第2話 六月十五日

 今日の日付は、六月十五日。現在時刻は午前六時五十分。壁にはめ込まれた小さな窓から朝日が入って床を明るくしている。「おはよう」と言うので「おはよう」と返した。

 一度、ぐっと背伸びをすると、目をこすりながら部屋を出た。トイレを済ませてから朝食を受け取りにいく。おなじみの、栄養バランスの取れた固形物だ。このアパートではこの食べ物しか配給されないことになっている。

 黙々と朝食を取り、着替えをした。ベルトのいらない質素なゴムのズボンに、灰色のTシャツ、白い靴下を身に着け、昨夜のように歯磨きをし、水道で洗顔をしてそばにあった共同のタオルで顔を拭った。

 午前七時三五分、部屋の鍵だけを持って廊下に出た。扉を施錠し、十七階分の階段を下っていく。他にも出勤する住人が多くいて、少し混雑していた。

 やっと外に出た。気温は十八・九度。昨日よりも暖かい。風はほぼない。

 工場までの道を、同じような格好をした人々が一定のスピードで足を運んでいた。道路を走る乗用車も法定速度を維持している。

 七時五十分、工場に到着した。一分の狂いもない。

「おはようございます、工場長」

「おはよう、アミリ。今日も笑顔が素敵ね」

「ありがとうございます」

 工場長の女性に頭を下げてから更衣室に移動した。なかには先輩の作業員二人が着替えをしている最中だった。

「おはようございます」

「おはよう、今日も元気に頑張ろうね」

「はい」

 はきはきと返事をし、ロッカーを開けた。昨日と同じ状態の作業服に腕を通す。先輩たちの背中を追うようにして部屋を出ると、工場長が「いってらっしゃい」と非の打ち所がない笑顔を向けてきたので、「はい」と小さく会釈をした。

 地下へ移動し、昨日と同じ作業が始まった。すでにいた作業員にまざって、ベルトコンベアーを流れる部品をいつもの笑みを浮かべたまま点検する。昼休憩までその顔が揺らぐことはなかった。

「いただきます」

 狭い休憩室で、リーダーが手を合わせた。全員が黙々と昼食を口に運び、それが終わったころに会話が生まれる。

「ご飯、おいしかったね」

「うん、おいしかったね」

「午後も笑顔で頑張ろうね」

「うん、頑張ろう」

 休憩後、また作業に戻って同じ体制、同じ表情のまま勤務を続けた。終業時刻までそうしてから、階段を上がって更衣室で私服に着替え、事務室の工場長に挨拶をした。

「お先に失礼します。お疲れ様でした」

「はーい、お疲れ様。気をつけて帰ってね」

 お互いに笑顔で別れ、建物の外に出た。気温は十五・一度。アパートまでの道を朝と同じ速度で姿勢よく歩いた。このままいけば今日もスケジュール通りの時刻に帰宅できるはずだったが、アパートを前にして、足がもつれて転倒するというアクシデントが発生した。

「いた……」

 変化のなかった精神状態の波が、ぐにゃりと歪む。

 地べたに座ったまま膝を確認すると、薄い生地で出来たズボンに穴が開いていた。穴から、わずかに血がにじんでいるのが見えた。

 自室の鍵しか持ち合わせていないので、そのままアパートに急いだ。入り口の淡い電灯の光が間近に迫ったとき、手首の腕時計が小刻みに振動し始めた。振動は『帰宅予定時刻が迫っている、すみやかに帰宅せよ』という警告を意味している。大股で建物の入り口をくぐり、最大限のスピードで階段を駆け上がった。

 心拍数が急増し、身体に熱がこもる。大きく肩を上下させながら、ドアノブに鍵を差し込んだ。部屋に入るや否や、靴をはいたままその場にへたり込んで深呼吸を繰り返した。腕時計の振動が止まった。

 三分ほどそのままでいたら、再び腕時計が振動し始めた。

「ごめんなさい、ごめんなさい」

 弱々しい声を絞り出し、靴を脱いで着替えの衣服を腕に抱えた。今度は階段を駆け下りる。途中で足を踏み外しそうになりながらも、無事浴場に到着した。脱衣所でやや乱暴に服を脱ぐと、傷口に布が擦れてわずかに身をよじった。血はもう止まって、乾き始めていた。浴場に入ると腕時計は静かになった。

 シャワーのお湯で傷口を洗い流していると、その様子を見た同年代の少女が声をかけてきた。

「アミリちゃん、怪我したの?」

「うん、転んだ」

「痛い?」

「うん」

「スケジュールは?」

「警告された」

「それはだめだね」

「うん」

 ずれてしまったスケジュールを調整するために、昨日よりも早く浴場を出て、配給を受け取り部屋で食べた。精神状態の波はゆるやかに落ち着いて、一直線に戻った。

 脱いだズボンを見た。穴は十円玉ほどの大きさだった。この部屋に、繕うための道具はない。

「直したい」

 ぽつりと言ったので、貯金額と給与をもとに計算をした。

「あと百九四日働けば裁縫キットを購入できます」

「そう」

 うつむき、ズボンをたたんで床に置いた。しばらく固まってから、また言葉を発した。

「ごみ捨て場にあるかな」

「いけません」

 スピーカー越しにたしなめる。

「ごみ捨て場は立ち入り禁止です」

「そう」

 精神状態の波が、ほんの少しだけ揺らいだので、音楽を流すことにした。心を落ち着ける効果があるとされているメロディに目を閉じて、膝を抱えたままじっとしていた。その間にスケジュールを組み直し、就寝時刻までの予定を五分ずつ遅くした。

「ありがとう」

「どういたしまして」

 音楽を停止させる。穏やかな表情に戻っていた。立ち上がって部屋を出て、就寝するまでの準備をし始めた。

 消灯。毛布の上でいつもの挨拶をした。

「おやすみなさい」

「おやすみなさい」

 今日の訓練はこれで終了とする。

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