第120話 甘いもの催眠

 パァン


「……?」


 トランス状態から目を覚ました俺は首を傾げた。目の前では、後輩の詩音がニコニコしている。いま俺には、なんらかの催眠がかかっているはずなんだが——


「先輩。甘いものとか食べたくないですか?」


 詩音がさも今思いついたとばかりに言ったその言葉に、俺は目を丸くした。


「食べたい。すごく食べたい」


 例えるなら、3ヶ月くらいダイエットでお菓子断ちをしていた人くらいの、『甘いものが食べたい』という衝動。


「分かりました、ちょっと待っててください」


 詩音は我が意を得たりとばかりにニコリと笑うと、とてとてと部屋を出ていった。見送った俺は、落ち着かない頭で考える。『甘いものが食べたい』というのが今日の催眠なのだろう。でも、なぜそんな催眠を?詩音がかけるとしたら、それはエッチな催眠のはず。


「お待たせしました、先輩。どうぞ」

「そういうことかよ!!」


 戻ってきた詩音が差し出した『それ』を見て、今日の催眠の意味を理解した。


「なんですか、先輩。突然そんな大声を出して。ただのたまごアイスじゃないですか」

「いけしゃあしゃあと……」


 呆れたように言う詩音を睨みながら、ハサミとたまごアイスを受け取る。たまごアイスというのは、厚いゴム風船にアイスが充填されたようなアイスで、先端の突起を切り取って中のアイスを吸うようにして食べる。その形状に由来してか、別名は……『おっぱいアイス』。


 唇を尖らせて、先端を口に咥える。唇に冷たい感触が触れる。ほほぅ、と息を漏らしながら、詩音がまじまじと見つめる。つまりはそういうことなのだろう。アイスを食べさせるという体で、俺の擬似的な授乳風景を観察するのが今回の催眠というわけだ。


 俺は目を瞑ってアイスを吸う。別に俺は、アイスを食べているだけだ。何も恥ずかしいことなんてしていない。そうしているうちにアイスが柔らかくなって、搾り出されてきた中身が舌先に触れる。


(あっ……)


 頭の中で陶然とした息を漏らす。催眠のせいか、舌先に触れる冷たい甘さがひどく心地よく感じる。口角が緩んで、表情が蕩けてしまうのが分かる。それでなくとも、実はこのアイスが割と好きだったりする。子供の頃を思い出すような天然ゴムの歯触りに、さっぱりとしたミルク味のアイス。


「先輩?美味しいですか?」


 訊ねる詩音の声が左側から聞こえて、俺は思わず目を見開いて叫んだ。


「アングルを変えて舐めるように見るんじゃない!」

「ああっ!ダメですよ口を離しちゃ!」


 詩音の言葉に我に帰ると、吸い口からアイスが溢れて親指の付け根に垂れていた。ゴムが収縮する力で押し出されてきてしまうのだ。慌てて指についたアイスを舐め取って、吸い口を咥えなおす。詩音がぞくぞくっと身体を震わせて、今にもよだれが出そうな表情をする。……美味しそうだと思ってるのは、アイスの方じゃないよな?この、スケベめ。そう思いながら詩音を睨むと、詩音はにっこり笑って顔を寄せて——


「先輩、美味しいでちゅか?いっぱいちゅっちゅできて、えらいえらいでしゅね〜」


 耳元でそう囁きながら頭を撫でた。


(あ゛あああああ゛ぁあぁ!!!)


 催眠で強化された味覚、口に広がる甘いミルク味、頭を撫でられる快感に、本来歳下の後輩に甘やかされる倒錯。理性が一発で崩壊し、精神が幼稚園児に退行する危機だった。その後も頭を撫でられ続けながら、精神力の限りを尽くしてなんとか持ち堪えてたまごアイスを食べ切る。最後の一絞りがぷぴゅっと口の中に溢れて、風船を口から離した時にはひどく息が上がっていた。


「なぜアイスを食べるだけでこんなに疲れねばいかんのだ……」

「……」


 俺が吐き出すように呟いていると、詩音は空になったたまごアイスの風船を見つめていた。


「詩音?」

「……使用済みゴム……」

「花の女子高生がそういうこと言うんじゃありません!」


 たしかに白く濁った液体がついてて、そう見えなくもないけども!


「先輩、甘いものはまだありますよ」


 詩音が立ち上がりながら言う。


「まだあるの!?」


 思わず叫ぶと、詩音は怪訝そうに首を傾げて訊ねた。


「先輩?それはポジティブな意味なのか、ネガティブな意味なのか、どっちですか?」

「もう自分でも分からない!!」


 頭を抱えてテーブルに突っ伏しながら叫んだ。絶対にまた恥ずかしい目に遭うことは分かってるのに、『甘いものが食べたい』という衝動はまだおさまらない。


「じゃあ、次のを持ってきますね」


 そう言って詩音がまたドアから消える。俺は頭を抱えたままため息をついた。次はいったいなんなのか。


「お待たせしました、先輩」


 戻ってきた詩音が手に持っていたものを見て、俺は思わず立ち上がる。


「作ったのかわざわざこんなことのためだけにチョコバナナを!」

「先輩、妙な倒置法になってますよ?」


 落ち着いてツッコむ詩音が持っていたのは、紛れもなくチョコバナナだった。黒々として、夏祭りの縁日でさえ見かけないくらいに大きい。


「食べないんですか?先輩、どうぞ」

「くそ、いただきます!」


 こんな状態でも、目の前の甘いものを食べずにはいられない。詩音が差し出したそれを受け取ると、俺は大口を開けてチョコバナナの先端を咥え込む。チョコの甘さが脳内で過剰に快楽物質を生成する。と、俺の口は唇でチョコをこそぎ取るように動いて、ポンっとチョコバナナを口から抜いた。自分で取った行動の意味が分からずに目を丸くして、詩音の方を見る。詩音は、さっきまでよりいやらしい笑みを浮かべながら言った。


「今の先輩は、甘いものは食べたいんですけど——バナナは食べたくなくなっているんです」


 つまり、付いているチョコだけを舐め取れということか。


「くそがぁっ!」


 それでも口はチョコバナナを舐めてしまう。チョコ美味しい、チョコ美味しい。


「男が黒光りする棒状のものを舐める絵面に、何の需要があるんだよ……!」


 反り上がったバナナの弧の外側を、下から上まで舌を這わせながら俺は言う。


「いいですよ先輩。もっと屈辱的に!もっと悔しそうに!」

「くっ!」


 ボルテージが上がる詩音に、俺は奥歯を噛んだ。嫌そうな顔をすればするだけ詩音の思うツボだ。とはいえ、例えば、こうやってチョコの甘さだけに集中して——


「せんぱい……」

「うっとりした声を出すな!!」


 陶然とした表情でバナナを舐めるのもそれはそれでエロいんだろ。分かってたよそんなもん!


「あ、先輩。写真撮ってもいいですか?」

「ダメに決まってるだろ!!」


 そんなこんなでチョコを舐め終わった時には、さっきまでより遥かに疲れ切っていた。手には、無残にもチョコを剥ぎ取られてただのバナナになった元チョコバナナが残っている。


「先輩、お疲れ様でした」

「……はい」


 つやつやな笑みを浮かべる詩音に、俺はそのバナナを差し出す。詩音は困惑した様子で首を傾げた。


「先輩?なんですか?」

「食べな」


 俺の言葉に、詩音は飛び上がる。


「はぁっ!?先輩、何言ってるんですか!?」

「俺は今バナナを食べられないし、もったいないだろ。まさか捨てるつもりだったのか?」

「で、でもそのバナナは、先輩がさんざん舐めまわしたバナナじゃないですか……」

「詩音の催眠のせいでな。自分がやったことの責任くらい、自分で取らないと」


 俺がそうダメ押しすると、詩音は目をぐるぐるにしながら返事した。


「わ、分かりました、分かりましたけど……」


 なおも渋る詩音の手にバナナを握らせて、俺はにっこりと微笑む。詩音は、3回くらい深呼吸をしてからバナナの先端を口に含んだ。


(……こうして見ると、ちょっとエッチだな)


 そんなことを考えながら、詩音がバナナを食べる姿を見つめる。


「先輩の唾液が、喉の奥まで……」


 消え入りそうな声で呟きながら、詩音がバナナを食べる。耳から湯気が出そうなくらい顔が真っ赤だ。いったい何を考えているんだか。まあ、スケベな詩音にはいい薬だろう。


「ぜー、はー」


 食べ終わる頃には、詩音はさっきの俺と同じくらい荒く息をしていた。俯いて肩で息をする詩音の頭を撫でる。


「ちゃんと食べられましたね。いいこ、いいこ」


 俺がそう囁くと、わずかに落ち着いた顔の赤みがさっきまでよりさらに強くなった。詩音は勢いよく顔を上げて立ち上がると、叫んだ。


「こ、これで勝ったと思うなよーー!!」


 そう言って涙目になりながら部屋から出て行く。


「ちょ、どこ行くつもりだ!ここ詩音の部屋なんだけど!」


 ——ところで、落ち着いて考えるとあのバナナ、詩音に催眠を解いてもらった後で俺が食べればよかったのでは?

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