第141話 新婚さんごっこ催眠

 パァン


「おはようございます、先輩。朝ごはんの準備ができてますよ」


 エプロン姿の詩音が、ベッドで横になる俺を覗き込みながらそういった。


「朝ごはん……?もう夕方じゃ……」


 目を擦りながら俺は言った。まだ頭がぼんやりしている。今は放課後なんだから、もう夕方では?窓の外を見ながらそう考えていると、詩音が腰に手を当てて、前屈みになりながら頬を膨らませて言った。


「もう!先輩、『新婚さんごっこをしてくれる』って約束でしたよね?」


「『新婚さんごっこ』?新婚さんごっこ……あぁ、そうだったな。ごめん」


 頭をふるふるとふりながら俺は応えた。確かにそういう約束をしたことを“思い出し”た。『新婚さんごっこ』がなんなのかいまいち分かっていないけれど、およそままごとのようなことだろう。俺の返事に詩音は満足げな笑みを浮かべると、軽やかなステップで後ろを向いて俺に呼びかけた。


「さ、先輩。早く起きないとお仕事に遅刻しちゃいますよ」


 その声を聞きながら、俺は詩音の腰からお尻にかけての滑らかな曲線に目を奪われていた。心拍数が急激に上昇する。——朝っぱらから何を考えているんだ?俺は。……いや、実際には夕方だから良いのか。

(夕方だから良いってこともないな)

 俺は顔が熱を持つのを感じながら、両手で目を押さえて起き上がった。


 いつものローテーブルには、典型的な朝食のメニューがふたつ置かれていた。目玉焼きとレタス、タコの形に切ったウィンナーに、味噌汁。それとご飯。全体的に量が少ないけれど、まあ、これはごっこ遊びなのだから。むしろ、食べ盛りの高校生としては、これくらいであれば間食として食べても夕食には響かない。


「では先輩、いただきます」

「いただきます」


 2人で手を合わせていただきますをした。俺は最初に、味噌汁のお椀を持って口に付ける。


「先輩。これは『新婚さんごっこ』です。新婚さんなら、甘いセリフを吐くタイミングですよ」


 詩音がひそひそとそう言った。俺は口の中にあった味噌汁を飲み込むと、一度咳払いをして、全力のキメ顔で言った。


「美味しいね、詩音。俺のために、毎日味噌汁を作ってくれないか?」


 その言葉に詩音は、両手で頬を押さえて身体をくねらせながら言った。


「もう、先輩ったら。何回プロポーズするつもりですか?私たち、もう夫婦なんですよ?」

「っ〜〜!!」


 その言葉に、俺は奥歯を噛み締めて真っ赤になった。いや、フリに忠実に応えたのに辱められるってどういうことだ。まあ、こんなに緩み切った笑顔になっているってことは正解なんだろうけど。


「でも、実際のところ毎日味噌汁って飽きませんか?」

「急に真顔になるじゃないか……」


 テンションの落差にガクッとしながら俺は言った。詩音は自信ありげに胸を叩きながら言った。


「私なら、味噌汁だけじゃなくてコーンスープ、お吸い物、かき玉汁とローテーションで作れますよ!」

「スープの種類の問題じゃないだろ……」

「何か嫌なことがあった日は、ストレス発散に死ぬほど飴色玉葱作って、そこから1週間はオニオンスープです」

「それ飽きないか!?」


 俺がツッコむと、詩音はくすくすと笑う。それからはっとしたような顔になって俺に聞いた。


「すみません、忘れてました。先輩は目玉焼きに何をかけますか?ケチャップ?タバスコ?」

「いや、どっちもかけないけど」


 タバスコ……?と思いながら、俺は皿の目玉焼きに目を落とす。


「じゃあ……もしかして、いちごジャムですか?」

「なんで赤い調味料縛りなんだ!?」


 俺はツッコんだ後、頭をかきながら言った。


「いつもは、焼く時に胡椒をかけてそれで食べてるかな」

「胡椒!?日本人なのに!?」

「その反応はなんだ!?」


 むしろどこ人なら胡椒が自然なのだろう。ポルトガル?


「私は断然醤油ですね。日本人なので」


 そう言って詩音は自分の目玉焼きに醤油をかける。


「……まあ、スタンダードではあるな」


 腑に落ちないところがあるが、反論がしにくいチョイスに言葉を飲み込む。と、そこでふと気づいて俺は詩音に訊ねた。


「……ケチャップでもタバスコでもないのか?」


 俺の質問に、詩音は食べかけの目玉焼きを飲み込んでからしれっと答えた。


「誰が目玉焼きにタバスコなんてかけるんです?」

「じゃあなんで選択肢に入ってたんだよ!!」


 俺の反応に笑ってから、詩音はそっと箸を置いて、傍らに置かれたメモにペンを走らせる。


「先輩は、胡椒派……と」


 俺は、なんとも言い難い気持ちになって息を呑んだ。


「詩音、俺にも醤油」


 俺がそう言うと、詩音は目を丸くしながら顔を上げた。


「え?先輩、でも——」

「別に胡椒じゃなきゃいけないってわけでもないしな」


 そう言って俺は手を差し出す。詩音から醤油差しを受け取ると、黄身の上に一周回すようにかけてから、一口で口に入れた。


「ああ、これはこれで美味しい」


 目玉焼きを飲み込んでそう言うと、見ていた詩音は口をぎゅっとつぐむようななんとも言えない顔をした。それから身を乗り出して、俺の皿のタコさんウィンナーを箸でつまんで言った。


「はい、先輩。あーん」

「んんっ!?」


 赤くなりながらたじろぐ俺に、嗜めるように詩音が言う。


「先輩、新婚さんなら嫌がったりしませんよ?」

「う〜……」


 そう言われて、俺はぎゅっと目をつぶって口を開けて、ウィンナーを頬張った。


「どうですか?美味しいですか?」


 詩音に訊かれて、俺は目を逸らしながら答えた。


「ドキドキして、味なんて分からなかった」

「そうですよね〜。先輩、『他のこと』に気を取られてましたもんね〜。先輩のエッチ」


 そう言って詩音は、身体を庇うように両腕を組んだ。


「ガハッ!!」


 俺はむせる。脳裏に焼き付いていたのは、前屈みになった詩音の襟元からのぞいていた、白い谷間。詩音は笑って、それから少し切ないような表情になって笑うのをやめた。


「……詩音?どうかした?」

「いえ、とっても楽しいんですが……なんか、将来の楽しいことを前借りしてるみたいで、ちょっと後ろめたくなっちゃいました」


 その言葉に、俺は少しだけ黙ってから言った。


「これは、ただのごっこ遊びだから」

「ええ、分かってます」

「——だから、本物はもっとずっと楽しいんじゃないかな」


 俺がそう言うと詩音は目を丸くして、それから笑った。


「ほんとですか〜?期待しちゃいますよ?」

「ああ、任せとけ」


 詩音の笑顔が柔らかくなる。


「じゃあ、残りも早く食べてください。あんまりゆっくりしてると遅刻しちゃいますよ?」

「ああ、そうだな」


 そう言って俺は白米を口に運んだ。


「ごちそうさま」


 食べ終わって立ち上がると、詩音も立って言った。


「ちょっと待ってくださいね。スーツを着せてあげます」


 そう言って詩音はハンガーにかけてあった俺のブレザーを持ってくる。俺は詩音に背中を向けて、ブレザーの袖に腕を通す。


「ネクタイも結ぶので、こっちを向いてください」

「結べるの?」


 少し驚きながら俺が振り向くと、詩音はドヤ顔で言った。


「練習しました!ウィンザーノット、ダブルノット、プレーンノットはもうマスター済みですよ」


 そう言いながら、少しぎこちない手つきでネクタイを結ぶ。


「はい!これでOKです」


 ネクタイの結び目を上げて詩音が言った。それから、何かを言い淀むように目を伏せる。


「詩音?」

「その……先輩はこれからお仕事なので……行ってきますのチューを……」


 耳を赤くしながら言う詩音に俺は目を細めた。


「詩音」


 俺はそう呼びかけながら、右手を詩音の頬に添えて顔を上げさせた。


「先輩……」


 左手を詩音の腰に添えて抱き寄せる。抱きしめながら、唇を重ねる。深く、深く。


「——っはぁ!先輩、行ってきますのチューなのに、こんなに激しくしちゃダメです……」


 切なげな声でそう言う詩音に構わず、貪るようなキスを続ける。それから耳に、首筋、鎖骨にキスをする。腰に回した腕で詩音を持ち上げて、ベッドに転がす。


「先輩、だめです。遅刻しちゃう——」

「後で体調不良だったって連絡する」


 そう言いながら俺はネクタイの結び目を乱暴に引き下げて解いた。


「せっかく結んだのに……先輩のエッチ」


 ——


「まったくもう。今はごっこ遊びだからよかったですけど、この調子じゃ将来が思いやられますね。まったくもう」


 詩音は、生まれたままの姿で俺の腕枕で寝ながら、ぷりぷりと怒った様子で言った。ただ、声色には弾むような嬉しい響きが隠せていない。俺は少しむくれながらも黙り込む。事実は事実で、反論できない。キスだけでこんなに興奮してしまうなんて、新婚というシチュエーションにアテられたのか——


「——まあ、先輩が発情してしまうのも無理はないんですけどね。認識阻害をかけていたとはいえ、身体までは騙せていなかったようですし」

「……え?」


 パチン。耳元で指パッチンが響く。


 今日の催眠は『新婚さんごっこをする約束をした』と思い込む催眠……ではないかと思うのだけれど、何か違和感が。


「先輩」


 呼びかける詩音の視線の先を見る。そこにあったのは、ベッドの上に打ち捨てられた、詩音を押し倒した俺が強引に脱がした詩音のエプロン、1枚だけ。


「っ〜〜!!」


 記憶を辿って、俺は真っ赤になる。詩音は同じくらい耳を真っ赤にしながら、俺の胸に顔を押しつけて言った。


「すっごく恥ずかしかったですけど、甲斐はありましたね」

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