第3話 六月十六日

 今日の日付は六月十六日。現在時刻は午前七時。今日は一か月に一日と定められている労働免除日だ。いつもより十分遅い起床が許される。

「おはよう」

「おはよう」

 朝食、着替え、入浴、夕食、就寝は決まった時刻に遂行しなければいけないが、それ以外の時間は自由だ。ルールに反することでなければなにをしてもいいことになっていて、これまでの記録から、屋外で散歩をすることが多い。

 今日も、午前七時十五分にはアパートを出た。

 気温は十六・四度。小雨が降っていた。予報では、午後には止むだろうとのことだ。

 出勤途中の大人や子供にまぎれて、いつも通る工場への道とは反対の方向に歩き出した。髪や肩を湿らせ、一定の速度で進む周囲の人々とは対照的に、ゆっくりと景色を眺めるようにしながら、ひびの入ったコンクリートの建造物を通り過ぎていく。

 散歩中は、目線が落ち着かない。等間隔に並べられた柱の先端にある監視カメラを見つめたり、雨で黒くなった地面の水たまりを踏んでみたり、古びた建造物のなかで威厳を放つ豪勢な天守閣と本丸御殿を遠目に眺めたりした。この街の大半の人間はあそこには近づけないので、あの辺りを散歩したことはない。城に近づいたらただちに腕時計を通して警告をしなければいけない。

 雨の中、休むことなく歩き続けた。身体、精神ともに問題はない。表情は暗くも明るくもない。予報の通り、雨は午後になると徐々にやんで光が差し込んだ。

「誰もいない」

 ぽつりと言葉を発した。辺りは閑散としていた。

 労働免除日の人と勤務中の人では後者が圧倒的に多いので、誰もいなくて当然であるが、周辺情報にアクセスし、スピーカーから正確な情報を提供した。

「確認したところ、ここから南東に五二八・九メートル離れた地点で二十代男性が、北西に七二一・三メートル離れた地点で十代女性が、南西に三二五・八メートル離れた地点で二十代女性が屋外に出ています。確認を続けますか?」

「いい。ありがとう」

「どういたしまして」

 それからまた、無言になった。アパートの周囲を大きく一周するような形で散歩は続いた。濡れた髪が乾いて風になびくようになった。足取りは依然としてゆっくりだった。

 そろそろ日が沈むというとき、歩行が止まった。

「ごみ」

 視線は、コンクリートの建物の間のスペースに設けられた、ごみ捨て場に向けられていた。背丈の六倍ほどあるごみ山には、金属、木材、プラスチック、衣類など大小さまざまなごみが積み上げられていた。生ものは別の場所に集められるので、害鳥や害虫はいない。

 少しでも立ち入ろうとしたら警告するつもりだったが、ただ見ているだけでそのような動きはなかった。

 風が涼しくなってきたころ、突然、声を出した。

「腕がある」

 視線の先をたどった。たしかに、家財道具らしきものと木材の間に挟まれるようにして、薄汚れた腕の一部がだらりと垂れ下がっていた。スキャンすると正体が判明した。

「あれは、人間酷似型ロボットの前腕部分です」

「捨てられたの?」

「おそらく」

「私たちよりもえらいのに?」

「下級労働者よりは上位の存在ですが、上級労働者および一部の労働免除者はロボットを所有できます。所有者はロボットを廃棄する権利があります」

 そう、と一言だけ返して静かになった。

「そろそろアパートに戻った方がいいでしょう。入浴時刻が近づいています」

「うん」

 ごみ捨て場をあとにして、薄暗い道を歩き出した。それを追うために、監視カメラの映像を切り替えた。

 部屋に戻ってから入浴、夕食を済ませて、就寝までの準備をした。歯磨きのあとに石鹸を使って衣服を洗濯し、部屋の壁と壁にロープを張って乾かした。

「膝の傷は痛みますか」

 電灯を消そうとしたとき、スピーカーから尋ねた。

「もう痛くない」

「そうですか」

「優しいね」

「それはなにを対象とした発言ですか?」

 表情をキョトンとさせて、腕時計を指さす。

「腕時計のことですか?」

 わずかに首をかしげ、返答した。

「この声。あなたの声」

「就寝時刻が迫っています」

 スケジュール管理のために発せられた音声によって会話は途切れた。電灯を消して、毛布の上に横たわる。

「おやすみなさい」

「おやすみなさい」

 まもなく寝息を立て始めた。

 今日はもう少し、記述を続けたい。疑問に思ったことがある。

 いま発せられた『あなた』という言葉は、一体誰を指していたのだろうか。この部屋には一人しかいないので、それに当たる人物は存在しない。単に言葉の使い方を間違った可能性もあるが、『あなた』に続く『声』という単語は、会話の文脈から腕時計のスピーカーの音声を示したと思われる。「優しいね」はやはり、腕時計に向けてのものだったのだろうか。

 もう一つ疑問がある。なぜ、わざわざスケジュールを乱すようなタイミングで「膝の傷は痛みますか」と発言したのだろう。スピーカーの音声機能のログを確認したがとくに異常はなく、外部の電波を受信した形跡も見つからなかった。不可解である。

 今後、同様のことが起きたらメーカーに問い合わせてみよう。

 今日の訓練はこれで終了とする。

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