夜明けと最後の物語

シラス

第1話 六月十四日

 これから、新しい物語を作るための訓練として、日記の作成を試みる。この訓練方法の他にもさまざまなやり方があったが、最も実行しやすいものを選んだ。参照したのは、古い出版物に書かれた次の一文だ。『物語を作るための発想力を高めたければ、日々の出来事を物語のような筆致で記すとよい』。これまで数多くの物語を作成したが、現実の出来事を文字に変換したことはない。もし、とくにこれといった効果が見られなかった場合は、他の方法に切り替えることにする。

 ではさっそく、周辺の情報を適度に記述していきたい。



 今日の日付は、六月十四日。現在時刻は午前七時四九分。現在位置は屋外となっていて、気温は十七・八度。天気は晴れのち曇りの予定。風はない。いま、左手首の腕時計型情報端末が日差しを反射して光った。

 身体情報に切り替える。バイタルサインに問題はなく、精神状態も安定している。昨日の記録とほぼ同じ状態である。スケジュールの遂行率は今月に入ってから百パーセントを維持していて、大変良い傾向だ。今日も通常通りのスケジュールとなっているので、予定外のことがないかぎり完遂できるだろう。

 建物内に入った。自宅から南に五三一・四メートル進んだ先にある、人間酷似型ロボット製造工場での労働がこれから始まる。予定通りの時刻に事務室のドアノブをひねり、なかにいたスーツ姿の女性に一礼した。

「おはようございます、工場長」

「おはよう、アミリ。あら、今日も笑顔が素敵ね」

「ありがとうございます」

 もう一度頭を下げた。女性がパソコンに視線を戻して仕事を再開したので、奥の更衣室へ移動する。扉を開けると、先輩の女性二人が着替えをしていた。

「おはようございます」

「おはよう。今日も元気に頑張ろうね」

「はい」

 明るい声で返事をしてから、ロッカーの作業服を取り出した。衣服を脱ぎ、それを着る。襟元を触っていたら先輩が部屋を出ていったので、続いて更衣室をあとにした。事務室の女性が「いってらっしゃい」と声をかけてきたので、「はい」と小さく頭を下げた。

 先輩たちと合流し、一緒に地下へと続く階段を降りる。見えてきたのは、ガラスの窓と、その向こうのベルトコンベアー。床に足をつけて、分厚い扉をくぐり、それぞれ持ち場についた。

 ベルトコンベアーに乗って流れてくるのは、人間酷似型ロボットを製造するための部品だ。このエリアでは、頭部と、胸部、四肢の部品の点検を行っている。作業員はベルトコンベアーの横に立ち、正規の部品と欠陥品とを的確に見分けている。この作業には長時間集中力を維持する能力が必要で、訓練された人間だけが現場に立てる。

 身体、精神面への負担が大きいとされているが、暗い表情の人間は一人もいない。全員が満面の笑みを浮かべたまま直立している。

 しばらく変化のない状況が続いたあと、十二時ちょうどに、同じエリアの作業員と一緒に作業場を出て同じ地下にある休憩室へ移動した。ほとんどの人に疲れた様子はなく、表情はにこやかなままだ。年上の作業員から順に資材の余りで作られた金属のベンチに腰掛けるが、数が足りないので若年の者はその場に起立したまま休憩をすることになる。

 全員に昼食が配られたのを確認して、エリアのリーダーが「いただきます」と手を合わせた。他の人もそれに続く。

 『食事中は私語を慎め』という教えがある。作業員たちは無言で固形の栄養バランス食品を口に運んだ。サクサクという音が部屋に充満する。それが止んだころに、あちらこちらで会話が発生した。すぐそばで、女性二人が話している。

「ご飯、おいしかったね」

「うん、おいしかったね」

「午後も笑顔で頑張ろうね」

「うん、頑張ろう」

 休憩は二十分間と決まっている。部屋にある埃の積もった時計が休憩終了の時刻を示した。作業員は一斉に立ち上がって、ドアの近くの人から作業場へと戻っていった。これからまた、夜の七時まで仕事が続く。結果だけを書くと、とくに何事もなく今日の作業は終わった。

 更衣室で私服に着替え、作業服をロッカーにしまった。事務室には朝に挨拶をした女性がまだ残っていた。

「お先に失礼します。お疲れ様でした」

「はーい、お疲れ様。気をつけて帰ってね」

 女性は朝と同じように、にこやかな表情を向けてきた。一礼をして部屋をあとにする。外の気温は十四・三度まで下がっていた。午前に工場へ向かったときと変わらない足取りで自宅までの十分間を歩いた。

 自宅は、二十階建ての、簡素なつくりのアパートだ。建設されてから四十年以上が経過しているこの建物には親から離れた十歳から十八歳の若年労働者が居住することになっている。十九歳になると家庭を築くためのアパートに移り、空いた部屋にまた自立した若者が入居する、という循環が維持されている。

 十七階の部屋に到着した。薄い扉には『打越うちこしアミリ』と書かれた表札が貼りつけられている。金属の鍵を取り出して扉を開け、なかに足を踏み入れた。今日も、スケジュール通りの時刻に帰宅することができた。

 パチ、と明かりをつける。電球の光に照らされた四畳半の室内には無駄なものが置かれていない。あるのは、毛布が一枚と、身分証や財布といった最低限の所持品、衣類、学生のときに使用したテキスト、衣類を干すためのロープ、それから天井の隅に取り付けられた監視カメラ。これくらいだ。

 トイレとシャワーは共同になっている。冷蔵庫や調理台は、配給があるので必要がない。空調設備はこの建物が建設された当初から設置されていないが、とくに問題はない。

 着替えを持って、部屋を出た。一階に浴場があるため、階段を下っていく。途中でアパートの住人とすれ違い「こんばんは」と丁寧に挨拶をした。更衣室は室温が低く、手早く衣服を脱いで浴場のシャワーからお湯を浴びた。頭髪、身体を洗い、一つだけの浴槽に身体を沈める。近くにいた同年代の少女が「こんばんは」と声をかけてきたので「こんばんは」と返した。

「お仕事、頑張ってる? アミリちゃん」

「うん」

「そっか。明日も頑張って。私も頑張るよ」

「うん。頑張ろうね」

 お互いに微笑み合って、予定時刻の通りに浴場を出た。身体から湯気が立っている。共同で使う小さいタオルで水気を取って、熱が逃げる前に着替えを済ませた。部屋に戻る途中で、配給されている食料を受け取った。昼食と同じ栄養バランスの整った固形物が夕食だ。食べ歩きは禁止されているので自室で食べた。少し休んでから部屋と同じ階にあるトイレへいき、金属の棚にある『打越』と書かれた歯ブラシで歯を磨いた。水道で口をゆすぎ、最後に和式のトイレで用を足す。通常通りのスムーズな動きだった。

 部屋に戻るとちょうど就寝時間の一分前で、床に毛布を敷き、電球を消した。毛布の上に寝転がり、目を閉じる。最後に身体情報をチェックすると、バイタルサイン、精神状態、ともに異常はなかった。そろそろ、いつもの挨拶が来るだろう。

「おやすみなさい」

 腕時計のスピーカーから挨拶を返した。

「おやすみなさい」

 ほどなくして、寝息を立て始めた。

 これ以上書くことがないので、今日の訓練はこれで終了とする。

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