第4話 六月十七日
今日の日付は六月十七日。現在時刻は午前六時五十分。毛布の上で立ち上がり、大きく背伸びをした。朝日が黒い髪の毛に反射して白く光る。
「おはよう」
「おはよう」
穴が開いたままのズボンに脚を通して、時間通りにアパートを出た。気温は十九・一度。日差しが強い。
昨日も外を歩いたが、いまは、中身を入れ替えたように前だけを見据えて一定の歩幅を守っていた。
工場まであと百メートルというところで、歩行速度を維持したまま腕時計に視線を落とした。
「かゆい」
言いながら、なにも装着していない右手で腕時計と肌の隙間を掻いた。爪で傷ついた皮膚が赤くなり、湿疹が出始めた。
「掻かないでください。皮膚によくありません」
「かゆい。外したい」
「いけません」
腕時計を外すことは禁じられている。それでもまれに外そうとする人がいるので、ベルトにはロックがかけてある。腕時計の設定を変更することで開錠できるが、それができるのは上級労働者かそれよりも身分が上の者、それから腕時計のなかにいる人工知能だけだ。
もう一度警告しようとしたら、突然、掻くのをやめた。
「ぶつぶつになった」
じっと手首をみつめ、不安そうな声を出した。
「これ、病気?」
「汗疹だと思われます」
「あせも?」
「汗が原因で皮膚に吹き出物が出現する皮膚疾患のことです」
精神状態を表す波が、ぐわんと歪んだ。
「死ぬの?」
「死にません」
「治るの?」
「治ります」
こわばっていた表情が緩んだ。
そのまま出勤し、予定通りの時刻に事務室の扉を開け、挨拶をした。
「おはようございます、工場長」
「おはよう、アミリ。うん、いい笑顔ね」
「ありがとうございます」
更衣室に移動しよう向きを変えたとき、工場長が表情を変えて声を出した。
「アミリ、左の手首が赤くなっているわ」
立ち止まって、隠すように手で覆う。
「これは、えっと」
「こっちにいらっしゃい、薬を塗ってあげる」
女性は机の引き出しを開けて、丸くて薄い缶の入れ物を取り出した。言われた通りに近寄ると、そのふたを開けて、白い塗り薬のようなものを指ですくった。
「手首を出して」
「はい」
赤くなった皮膚を上に向けて差し出すと、女性は腕時計をつけている手で手首をつかみ、もう片方の手で薬を塗った。
「これでよし」
「ありがとうございます」
「もう掻いちゃだめよ」
「はい」
深く頭を下げて更衣室に身体を向けた。
「あら」
また、工場長が声を出した。
「アミリ、ズボンに穴が開いているわ」
「これは、転んだときに破れてしまいました」
あら、と言って続ける。
「作業服に着替えたら、そのズボン、私によこしてくれる? 終業時刻までに直しておくから」
「そんな、申し訳ないです」
「いいから。これも仕事なの」
「ありがとうございます」
勢いよく頭を下げたので、肩につくかつかないかというくらいの髪が宙で揺れた。今度こそ更衣室に入ろうとしたら、入れ違うように先輩二人がなかから出てきたので挨拶をした。
「おはようございます」
「おはよう。今日は遅かったね」
「すみません」
スケジュールを修正した。急いで作業服に着替え、脱いだズボンを工場長に渡して地下に降りた。
それから終業時刻まで、これといった問題もなく通常の業務をこなした。手首の汗疹は薬のおかげか徐々に引いていった。釘を刺されたこともあり、皮膚に爪を立てることは二度となかった。
階段を上って事務室に戻ると、工場長が待っていた。
「アミリ、直ったわよ」
机には、破けた部分が繕われたズボンがたたんで置かれていた。
「ありがとうございます」
受け取って、二秒ほど頭を低くする。
「もう転ばないでね」
「はい。あの」
「ん?」
視線を、女性の横に向ける。
「そちらの方は……?」
工場長の横には、微笑を浮かべた青年が立っていた。
「ああ、私のロボットよ。家から裁縫キットを取ってきてもらったついでに、修繕もお願いしたの」
「ロボット……」
ぱちぱちと、大きくまばたきをした。
「もしかして初めて?」
「はい、学校のテキストで見たことはありますが、実際に、こうしてお会いしたのは初めてです」
「あらぁ」
工場長はおかしそうに笑って、手で口を押えた。
「馬鹿にしているわけじゃないのよ。あなたの表情が面白かったの」
青年はまったく表情を変えなかった。色白の手首には、腕時計をつけていない。スキャンした結果、女性の言う通り人間酷似型ロボットであることが確認できた。
工場長は彼の方を向いて言った。
「ミチハル、挨拶は?」
急に、青年はまばたきをして視線を合わせた。
「こんばんは、僕はミチハルと申します。挨拶が遅れて申し訳ありません」
いえ、と慌てて手を振る。
「私こそ、その、すみません。工場長とミチハル様にはたくさんご迷惑をお掛けしました。ズボンを直していただいて、ありがとうございました」
ぺこりとお辞儀をすると、二人は微笑んだままそれを眺めた。ミチハルと名乗った青年のロボットはまもなく部屋を出ていった。その人間と区別のつかない足取りをじっと見つめてから、更衣室に入って穴のふさがったズボンに脚を通した。事務室を出る前にもう一度深々と頭を下げて、工場を後にした。同時に、スケジュールを修正した。
「……」
アパートに戻るまで、ぼんやりとなにかを考え込んでいるようだった。入浴を済ませ、部屋で夕食を取っているときもスムーズな動作とは裏腹に、どこか上の空であった。
固形の食料を食べ終えてから、少し間をあけて言葉を発した。
「ロボットだって、わからなかった」
どうやらミチハルという青年のことを考えていたらしい。すぐにスピーカーから応答した。
「手首を見ればいいのです。ロボットは腕時計を装着していません」
「ほかに違いはないの?」
「素材が違います」
「見ただけだとわからないよ」
「そのように設計されていますから」
ズボンを手に取って、きれいに繕われた穴を触った。
「直ってよかった」
「よかったですね」
「うん。でもどうしてここまでしてくれたのかな」
「上級労働者は、下級労働者が労働を継続できるよう管理し、なにかあったときは即座に対応をすることが義務付けられています。そのため、待遇も違うのです」
「そう」
短く返事をして、就寝の準備を始めた。
消灯。毛布の上に身体を横たえる。
しばらくして、寝息の代わりに声がきこえた。
「もう少しだけ起きていてもいい?」
「どうぞ」
暗闇のなかで、言葉が続く。
「ミチハル様の声、あなたの声と似ていた」
「『あなた』とは腕時計が出力する音声のことですか」
少し静かになったのちに、小さく「たぶん」と返ってきたので予測結果を教えた。
「おそらく同じ音声ソフトが組み込まれているのだと思われます。根拠として、ミチハルの音声と腕時計の音声の波形がほぼ一致しました」
「見た目が違うのに、声は同じなんだね」
スピーカーを通して、仕組みを説明することにした。
「一般的には、区別をするために腕時計とロボットには違う音声ソフトが使用されます。しかし、両方が連携している場合、音声は同じものになります」
「それは……、えっと、ロボットは腕時計のなかに入ってしゃべることもできるし、その逆もできるということ?」
「そうですね。機種にもよりますが、基本的にはネットを介して他のハードウェアに知能データを転送あるいは分散させることができます」
毛布と衣服が擦れる音がした。
「じゃあ、ロボットがあればあなたもできる?」
「可能ですが、下級労働者にロボットを所有する権利はありません」
「……。そう」
精神状態の波が歪んだ。音楽を流したが、なかなか回復しなかった。どうしようかと考えていたら、寝息がきこえ始めた。
「おやすみなさい」
返事はなかった。
時刻を確認すると、決められた就寝時刻から四分十七秒が経過していた。起きていることを特別に許可する必要はなかったはずだ。腕時計のメーカーにアクセスして状況を説明したら、通信を介して点検が行われた。異常なし、との報告を受けた。
今日の訓練はこれで終了する。
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