第5話 六月十八日

 今日の日付は六月十八日。現在時刻は午前六時五十分。

「おはよう」

「おはよう」

 睡眠時間がいつもより少なかったが、問題なく起床した。寝癖を水で直して、準備を整え、アパートを出た。

 気温は十九度。夏が近づいている。周囲には腕まくりをしている人もいた。

 とくに問題なくスケジュールが遂行されているので、周辺情報の記述を中断して、昨夜のことについて少し書きたい。

 昨夜、メーカーから異常なしの報告を受けたあと、物語作成ツールを起動させて、この日記が物語のような筆致で記述されているかどうかチェックさせた。訓練開始から四日になるので、そろそろフィードバックをしてもいいだろうと判断したのだ。

 あくまで日記なので、物語として成り立っているかどうかではなく、文章の読みやすさ、状況の伝わりやすさを中心に評価をさせたところ、意外にもさまざまな指摘を受けた。同じ状況を繰り返し描写するべきではない、日付と気温の表記が多すぎる、などあったが、『文章の主語がわかりにくい』という指摘が一番強調されていた。

 それには続きがあった。

『推測するに、この物語の中心には一人の少女と、その少女の行動を記述するもう一人の人物が存在している。両者の行動を区別して文章を作成すれば、より読みやすいものになるだろう。あくまで一例だが、〈私〉や〈僕〉などの一人称の使用を推奨する』。

 この指摘を読んで、推測がはずれていると思った。日記の中心にいるのは打越アミリという人物だけである。しかし、読者にとって読みにくい文章を記述しては訓練の効果が薄れてしまうかもしれない。これまでにない試みなので効果の大きさを測る尺度は存在しないが、わざわざ読みにくい文章を生成する必要もないだろう。

 ということで、これからは、打越アミリの行動、言動以外のもので、且つ、はっきりとした主語がないものを『少女の行動を記述するもう一人の人物』のものと仮定し、一人称の〈僕〉を使用して描写する。

 記述したかったことはこれで以上である。周辺情報に切り替える。

 訂正。僕は周辺情報に切り替えた。

 打越アミリ(以下、アミリと記す)は時刻通りに工場に到着した。

「おはようございます、工場長」

「おはよう、アミリ。今日もいい笑顔ね」

「ありがとうございます。それと、昨日は本当にありがとうございました」

 アミリは丁寧に二回頭を下げた。工場長は穏やかに微笑んで「いいのよ」と手を振った。それにまた軽く会釈をしてから更衣室に入ると、先輩が二人、着替えをしていた。彼女らに「おはようございます」と明るく挨拶をして、自分のロッカーを開けた。部屋を出て作業場に入ってからもずっと笑顔を維持していた。

 アミリが作業を始める。複数のカメラから彼女の様子を伺っても、ベルトコンベアーの横で直立しているだけでなにも変化がない。腕時計でしきりに身体情報を更新しても、とくに変わりはない。同じことを繰り返し記述するなと言われたが、同じことしか繰り返されないのだ。

 結局なにも記述しないまま昼休みを迎えた。作業員たちが狭い休憩所で身を寄せ合いながら昼食を取っている。椅子に座れないアミリは立ったまま黙々と食事を済ませた。ちらほらと生まれた会話はお決まりの言葉の応酬で、特筆すべきことはない。

 午後の作業が始まった。作業員たちは同じような微笑みを浮かべながら流れてくる部品を見つめていた。もちろんアミリも笑っている。笑顔で仕事をするべきだという教えを毎日きちんと守るので、これまで僕が警告したことはない。今日も、何事もなく工場長に挨拶をして事務室を出た。

「……」

 アミリは少し視線を下げてアパートまで歩いた。きっとまた、なにかを考え込んでいるのだろう。ロボットと初めて対面したことが、頭に強く残っているのかもしれない。

「ねえ」

 昨日と同じように、夕食を食べ終えたあとでアミリは言葉を発した。

「なんでしょうか」

 すぐに応答すると、彼女は腕時計を見下げた。

「あなたの名前は?」

 最近よく出てくる『あなた』は、腕時計の音声、もしくは腕時計そのものを示しているのだと僕は考えている。

「ニックネームは未設定となっています」

 答えると、アミリは「そう」と膝を抱えたまま視線をそらして、すぐにまた自分の手首を見た。

「設定してもいい?」

「構いません」

 ニックネームをつけてはいけないという規則はない。

 十秒ほど考えて、彼女はニックネームを口にした。

「トウマはどう?」

「トウマ、ですね。設定しました」

 名前をつけようと思ったのは、やはりあのロボットの影響かもしれない。アミリは嬉しそうに笑った。工場で浮かべているものとは違う、控えめな笑顔だった。

「おやすみなさい、トウマ」

 毛布の上で彼女は目を閉じた。

「おやすみなさい、アミリ」

「え?」

 閉じられた瞳が開いた。

 暗闇のなかで、アミリは横になったまま腕時計を見つめた。

「初めて名前を呼ばれた」

 会話のログをさかのぼった。彼女のスケジュール管理を開始してから二年が経過しているが、たしかに、いまのが初めてであった。

「嬉しい」

 また控えめに口角を上げて、今度こそ就寝の体制になった。小さく上下する肩を赤外線カメラで確認した。スケジュール通りに眠ったようだ。僕は、訓練を終了した。

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