいつはその場に突っ伏せた。何をこのひとは脱力してるんだろう。
「お前ねー…… もしかして、俺の名前、覚えてない?」
「悪いけど…… 誰?」
「ホントに悪いよ。……俺、ずーっとお前の後ろに居たじゃない」
「え」
……確か今日は、オリエンテーションの関係から、席が決まっていたはずだった。で、名字が亜鳥、という僕は一番前の一番右端だった。だいたいそうなのだ。この名字だと。
ということは。
「……ということは、ア行の名前くん?」
「そういう言い方するかねえ」
彼は苦笑いを返す。
「俺、アハネ」
「あはね? 珍しい名前だねえ」
「そうなんだよ! こっちでは絶対珍しいよな。だからついでにまずだいたい出席番号は一番で、目立てると思ったのによ。お前居るんだもん。ちょっとがっかりー」
何なんだいったい。僕は目を大きくする。
「お待たせしました」
と、そこへ低音が割って入った。オレンジジュース…… なんだろうな、を僕の前に置く。
ありがとう、と僕は金髪の店員に返す。するとまたこの店員は妙な顔をして、首を傾げた。何だろう一体。僕の顔に何かついているのだろうか。
「何? ああ、迫力あるよなー、やっぱりでかいし」
何かに自分で納得しながらアハネはげらげらと笑う。
人なつこい奴だよなあ、と僕は相変わらずぼんやりと思う。そして目の前のオレンジジュースに口をつけた。甘い。でも甘いのは嫌いじゃない。苦いのよりは好き。そのままちびちびと口にしていたら、アハネは勝手に喋りだした。
「何かすごい居づらそうじゃない、お前?」
「そんなことないよ」
「いーや、そんなことない。お前の顔にはとっとと早く帰りたい、って書いてある」
「え」
無意識に僕は顔を触っていた。そしてすぐにからかわれたんだ、ということに気付く。
「あ、怒った?」
「怒ってなんか」
「だから顔に出るんだってば」
そうなんだろうか。でも実際、僕が顔のことに敏感になっているのは事実だった。
「そんなに僕、顔に出るかなあ」
「……あ、……や、そうでもないよ。や、ああああ、そんな顔するなって」
「だから僕は」
「むきになるなってこと! 悪い悪い。俺ちょっと人の顔に敏感なんだ」
「人の顔に敏感?」
「俺将来の名フォトグラファだもん。人物専門の」
「あ」
僕はオレンジジュースのグラスを置く。
「思い出した。確か、自己紹介の時に、『やるなら編集。もう決めてる。写真集は出版だから』と言いきったひとだ、あんた」
そうだった。そこまできっぱり言うか、と思っていたんだった。
「……どうしてそういうことを覚えていて、後ろの席のことは覚えてないんだろうねえ」
くっくっ、と彼は笑った。仕方ないだろ、と僕は再びオレンジジュースに口をつける。それにしても、ずいぶんと口当たりのいいオレンジジュースだ。とろんと甘い。何かトロピカルフルーツでも混じってるのかもしれない。
それに、何かもともとぼーっとしていた頭が、さらにぼーっとなってくるようだった。なのに、遠くの音楽だけが、妙に際だって聞こえてくる。これは。
……嫌な予感がする。
「……ちょっとアハネ、聞いてもいい?」
「何」
「このオレンジジュース、何かあんた混ぜた?」
「オレンジジュース? ちょっと待て、お前そのつもりで呑んでたの?」
「へ?」
「それ、ファジィネーブルだぜ?」
……それを早く言ってくれ。何かすごく、やばい状態が来ているような気がする。
曲が終わる。そして次の曲が掛かる。イントロが鳴る。
「……この曲、好き」
のそ、っと僕は動き出していた。
いや、これは後で聞いた話だ。このあたりから、僕はだんだん理性と記憶が無くなっていた。
いきなり席を立って、遠くのカラオケ集団の中に入って行った僕を、アハネは何だ何だ、という顔で見ていたらしい。
そして、その曲が始まった時には、僕はマイクを女の子の手からにこやかに奪い取っていたのだというのだ。
……記憶にない。
いや、全く記憶がない訳ではない。歌った記憶はあるのだ。
あれは、確か、今流行っているバンド。キーはさほど高くはないけど、とにかく音の上下が激しくて、おまけに無茶苦茶な早口が入って。しらふの僕だったらまず歌わない。歌えない。なのに、アルコールが入ると! だ。
どうしたことか、と椅子の背もたれにひじをつく格好で、アハネは僕の様子をじっと見ていたらしい。見ていただけ!
そして、その場に居た女の子達が、何か次々にリクエストしてきたらしい。今の流行りではあるが、ジャンルもへったくれもない、しかも男女問わず!
……もういいだろ、とアハネが僕を連れ出したのは、連続で七曲くらい歌った後だった。何やら周囲が騒ぎ出して、オン・ステージ状態になっていたらしい。……その頃には記憶が無いんだが。
つまりはだから、呑みたくないんだ!
……ご盛況なオン・ステージから僕を引っぱり出して、げらげら笑い続ける僕を、アハネはボックスに引き戻して座らせた。途端、僕は重力が一気に自分に掛かるのを感じ…… だんだん正気になっていった。
「……大丈夫か?」
おしぼりを閉じた目の上に当ててくれながら、アハネは言った。
たぶん今、顔は真っ赤になっているはずだ。首のあたりまで。
胸がどきどきしてる。ちょっと手を取れば、手首のあたりまでびっしりと赤いまだらが出てることが判るだろう。そして手首の血管が、目に見える程に激しく脈打ってることも。
「それで呑まなかったんだ。ごめんな」
僕は黙っていた。それだけではないけど。何なのよつまんない、という女の子達の声が遠くに聞こえる。
「あーっ、アハネ君、可愛いアトリ君を独り占めしたいんでしょ」
「そーだよ。何がわーるい?」
やだあ、と女の子達はげたげたと笑う。あーうるさい。女の子達に可愛いなんて、言われたくない。
*
そうこうしているうちに、時計が十時近くなったらしい。先輩の一人がお開きを告げた。
僕は何かまだ身体が重い気分だったのだが、歩けない程ではないので、立った。だが流されるのも何だったので、集団の最後のほうに陣取って、ゆっくりと店から出ることにする。
先輩の一人が、会計を済ませる中、その横をすり抜けて出ようとした。
ところが。
扉を出ようとしたはずなのに、足が動かない。
いや違う。足は動く。なのに腕を捕まれてるんだ。はれ?
僕はおそるおそる振り向いた。
ぎょ。
あの金髪の店員が、僕の左腕を掴んでいた。
「ななななななななんですか」
思わずどもってしまう。アハネが驚いて、一度出たというのに戻ってくる。
「……いや、あんたいい声だな、と思って」
「そ、それはどうも」
でかい。迫力がある。おまけに低音だ。しかも力が強い。何か僕がしたというのだろうか。
「あああああの何か御用ですか」
「ちょっと、手、離してやってくれよ!」
アハネは店員の掴んでいる手を力任せにはぎとる。あ、こうやってみると、こいつは僕よりちょっと小さい。
「……あ、いや、さっき、続けて歌ってたでしょ? ずいぶんいい声だったから……」
「そうですか、ありがとう! 行こうぜアトリ」
「う、うん……」
そう言って今度はアハネが僕の手を引っ張った。外では何があったのか、と女の子達がざわついていた。何でもないよ、と僕が何か言う前に、アハネが答えていた。
だがそれが、僕のぼうっとした時間の終わりになるとは、誰も知らなかった。アハネも…… 無論、僕自身も。
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